「悲しき横綱の生涯 大碇紋太郎伝」と
   小菅刑務所の男について 
小栗照夫
 埋もれていた郷土の名力士、大碇紋太郎の生涯を西まさるさんが見事に掘り起こしてくれた。これにより今まで謎に包まれていた大碇の人生や、その男気溢れる彼の生き様を知ることができた。
 私は、著者西さんの傍らにいて、彼の取材振りや苦労の有様を見ていたので、この出版はことのほか感慨深いものがある。
 西さんが最も苦労された点は、河上肇と「大碇と名乗る男」の扱いであった。その一幕の記述に2年も辛酸されていたことを私は知っている。
 河上肇が小菅刑務所で会った「元幕内力士、大碇と名乗る、綱手という男」が大碇紋太郎その人であるかどうかは分からない。ニセ者である可能性も高い、だが絶対に本人でないという証明もできない。
 その辺りの処理を西さんはどうするのか、私は興味津々であった。
 本が出来上がって来た。私は仕事をほったらかして一心腐乱に読み耽った。大碇紋太郎のドラマチックな人生を生き生きと描き上げる文脈、涙を誘うシーン。何より大碇紋太郎に対し、深い愛情をそそぎながら書き上げているのが印象的であった。
 そして私が最も気にしていた「河上と綱手」、即ち、小菅刑務所にいた大碇と名乗る男の問題は、こう処理されていた。
 「しかし、大碇は世話のかかる男だ。とうとう死に場所も明かさなかった」。
 基本的には分からないの結論。当然である。
 しかし、朝日新聞、中日新聞が、この本「悲しき横綱の生涯」を大きく採り上げた。それを読んで私の友人の数人が、「大碇は強盗殺人犯だったのか」と言って来た。
 「ちゃんと本を読んでよ」と言っておいたが、その部分だけが一人歩きする危惧を私は感じた。そしてこれを書いている。
 西まさるさんは降りそそぐような愛情で大碇紋太郎を描きあげていて、一片の悪意もない。西さんが書きたかったのは「運命という波に翻弄されながらも、自分を貫いた大碇紋太郎というスーパースター」なのである。

 千代倉さんごめんなさい 
西 まさる
 写真は半田市乙川若宮町の清涼山海蔵寺の本堂の隣に建つ庫裏。庫裏とは僧侶の居宅である。
 総二階、一部三階で銘木をふんだんに使った堅牢な建物は、鳴海の千代倉(下郷家)の本宅だったもの。それを昭和30年に海蔵寺に移築した。
 ここまでは間違いなし。
 ところが、この本宅の移築の経緯を私達は早合点してしまい。『終戦後、財閥解体などの影響があったのだろう、下郷家は没落の一途を辿り、手持ちの美術品や道具類を売って凌いでいたようだが、昭和30年、ついに本宅を売り払うに至った』と書いてしまった。
 過ちである。正しくは、「昭和19、20年の東南海・三河地震で海蔵寺は大きな被害を受け庫裏は全壊した。庫裏を失うのは住まいを失うこと。それを気の毒に思った下郷家が、空いていた建物の一つを寄進した」のである。
 「どういうご縁で海蔵寺さんと…、は調べておくが、移築費用も下郷がお出ししたと聞いている」。
 これは先日、西が下郷家の方に直接お聞きしたことである。
 下世話な人間は自分の物差しで価値判断をしてしまう。昔日の勢いはなくとも天下の千代倉。本宅まで売るわけがない。
 ごめんなさい。
(西まさる=はんだ郷土史だより18号より)
*なお、海蔵寺さんの庫裏は、ご住職一家の住居につき、内部の見学はご遠慮ください。


