明治23年3月31日、陸海軍聯合大演習の時の、明治天皇の足跡を調べていたら、驚いたことが分かった。
あれも、これも予定外の行動だったのだ。
「天皇が予定していた亀崎に行かなかったわけ」。
「天皇が、雁宿の山に行かなかったわけ」。
「天皇の足跡碑が10年以上も建たなかったわけ」。
こんどの例会(5月17日)でわかります。
明治23年3月31日、陸海軍聯合大演習の時の、明治天皇の足跡を調べていたら、驚いたことが分かった。
あれも、これも予定外の行動だったのだ。
「天皇が予定していた亀崎に行かなかったわけ」。
「天皇が、雁宿の山に行かなかったわけ」。
「天皇の足跡碑が10年以上も建たなかったわけ」。
こんどの例会(5月17日)でわかります。
最近、一枚の写真が気になっている。その写真は古写真と言える程古くはないが、服装から想像すると明治末年から大正時代にかけてのものであるように思う。西欧人に見える男女が7名、日本人と思える男女が8名写った団体写真である。しかも、主賓と思われる前列中央は中年のご婦人である。また、その写真は大きな体育館のような建物の中で撮られたものである。しかも、巨大な機械を背景にしている。
大いに興味をそそられるのであるが、撮影された日付も場所も分からないので妄想をたくましくするだけである。私の妄想はそのご婦人は川上貞奴ではないだろうかと思うところまで行ってしまっている。皆さんにも妄想を起させてしまうといけないので、ここではその写真は掲載しないことにする。ただし、本物の川上貞奴の写真をお楽しみいただきたい。
*写真は本物の川上貞奴
5月になった。
ぼくが若かった頃、5月1日はいつもよく晴れて、歌声が晴れた空に響いていた。
何万人もの人が列をなし、旗を掲げ、歌いながら歩いていたものだ。
若いぼくは、若くてきれいな娘さんの目を気にしながら、大声で歌っていた。若い娘さんもチラチラとぼくを見ていた…
そんな時代、ぼくたちは貧しかっただろうか。
今はそんなに裕福だろうか。
良い世の中になったとは思うが、何か足らないのも事実だろう。
もうメーデーは、5月1日にはやらないらしい。
長くメーデー会場には行っていないが、今でも「赤旗」や「がんばろー」など労働歌は歌っているのだろうか。
5月1日。きょうもよく晴れた日だ。でも心はなぜか晴れない5月1日である。
亀崎の立川美術館で4月25日~5月10日の期間で行われている再興立川展を見てきた。祭りの彫り物はそれなりに見慣れているが、今回は知多市新田小学校の門に飾る登竜門の彫刻の展示もあるということで、出掛けていった。これは昨年、我々はんだ郷土史研究会が「信濃路の旅」でわざわざ見学した開智学校にならい、製作するということだそうである。さすがに学校の門につける彫刻ということで大きく、また白と金で彩色されており立派であった。
立川をまだまだ、タチカワと読む人も多く認知度は一般には高くないようだ。だが、立川流彫刻(たてかわりゅうちょうこく)は知多地域、特に半田市内に多くの山車彫刻を残し、地元の彫常や岸幕という彫師が育つきっかけをつくったことは大きな功績だと思う。
*写真は新田小学校に飾られる間瀬恒祥作の登竜門の彫刻
先週、半日だけであるが豊橋へ行ってきた。新幹線で何度も通過しているので、なじみがある街である。しかし、豊橋駅で降りたのは実は初めてである。駅前を歩いてみて、最初の印象は少し前の名古屋に似ていると感じた。道路の道幅がけっこう広い。路面電車が走っている。丸栄デパートがある。そんなところからかつての名古屋と同じように思ったのかもしれない。
路面電車は全国的には少しずつなくなりつつあるようだ。東海地方では名古屋以外では岐阜にあったが現在では、ここ豊橋だけになってしまった。東京・大阪にもまだ路面電車があると聞くが、公共輸送の主力とはなっていない。東京では西早稲田まで都電荒川線が来ていて、何度も見たことがある。やはり、大都会の中ではレトロな感じがするものである。
豊橋の路面電車は街にピッタリとマッチしているように思った。少し見ていると電車の色が違っているのが気になった。青い電車の後ろから黄色いのがやって来た。遠くの方に赤く見えるのもある。何種類あるのか分からないが、名古屋の市電(路面電車)は確か同じだったような気がした。子供の頃のように電車を見てちょっと喜んでしまった。
先頃発表された就職希望ランキングで、トヨタは前年の6位から96位へと順位を下げたことが報道された。他の自動車や電機関連の企業も同じように順位を下げている。ニュースとしては「さもあらん」と納得するのであるが、本音としては「近頃の大学生は」と言いたくなる。
トヨタを初めとした自動車会社の財務内容・技術・将来性を他企業と比較してのものだろうかと疑問に感じてしまう。トヨタの内部留保は13兆円とか20兆円とか言われている。今年数千億円の赤字になっても全く問題ない数字である。
今年に入り上場企業の倒産が相次いでいる。何十年も先を見通すことは専門家でも中々難しいことである。戦前まで話を広げなくても、石炭から石油へのエネルギー転換が起こる前と後では主要産業の顔ぶれは大きく変わった。来年は超就職氷河期を迎えることになるようである。しかし、安全思考なら公務員という選択ばかりではなく、自分の適性を見極めて職業を選んでもらいたい。
