記事一覧

2017.01.01

 謹賀新年 西まさる&はんだ郷土史研究会

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謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

 昨年一年、『はんだ郷土史研究会』は10数年の倣い通り、例会は一度も休まず遅れず開催できました。『はんだ郷土史だより』も遅れることなく隔月発行を続け、70号をお届けできました。
 この牛歩の歩みを酉年も続けていきたいと思います。

 西まさる個人のこと。
 昨年は疲れました。病気は快方に向かいましたが、体力、気力の低下は補いようがなく、今まで1~2日で出来ていた雑文程度の仕事が1週間もかかるといった有様でした。
むろん、纏まった本などは出来ようもなく、残念、無念の日々でした。

 今年こそ……。
 『新吉原遊郭を造った男たち』を纏めたい。これを決意の第一に置きたいと思っています。

 では、本年も変わらぬご指導のほど、深く、願いあげます。

2016.12.13

 忠臣蔵 勅使饗応料理の全て。研究者の徒労

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 研究者が世の役にも立たぬことを夢中になって調べ、鬼の首を取ったように喜々として発表しているーー と、今さら自虐的に言うつもりはないが、忠臣蔵の季節になるといつも思い出すのは「勅使饗応料理」の献立を懸命に調べたことだ。そして、鬼の首を取ったように喜々として発表したぼくの姿だ。
 そんなもの、誰も興味を示さなかったのに。

 浅野内匠頭と吉良上野介の喧嘩のネタは数々語られているが、その一つは、勅使に出す料理だった。
 本膳料理か精進料理かのやりとりだ。その日に実際に出した料理の献立を調べた。ちょっと苦労したが次の献立だった。

 この献立を拙書『忠臣蔵と江戸の食べもの話』(新葉館出版)に書き、少々は話題になると思っていたが、見事、空振りだった。
 悔しいから、ここに書いておく。
 興味のない方は読まなくていいゾ!

 勅使の前に、まず三つの三方が出る。ここから会席の始まりである。
 三方の一つには敷紙に長熨斗。
 一つには雑煮椀、梅干盛、田作盛。
 三番目の三方は蓋置きである。
 その三方がすべて片付けられ、いよいよ三汁十一菜の本膳料理となる。

 ○本膳は、
 膾(鯛・よせ赤貝・白髭大根・木耳せん・栗生姜・金かん)。
 香の物(奈良漬瓜・守口大根・粕漬茄子・味噌漬人参・味噌漬なた豆・塩山椒)。
 煮物(ひらき鴨・色紙麩・つみせり)。
 汁(つみれ・しめじ茸・葉大根・薄皮牛蒡・めうど)。
 ご飯。
 ○二の膳は、
 杉箱(結えい・花形山吹・穂くわい・広岩茸・八重成・敷みそ)。
 小桶(のしもみ)。
 汁(鯛背切・木の芽)。
 酒浸(塩引鮭・もみしめ貝・黒くらげ・よりかつお・山川酒)。
 ○三の膳、
 差し味(鯉子付・かき鯛・えんす・海そうめん・くねんぼ・わさび)。
 煎酒。
 汁(わかめ)、茶碗(花みる貝・土筆・かけしお)。
 ○与の膳、
 向詰(小鯛・かけしお)。
 ○五の膳、
 洲浜台(大坂かまぼこ・みの焼あいなめ・あんかけたいらぎ)。
 平皿(甘鯛ふわふわ・みの笠茸・鍵わらび)。

 以上が、五の膳の三汁十一菜である。

 これが勅使饗応料理の全て。苦労して入手した原典通りである。
 しかし何だね。こんなものを長い時間と労力を費やして調べる、物書きや研究者は、淋しい人種だね。
 では、ご機嫌よう。

2016.12.07

 吉原遊郭の揚屋 尾張屋清十郎の生家?