 傍説・清水次郎長傳 
西 まさる
「男稼業はつらいよ」・・その1・・

 清水次郎長というスーパースターがいた。ヤクザ者とはいえ超有名人だから、おおかたは名前くらいはご存じだろう。そして次郎長は、ほとんどの人にこう思われている。「義理人情にあつく、弱きを助け強きをくじく、海道一の親分、男の中の男」。ヨッ!と掛け声の一つも出そうな、いい男である。
 しかし、その偶像(ポテンシャル)は浪曲や芝居、映画が作り上げたもので、実際の人間次郎長とは、かなり遠いものだ。
 そりゃそうでしょう、人助けや弱い者の味方ばかりしていたのでは、ヤクザ稼業は成り立たない。子分におまんまも食べさせられない。とかくヤクザは銭のいるものである。
 清水港は鬼より怖い、大政小政の声がする、なんて台詞を紹介するまでもなく、次郎長には二十八人衆といわれる直参の子分がいた。二十八という数字そのものは怪しいが、まあ、細かいことは言うまい。大事なことは、その子分衆に、更に大勢の子分、身内がいるということである。それに二十八人が清水の次郎長の家で集団生活をしているわけではない。それぞれが家庭を持ち、なかには一家を構える親分もいる。そんな連中が、シマといわれる縄張り、すなわち利権を次郎長から預かって非合法に稼ぎを上げ、生きているのだ。
 親分と子分の関係はそんな経済的結び付きが主なのであって、義理や人情はその為の口実と言っていい。だから、親分は子分の生活を維持するため奮闘する。しかし、非合法手段での継続的な入金はそう楽なはずはない。次郎長親分も例外ではなく、日々資金調達に四苦八苦していたと思っていい。

 清水次郎長は頭の良い男である。それもそのはず25歳までは大きな米屋の若旦那。商売人としても立派にやっていた。ちょっとした行き違いでヤクザになったのが26歳。ヤクザデビューとしてはかなり遅いものだ。
 当時のヤクザ者は、貧乏人の食いっぱぐれが、ぐれてしまって暴れ者に、が、典型である。頼りになる親戚も学問も金もない連中ばかり。その世界に次郎長が小金を懐に入ってきた。
 さっきまで商いをしていた次郎長、人を使うことは慣れている。まして相手は飯さえ食わせておけば意のままになる連中。一気に次郎長は兄貴分となった。
 さて、この続きは近日中に。
 何? なぜ、はんだ郷土史に次郎長ってかい。次郎長の養女おけんは乙川村(現・半田市)の出身。次郎長の女房、3代目おちょうは三河藩藩士の娘といわれているが、これは疑問。彼女も乙川村縁の女性である。
 そんなことで次郎長さんは乙川村縁の人。この村に残したエピソードも多い。乞うご期待!



 豪商・千代倉を探しています 
竹内 貞芳
  知多半島の北端にあって東海道の宿場町としても有名な鳴海。そこに千代倉という屋号をもつ豪商がいた。家名は下郷(しもさと)である。
 千代倉は、尾張城にアポなしで入れたなど、尾張徳川家と強い繋がりを示す逸話が多く、実際、同家に残る「千代倉日記」には尾張家の家老で大名の成瀬家から毎年暮れに歳暮が欠かさず届いている記載もあって、その豪商ぶりが偲ばれる。
 また、東海道五十三次には、大名向けの「本陣」が各宿場にあったが、東海道中最大の面積を持つ本陣は、鳴海宿下郷家で、676.5坪。これは本陣の平均の3倍であったというからかなりの差。東海道でも飛びぬけた大店だったのだろう。
 主な仕事は酒造、酒販だったようで、知多郡の東浦酒造大行事を務めるなど知多半島の酒造販売に大きな利権を持っていたようだ。
 また、当主の下郷知足は俳人で芭蕉のスポンサーであった。
 そのあたりは俳句の研究者が詳しいだろうから細かくは書かないが、あの有名な「野ざらし紀行」「笈の小文」の出発点も終点も下郷家のようだし、「おくの細道」も知足が深く関わっているようだ。また、あの与謝蕪村も山口素堂も下郷家に出入りしていたと思われる。
 私が千代倉に興味を持ったのは、私の郷土、半田市乙川にある「海蔵寺」の本堂に隣接して建つ庫裏が千代倉の本家の移築物だったことを知ってからである。
 太平洋戦争後、財閥解体などの影響があったのだろう、下郷(下里)家は没落の一途を辿り、手持ちの美術品や道具類を売って凌いでいたようだが、昭和30年、ついに本宅を売り払うに至った。
 実は、その工事を請け負ったのが私の祖父・竹内重次郎だった。その愛着もあり、どうもこのところ千代倉にはまってしまっている。
 そんな有名な千代倉だが、意外に資料は少ない。例えば、この本宅の建築年も不明。また、酒を江戸へ運ぶ船を持っていたはずだが、その記録。
 千代倉の情報などお知りの方は、ぜひお教え願いたいと思う。私もできるだけ知り得たことは積極的に発表するつもり。ぜひお力をお貸し願いたい。
*なお、海蔵寺さんの庫裏は、ご住職一家の住居につき、内部の見学はご遠慮ください。
(H19.6.30)


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