豊田佐吉が中国大陸への進出をしようとした時、「障子を開けてみよ、外は広いぞ」と言ったといわれている。しっかりした選択眼を養った上で、大いに悩み、そして大胆に決断してもらいたいものである。
先週の9日号の週刊文春にトヨタ関連の記事があり、ついつい買ってしまった。特に佐藤正明氏が書いているということで興味をもったこともある。佐藤氏は「ハウスオブトヨタ」の作者として、よく知られている。タイトルは「トヨタ“世襲礼賛”報道に異議あり」というものである。さすがに経済ジャーナリストだけあって、はば広い知識とネットワークを持っているようだ。
しかし、この記事を読んで少し違和感を覚えた。本当にタイトル通りのことを考えて書いた記事であろうかということである。この疑問は直ぐ解けた。佐藤正明氏のホームページに自ら答えを書いていた。週刊誌のタイトルは、「・・・羊頭狗肉と冷やかされようが・・・」とあり、また「9日号は15日発売の「トヨタストラテジー」の終章のエッセンスです」とある。即ち、自分が書いた本の重要部分を利用したのである。別にそのことを非難しているのではない。だが、自分の本の宣伝であるとまでは言わないが、真っ直ぐタイトル通りのことを主張した記事ではないことは確かである。
この記事の中で、松下家(パナソニック)の世襲に対する分析、豊田家の番頭と創業家についての記述に関して、私自身は違う認識を持っている。これについてはまたの機会に書いてみたい。
明治23年3月、陸海軍合同大演習の統監のため明治天皇は、武豊、半田、乙川、刈谷方面に来られた。その行幸の足跡は分かっているようで分かっていない。もっと言えばかなりテキトーで後付もありそうだ。
わが会が乙川行幸記録の公文書を入手したこともあり、近く刊行される「知多半島 郷土史往来」に「明治天皇乙川行幸全記録」を掲載することにした。
その調査の一環として、天皇が歩かれた同じ道を歩いてみた。天皇は、豪雨の中、乙川郷中で道に迷われているが、われわれも迷ってみようということだ。それに「阿久比・萩の御野立」の場所を特定する目的もある。(写真はその道中、桜が咲き誇る乙川白山公園。明治23年時も桜はほころんでいたはず? だが記録はない。)
この日は豪雨ではないが小雨の4月4日。月日も近いこの日なら数々の疑問を共有できると出発のである。
そして答えは、「大成果を得た!」。
詳しくは今後、ボチボチ書く。
はんだ郷土史研究会では、例会の講座で多くのテーマを取り上げている。そのため、私の専門外というか、良く知らないことまで質問を受けることがある。お答えしたいのは山々であるが、残念ながら「頭についでがない」のである。
先日、細井平洲の研究している先生が東海市に来られるので、我が会で研究している方に会いたいという話があった。そこで、杉浦さん・池上さんに連絡したところ生憎二人ともご都合が悪いということであった。仕方がないので、最後は黒田先生と私で行くことにした。場所は蟹江嘉信さんのお宅。蟹江さんは元カゴメの社長で、現在は東海市平洲会の会長をしてみえる方である。
お会いしたのは小野重伃先生。ここからが大変であった。小野先生の質問にしどろもどろになって答えた。私達の会で最も知りたいのが、平洲の妹のことである。我々が反対にこのことを小野先生に質問した。小野先生はそれでは半田の光照院へその証拠を見付けにいこうと言われた。ことの成り行きから私達も光照院へ行くことにした。
御住職に江戸時代の過去帳を見せていただいた。過去帳からは何も出てこなかったが、その他の収穫はあった。それはそれでいいのだが、我々はどうもマズイ時間にお寺さんを訪問してしまったようだ。御住職はWBCの決勝戦のTV観戦を中座してお付き合いをしていただいたのである。日本が勝ってくれて、やれやれ。
最近、難破船と漂流民にはまっている。妙なものにはまるのが僕の悪い癖で、また、「熱しやすく覚めにくい」から始末の悪い性質だ。
ことの起こりは知多半島沖で千石船がどれくらい難破しているのだろう― を調べ出してからだ。
難破は主に江戸後期。営利主義に走る人たちが船の安全性より積載量や運送効率を追求したことに始まる。(この話は今度のふるさと講座でする)
一本マストの千石船は風任せ。風のご機嫌が悪ければ、すぐ前に見える陸地を横目に、船はどんどん沖へ沖へと流される。
暴風雨となると船はまず帆を降ろし、積荷を捨てる。船を軽くするのだ。それでも駄目なら帆柱を切る。船の重心を安定させるのだ。この場面で舵(7、8米はある)はほとんど波で破壊されている。したがって船は完全に人の手ではコントロールできなくなっている。
そして船員たちに残された、たった一つの作業は、祈ることである。(この続きは今度のふるさと講座で)
そして制御を失った千石船の中で、天に祈りの通じたごく僅かのものだけが漂流民となる。しかしこれもまた地獄の様相…
この続きは今度のふるさと講座で。
PRでした。
【写真】難破寸前の千石船=南知多郷土資料館
【写真】500石級の船の舵。千石船なら倍近い