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 新吉原遊郭を支配した張本人、尾張屋清十郎。彼は尾張国知多郡須佐村の神職・禰宜左衛門の子であることが分かった。禰宜左衛門の神社は須佐村高浜の「土御前社」である。つまり清十郎の実家はここだったといえる。但し、清十郎がここに暮らしていた時の神社は写真の場所でなく、もっと山頂近くだった。

 この土御前社は知多最古の寺「極楽寺」に隣接していて、ともに「求聞持山(ぐもんじ)」の山腹にある。
 求聞持山の山頂には、昔、修験者が修行していた「五文敷」という聖地のような場所にあったことは『極楽寺の歴史』などで分かっていた。多くの修験者たちがここで心身を鍛えていたのだろう。

 土御前社は切り立った山の上の社というから、小さな祠があるだけとの先入観をぼくは持っていた。だからわざわざ訪ねる気にもならないでいた。
 『新吉原遊郭と尾張・南知多衆(仮題)』をいよいよ上梓する段階になって、一度行ってみるか、と重い腰を上げた。行ってびっくり、こんな立派な神社だった。
 写真をみてほしい。
 写真㊧の長い階段をどんどんと登るのだが、上部の左に小さくみえるのがかつての五文敷への登り口。鳥居がたっている。
 写真㊥ 明治のものだが、「吉原」「松本」「家田」との家名。思いが巡る名前だ。
 写真㊨ ここから数百歩上に「五文敷」があった。修験者の高下駄と法螺貝の音が聞こえそうだ。ついでに書くが写真の男はぼくである。杖もなしでスタスタ… ではないが元気なものだ。

 尾張屋清十郎こと松本清十郎の生家はここかもしれない。生家でないとして、この地が彼の実家である可能性は極めて高い。
 ここに何かの物的資料(エビデンス)が眠っている。そして、それがぼくに「おいで、おいで」をしているのである。

 

2016.11.28

 いただきもの万歳! 西まさる編集事務所にボンショ!

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きょうはいい日だ。
当事務所にいらっしる方々が何故か、手土産を持って来てくださる。
いつもはまるでないことが、きょうは奇跡のように起こっている。

友人の猟師が自分で獲ったタコを干してつくった通称「ひっぱりタコ」をくださった。干してもこの大きさ、元々の立派なタコが想像できて感激する。このまま炙って酒の肴もいいし、水で戻してからたこ飯にするもいいと言う。わが家は肴に決まってる。

ご自分の庭で穫れた「ぎんなん」を持って来たくれたのは成岩のSさん。すごい量だ。たっぷりの塩で炒めるといいという。なるほど。

よしよし、今夜は「タコ」と「ぎんなん」で一杯飲るぞ、と思っていたら、何と望外の良い酒が飛び込んで来た。焼酎の銘酒「萬膳庵」だ。これは高価なプレゼント。これは大事に飲まなきゃ。

すると何と、別の方が「もらい物だけど俺は飲まないから飲んで」と「二階堂」が。「これは焼酎の宝箱や!」とご機嫌である。

あれあれ、きょうはどんな日だ。盆と正月が一緒に来たよな、ボンショだ!

すると優子のコーラスの生徒さんがひょっこりと顔を出し、「カリン」を一袋置いていった。

ボンショにクリスマスが合同! 
あすが怖いような、きょう一日でありました。

2016.11.21

 吉原遊郭 尾張屋清十郎こと松本清十郎

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 ここ数回、当会の『ふるさと講座』では、「新吉原遊郭と尾張・南知多衆」と題して、新吉原遊郭を〝建設し〟〝遊郭を支配した〟のは松本清十郎を筆頭にする知多半島の須佐村の男たちだった、という講座を続けている。
 思えば、この件を発見したのは10年ほど前、以来、各地の講演などを含め、何十回もこの発表をしている。
 但し、ぼくの話が既存の伝承とは違う、いわば新発見であることからだろう、皆さんは、なかなか素直に受け入れてはくれていないようだ。
 そして再々、松本清十郎について「実在の人物だったのか」などの質問が来るので、ここで少しだけ書いておきたい。
 今回は清十郎のプロフィールと当時、江戸で彼がどのようなものであったかのかを文献からみてみる。

