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2016.05.01

 東海近世文学会

 久しぶりに東海近世文学会に出席した。病欠が続き、実に8ケ月ぶりである。例会場の熱田神宮文化殿会議室が懐かしく見える。

 会場に入る。ありがたいことに各先生方からやさしい言葉をかけていただいた。また、司会の島田先生のご配慮で挨拶の機会をいただいた。感謝。

 東海近世文学は東海地方一円の近世文学者の研究・発表の会。近世とは、大凡、戦国時代から江戸幕末までを指すが、その時代の文学の研究と討論をする。

 今回は      
 ①「御存知蕪村書簡」 永井 一彰(奈良大学名誉教授)
 ②「お伽草子『狐の草子』の怪異について」 沢井 耐三(愛知大学名誉教授)
 のご発表。
永井、沢井両先生は学会を代表する権威で近世文学会の重鎮だ。
 よい会からぼくはカムバックできた。

 ①の永井発表は、新発見した与謝蕪村の手紙から今まで分からなかった蕪村の係累の所在などが類推でき、蕪村作品の解釈も変わったというアカデミックなもの。
 ②の沢井発表は、お伽草子の「狐の話」の原典(典拠)を読むとみえてくる〈なまなましい話〉などなど。
 沢井先生はこの研究に特化された学者。他では聴けない、さすがのご発表だった。今度、この話をパクって、どこかで話したいと思うほど実に興味深い講座だった。(=聞きたければ言って=笑)

 終了後はいつものように懇親会。ここで議論の二次会。ここの方が本音の質疑応答の応酬があって面白い。

 ところで某先生、「今の学生は忠臣蔵を知らないんだ」とこぼす。忠臣蔵を知らない学生に近世の文学や演劇を教えるのはさぞ苦労するだろう。
 同じようなことが、ぼくの身にもあった。
 雑誌のコラムで「清水次郎長」が登場する一文を書いた。原稿を送ると出版社の編集部から電話が。
 「清水次郎長さんって、文章ではよくわからないので説明文を加えてください」
 「清水次郎長って、あの次郎長ですよ」
 「私、知りません」。
まさかと思ったぼくは、
 「そこは編集部ですか。編集部員に訊いてみて、みんな知ってると思うから」。

しばしあって、
 「お待たせしました。ここに5名いますが、全員、清水次郎長はどんな人か知らないと言っています」。

 ああ~、愕然とした。時代は変わったのか。
 そして分かった。出版社の編集部にいるのは一流大学出身の秀才たち。一流進学高、進学塾、一流大学と学んだが、どこでも「次郎長や森の石松は教えてくれなかった」のだ。学校で習わないものは知らない。テストに出ないものは知ろうともしないし、時間がもったいない。
 そんなことだろう。

 そして、忠臣蔵を知らず次郎長を知らず「近世研究」は構築されていくのだ。さて、数十年後はどうなっているのだろう。

 久しぶりに生ビール3杯。ちょっと酔いました。

2016.04.25

 あっ! 軍艦だ!

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 ブログをさぼってばかりではいけないので、急ぎアップ。
 但し、いろいろ書いている時間がないので、秘蔵写真を披露する。
 ある町に出現した巨大軍艦!?
 これは何か知ってる?
 ある町(市)とはどこ?

 知ってる人はコメントください。

2016.04.12

 弱者救済所まつり

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 日本初、日本最大の民営の弱者救済所が半田・鴉根の丘にできたのは明治31年のこと。そこで30年に亘り、一万五千人もの社会的弱者が保護され、救済された。

 それらは、すっかり忘れられて雑木林の中にあった数年前、半田保護司会、半田市、半田市鴉根区、はんだ郷土史研究会の四位一体で〝弱者救済所跡保存事業〟が立ち上がり、かたちになった。

 榊原亀三郎の偉業を後世に伝えようと隔年「まつり」を行うことになり、この4月10日に第2回が開催、賑やかに行われた。
 今回、半田市の藤本副市長のご提案がありがたかった。「桜の木を植えよう」。そして本日、桜が5本、『史跡公園』に植樹された。
 桜の木は、明治31年に亀三郎が救済所用地を開墾した時、記念に植えたもの。救済所にはゆかりの木である。きっと副市長はこのことを念頭に桜を提案してくれたのだと思う。

 桜を植えた亀三郎は若い衆に、「この桜の下で花見ができるようになりたいものだ。みんな! 桜は成長が早いぞ。がんばろう!」と言った。

 実は拙著『幸せの風を求めて』で、このシーン、このフレーズを書いたとき、なぜか涙が出ていた。こんな月並みなフレーズになぜ心が動くのだろう、と思っていた。

 きょう、救済所跡に桜が5本植わった。

 挨拶で壇上に立った時、「この桜の下で花見がしたいものだ」の亀三郎の言葉を引用し、桜の話をしようと思っていた。
 マイクを持って会場を見た時、藤本副市長の顔が見えた。