★松本清十郎(尾張屋清十郎)
 揚屋清十郎と呼ばれることもある。(不明~元禄5年(1692))
 尾張国知多郡須佐村高浜の出身、神官、禰宜左ヱ門の子。小佐村に寺院を寄進しているので、小佐村の出かもしれない。禰宜左ヱ門は土御前社など須佐村、小佐村、中須村などの神社を複数掛け持ちする宮司だろう。
 明暦2年(1655)の新吉原遊郭誕生と同時に、揚屋「尾張屋」に主人となり、他の須佐村出身者(分かっているだけで14軒)のリーダとして存在した。揚屋は宝暦の頃には吉原ではなくなる。最後の揚屋は「尾張屋」で、この時の主人松本清十郎は3代目だろう。

★吉原遊郭の中の清十郎
①、『吉原大全』に下記の記述。

 寛文七年の犬枕に、ふかきものゝ部に、「あげや清十郎」と見ゆ。その住家の大なるも思ふべし。

②、尾張屋清十郎の庭に、「通う神」の道祖神(地蔵堂?)があり、吉原の遊女たちの信仰を集めていた。遊女たちが客に手紙を送る時、綴じ目に「かよふかみ かわんじゃう」(=通ふ神 勧請)と書くと、手紙が無事に客の許に届き、願いが叶うとされ、それがひろく遊里の倣いとなっていた。

③、吉原には井戸がなかったが、最初に井戸が掘られたのは尾張屋の前だった。
 『吉原大全』から。

 元禄宝永の比。紀伊国屋文左ヱ門といゝし人。あげや丁・尾張屋 清十郎かたにて。はじめてほりぬき井戸をほらせしに。水おびたゞしく湧き出。ことさら名水なりければ。皆々この水をよび井戸して遣ひけり。中の丁のすへ。呼戸樋(よびとい)のとまりなれば。水戸尻といふ。紀文此井をほらせし時。祝義として。舛にて金銀を斗(はか)り。まきちらしけると。今にかたり伝へ侍る。

④、井原西鶴が『好色一代男』の中で次のように清十郎を書いている。つまり当時のベストセラー作家がモデルにするほど有名だった。

 まづは吉原の咄聞きたし 新板の紋尽し 紅葉は三浦の(高尾)太夫と 評判記なるものを読むが早いか 心ときめき 花の散らない先に さあ 出かけよう と吉原をめざして 一目散 大門口の茶屋 揚屋尾張屋清十郎方にいけば  さすが 御名は 予てより 受け給わっておれば 八畳敷きの小座敷に案内するのでありました

⑤、江戸の毒婦を代表する「妲己(たっき)のお百」。歌舞伎・浄瑠璃・怪談で有名。世にもまれなる美貌だったという「お百(於百)」は、清十郎の後妻になっている。そして数年後、お百は佐竹藩の重臣の妾に譲り渡された。(=秋田騒動になる)

 等々、明暦から元禄にかけて松本清十郎はスーパースターだったことがよく分かる。この清十郎を掘り下げていけば「新吉原遊郭誕生の謎」も解けてくる。
 さて、この続きはまた。

2016.11.18

 大阪行き

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 杖を片手に大阪に行って来た。疲れた。身体が充分に動かないということが本当に辛いことだと実感した。健常者のみなさん! どうぞ健康は大切に、大切にしてくださいよ。

 朝7時に武豊線に乗車。通勤時間帯なのでほぼ満員。でも話し声ひとつ聞こえない。実に静かだ。数百人はひとつの箱に中にいて何の音もないのは不思議にさえ思った。
 人は人と話すことに疲れているのだろうか。

 大阪に着いた。
 大阪環状線に乗った。乗車率は50%もないのにうるさいほどの話し声だ。大きな声の会話が飛び交う。
 「さすが大阪や」と思ったが…、違う。中国語だ。ずっとずっと休まず喋り続けている。4人ほどの会話が車内を占領している。これだけ大声で喋ることがよくあるものだ。まして他人の迷惑など意にも介しないようだ。文化の違いとは恐ろしい。
 うるさい! と怒鳴りたくなったが、日中友好関係を優先して我慢してやった。

 今回の大阪行きは被差別部落の歴史を探る取材だ。場所は大阪、浪速区・芦原橋駅の近所の一帯。江戸時代以前から被差別部落が点在した地域で、現在も『大阪人権博物館(リバティおおさか)』などがある部落解放運動のメッカともいえるところだ。
 ここで関係の方と会う。

 芦原橋の駅を降りる。昔から何度も来ているが15年程前に最後に来た時とまるで変わっていない印象だ。町並みも町の雰囲気にも変化は感じない。「人権問題にも変化はないのだろうか…」とつい思ってしまう。
 街角には「人権啓発」のポスターがあちこち貼られているが、それ以外は町の歴史を物語るようなものはない。
 無事、取材は終えた。良いも悪いも想定内の結果だった。

 疲れた。
 きょうは昔馴染みの千日前の「自由軒」で「名物カレー」を食い、昔馴染みの「立ち飲み屋」に寄って、湯豆腐と水茄子で生ビールを2杯飲む予定だった。その旨、女房にも高らかに宣言して出かけた来たのであるっ!。
 しかし、店の前まで来ても入る気になれない。疲れ果てているのだ。
 もういい! 一目散に帰途についた。

 ああ!大阪 の一日であった。

2016.11.01

 明治17年の亀崎邨の地図

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 『はんだ郷土史だより』69号で明治17年の亀崎の地図を紹介した。亀崎の豪商家・伊東合資さんから出たもの。
 『はんだ郷土史だより』は一色刷りで不鮮明なので、ここに添付している。
 あえて大きなままの画像にしている必要な箇所をみていただきたい。
 なお、無断転載はお断りする。(郷土史だよりに掲載以外の所有者の許可を得ていない)
 研究のため必要な方は、当方にメールをしてほしい。貸出できるよう協力する。
 この地図の内容や詳細は本紙にある。

2016.10.29

 小学生が次々と

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 突然、事務所の戸が開く。 
 「すみません~! 西の宮貝塚のことを教えてください~」。
 小学3年生という。

 30分後、また。
 「すみません~! 西の宮貝塚のことを教えてください~」。
 今度は母親が一緒だ。母親は小学生の少し後で、ぼくに会釈をするというか、睨むというか、「よろしくお願いします」と口では言うが、「うちの子にちゃんと親切にしないと私が許さない!」という顔で立っている。

 半田市乙川の西ノ宮池近辺に残る貝塚は人骨も貝殻も出た縄文遺跡だ。だが、ぼくは古代史の研究家ではないし知識も薄い。だが、児童たちが「すみません~! 教えてください~」と来る。
 学校で研究発表のテーマが出され、その一つが地元の「貝塚」「古墳」などという。こんな専門外のことをぼくに振られているようだ。しかし児童たちはぼくが専門家と思い、ノートを手にやって来ている。
 まさに困ったものだ。

 これには心当たりがある。
 数年前、乙川小学校の4年生の社会授業の一貫で「西の宮貝塚」が採り上げられ、30人ほどの児童の前で、ぼくが不確かな話をしたことがあった。その時の記録が学校にあって、今の先生がぼくの名をあげたのだろう。

 「すみません~! 西の宮貝塚のことを教えてください~」。
 おいおい、また来た。シャッターを下ろして居留守をつかうとするか。

 写真は「二子塚古墳」。前方後円墳である・阿久比町宮津公民館の前にある。前の駐車スペースと比べると分かりやすいが、小ぶりなものだ。
 この古墳の真贋も論が分かれている。学者でも決められないものをぼくに訊きに来るな、と言いたい。
 早よ、シャッターを下ろそう。