 ヤバい、泣いてしまう。と思って強引に別の話題にした。

 ともあれ5本、桜が植わった。ニコニコ顔で植樹式も出来た。2年後、とりあえず、この桜の下で花見がしたいものだ。

2016.04.06

 美しい国/日本

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 日本人は桜が大好きだ。庭木や山野の花々に目もくれないおじさんたちも、こと桜の花となると別。うっとりと花を見る。

 何で桜が日本人の心をつかむのかは明白。
 桜の花は辺り一面を染めるように一気に咲き、そして、その美しさはわずかな時間で消えてしまい、元の風景に戻る。その短期間のドラマが心に来るのだろう。
 もし、桜が3ヶ月も咲き続ける花ならば、こんなに人気は出なかったろう。

 そこに本居宣長が、
    敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花
 てな調子で、日本人の心は「朝日に匂ふ山桜花」だよ、などと言うから桜のポテンシャルが完成してしまった。

 浅野内匠頭が切腹するのは桜の下
 神風特攻隊が出発するシーンには桜。♪貴様とおれとは同期の桜~

 ここでちょっと花見気分に水をぶっかける。
 なぜ、桜の花はわずか10日ばかりで散ってしまうのか? 
 それは、花がいつまでも咲いていると幹の栄養分が無駄に失われて桜の木の成長を妨げるからである。桜の木の成長の早さは大きな樹木のなかで突出している。それは花に無駄な栄養を与えずに本体が中心になって生き残るすべをもっているからだ。

 さっと咲いて、本体たる樹木のためにさっと散る。
 さっと咲いて花の役目を素早く終えて、本体の邪魔にならぬように、さっと散る。それが桜花なのである。

 お国のために、さっと散る。
 だから美しき国、日本の象徴が桜なのである。
 安部さんが「美しき国」のフレーズが大好きなのは、枝の先端の花を散らし、本体たる国を守り、国を成長させる。そのシステムが樹木本体(国の中枢)にとって、心地よく素晴らしいからなのだろう。

 あまりしつこく言うと、高市総務大臣にこのブログを消されてしまうので、ここで止めるが、実は、桜は儚い民なのである。

 乙川駅の桜は1週間ほど咲き、昨日から散り始めている。
 早く散らないと幹に迷惑をかけるぞ! もう役目は終わったからさっさと散れ! あとは大木の下で肥やしになれ!

 と、はっきり言ってくれと分かりやすいのだがね。

 では儚き桜に同情して、花の下で一杯やるか。

    杯に 散る花びらも 酒が好き

 

2016.04.03

 乙川駅の桜の大木

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 JR乙川駅に桜の大木が5,6本ある。一番大きなものは幹回りが4㍍以上もある古木だ。
 この木のことが数年前、「はんだ郷土史研究会」で話題になった。「いつ植えられたのか、」「だれが植えたのか」で姦しかった。
 答えは明白だ。
 この駅が出来たのは昭和18年夏ごろ。中島飛行機の半田市進出に伴い新設されたのが乙川駅である。中島・半田製作所の社員の通勤のためと工場内への貨物車引き込み線の架設の都合で、同地を盛り土して線路面をかさ上げ、そこに駅を建てたのだ。それ以前のこの場所は低湿地、田にも沼にもならない土地だったという。

 そこに中島飛行機は駅を新設した。
(国鉄ではなく、中島飛行機がすべて建設したという。「乙川駅の金庫から湯飲み茶碗まで、みな中島のものだ」との証言もある)
 さて、「通勤者のための新設」は分かる。説明も不要だろう。
 一方、「引き込み貨物線の架設の都合」は郷土史的で面白い。
 それまでの武豊線の線路は低いところにあった。停車駅を造るだけなら低いところでも構わないのだが、そこから工場内へ汽車が入るには小さな土手を越えなければならない。ところが当時の機関車の馬力では、一旦低いところに停まってしまうと、小さな土手でも越えられなかったらしい。まして阿久比川の堤防は越えられない。
 だから汽車を停める駅は高いところに作る必要があった。

 そこで従来の線路面を数キロにわたり、凡そ1・4㍍づつ、かさ上げをして、その最高点に駅を造った。それが乙川駅である。

 今、現地を見ても、阿久比川の堤防よりも、中島飛行機の工場面よりも随分と高い位置に駅がある。ここからならどこへ向かうにも下り斜面だ。機関車の負担はないだろう。

 そうして駅が完成したのは昭和18年秋口。駅舎の前に桜の木を記念植樹したのだろう。当時の苗木、今は高さ10㍍もある大木になっている。すなわちこの木は樹齢73年となる。