2016.10.22

 突然現れる故郷

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 「脳梗塞記念日」その3である。

 生きるか死ぬかの瀬戸際にいたのは確かだが、激痛を伴うわけではなく、それこそぼんやりと三途の川で船を待っているような感じだった。
 三途の河原で酒盛りこそしなかったが、もう識者はお分かりのことと思うが、この光景は上方落語の名作『地獄八景亡者戯』(じごくばっけい・もうじゃのたわむれ)そのものである。
 死の間際に落語とは不謹慎! だからこそ船頭は逃げたのかもしれない。
 しかし何ですな、人間、死のうとする間際、案外とつまらない夢を見るものですな。

 その夜だったか次の夜だったか、ぼくの脳裏に俳句が一句、浮かんでは消えなかった。まるで記憶にない句だ。ぼくの作品でもない。
 
   物書きて扇引さく余波哉 (ものかきて おおぎひきさく なごりかな)

 ぼくの記憶にない句がはっきりとみえる。聞こえる。
 何だこの句は? 何なのだろう? と思いながら数ケ月、退院したぼくはネットで検索。すると一発で解明する。作者は芭蕉。有名な句だった。
 芭蕉の『奥の細道』の旅の終盤のこと。金沢から加賀、越前丸岡まで芭蕉を送って来たのは、後に「蕉門十哲」とされた北枝という俳人。芭蕉が彼との分かれを惜しんで詠んだ句だった。
 ああ、そうだった、知らないわけがないのだが、すっかり忘れていたようだ。その句が死の間際にいるぼくの肩を叩いたのだ。
 句の解説はこの場では止めておくが、別れの淋しさに溢れる秀句だ。

 ところがですな。ぼくはこの句を記憶していなかった。『奥の細道』にある60数句はほとんど知ってるはずなのに、この句の記憶だけは飛んでいた。
 でも、ぼくの死の間際、ぼくに語りかけてきた句は、まさにこれなのだ。
 わが故郷、金沢そして加賀路の句なのである。

 物書きで歌人のぼくが、故郷を忘れ、辞世の歌も遺さずに死ぬことを閻魔さんが怒って、ぼくにこの句を思い出させたのかもしれない。

 ならば狂歌、腰折れ一首。

   「物書きて扇引さく余波哉」引き裂きそこね戻るこれの世

 ではまた。

 写真は丸岡市天竜寺にある「余波の碑」。雪の日に防寒のゴザをかぶせてあるのが面白いので、ネットから無断コピペ。このような防寒用のかぶり物を加賀地方では「ゴザ帽子(ござぼし)」と言っていたっけ。

2016.10.19

 地獄八景亡者戯

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 「脳梗塞記念日」その2である。

 昨年10月6日の深夜、半田病院のICUで気を失っていた。
 ぼんやりした記憶の中だが、ぼくは、どうやら地獄の入口にいるようだ。どこかで見たような、薄い煙というか靄というか、そんな中にあの世界が見えるのである。
 こうして死ぬのだな……、と思っていた。

 そこに川がある。「これが三途の川だな」と廻りを見ると数百人もの人が、やはり、ぼんやりと佇んでいる。
 「この人たちもあちらの世界に行くのだ・・」。

 そこへ船が来た。
 船頭がいて、船賃を集めている。
 「料金がいるんや」。
 船頭がぼくに、「あんたは6400円!」と言う。
 「えらい高いや」とぼく。
 「タバコを吸ったやつは、ぱっぱ、64や。6400円!」と船頭。
 「ぼくはタバコを10年も前に止めた」
 「なら、半分でいい。3400円!」
 「そりゃ半分と違うよ。半分なら3200円やろ!」
 「うるさいやつだな! お前は乗せてやらない!」。

 船はぼくを乗せず行ってしまった。
 どうやらぼくは三途の渡しの船頭に嫌われたようだ。
 「嫌われ者、世に憚る」
   ・・お後がよろしいようで。

 以上は作り話のようだが、ぼくが実際にその夜、見た夢そのものである。
 そして、地獄行きの三途の渡し船に乗り損ねたぼくは、何となく今は生きているのである。

 近日のその3をお届けする。


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