 はんだ郷土史研究会の例会で、これが話題になった時のこと。
 ある人が、「これを植えたのは当時の駅長。間瀬さんだ」と発言した。すかさず会場から手が上がった。
 「植えたのは間瀬駅長ではない。駅員だ!」。

 暫し会場は沈黙の後、爆笑に包まれた。

2016.03.26

 新吉原遊郭の謎/雑誌『東京人』に掲載

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「新吉原遊郭を支配した南知多衆」は、ほぼ10年ほど前から調査に入り、その実体のおおかたが判明している。いわゆるエビデンス(証拠)も入手している。

 それは数年前から『知多半島郷土史往来』などで発表しているのだが、
 明暦4年に元吉原遊郭が浅草田圃の今の場所に移転した時に、「それまでは、まるでいなかった尾張の人が一気に吉原に現れ、揚屋、妓楼、茶屋ばかりでなく、一般の小売商店にまで進出した」ことが明らかになっただけで、
 問題は、「なぜ尾張衆が・・」はまだ、推測の域を出ていない。

 今回は雑誌『東京人』に発表の機会をもらった。とはいえ紙幅が限られた月刊雑誌だから、言いたいことの半分も書けないが、「南知多衆が新吉原に進出した事実とエビデンス」は伝わったはずだ。

 『東京人』は、ぼくの他、渡辺憲司氏ほか吉原遊郭研究者のオンパレード、読み応えのある特集だ。

 ところで、庄司甚右衛門が開基したとされる元吉原遊郭が幕府の都合で浅草に移転された。その際、既得権益を持っていたであろう甚内ら既存の有力者を押しのけて、尾張・南知多衆が新吉原遊郭の中心に座った。
 なぜ、そんなことができたのだろう。
 ぼくと一緒に考えてみる気のある方はご連絡願いたい。
「吉原遊郭史」に残る研究ができる。

2016.03.22

 戦中戦後を生きた九十歳の手記

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 『戦中戦後を生きた九十歳の手記』が間もなく上梓される。
昭和2年生まれの竹内和子さんの手記だ。

 彼女が書きたかった、すなわち現代の人たちに知ってほしかったことは、ただ一つ。昭和2年頃から昭和15年頃までの世相と政治の方向が、今現在と酷似しているということだ。
 そしてこの先は、昭和16年12月の開戦。国家総動員令。数百万人の死者。広島、長崎の惨事。そして敗戦後の食べ物のないほどの貧困、超インフレ。紙キレとなった紙幣。
 そうなると警告する。

 そんな道を90年も歩いて来た著者・竹内和子さんが私たちに問いかける。
 「今の政治情勢、この道はいつか来た道。忘れもしない戦争への道」である。

 「一億総活躍社会」は、「一億火の玉」に似ていないか。などはハッとさせられるくだりでもある。

 本には貴重な写真なども挿入。その一枚が学徒動員の職場風景。著者の友人の提供のもの。娘さんたちが学業を放棄して軍需工場で働いた。
 その写真をよく見てほしい。どの娘さんもまだ幼い顔立ち。でも頭の中は「前線に武器を!」と洗脳された軍国少女なのだ。それを頼もしいとみるか、悲しいとみるかはあなた次第だ。

 一読の価値のある一書。ご感想は読後に。
 来月にもネット書店で買える。1200円。

2016.03.07

 言い訳

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 一ケ月近くブログの更新をサボった。
 げんきんなもので、先日、当ブログへの来訪者数を調べたら、半減していた。
 愛想をつかされるというのは、こうことを言うのだろう。

 ぼくの患った脳梗塞の、辛い後遺症の一つは、「疲れやすい」「がんばりが効かない」だ。従来なら原稿用紙の5枚や10枚の仕事なら、一気に書けた。…むろん、取材や推敲の時間は別だが。
 ところが、今は一休み、一休みしないと持たない体力、というか気力なのだ。
 ぼちぼち改善の兆しはあるが、今のところはそんな現状。

 しかし、「物書き」という商売は日雇い労働者そのもの。休めば収入はゼロ。ゼロである。そして締め切りのある雑誌の仕事は、もし休載などしてしまえば、契約打ち切りは必至。だから、書くしかない。・・・食うために。

 『ステップ』『ハローズ』『エディト』など地元の情報誌のコラムに加え、東京の雑誌『東京人』の原稿もあった。
 あ~ぁ、我ながら、よくがんばった。

 さらに15年もいっしょに暮らした愛娘・リン子が亡くなった。
3、4日、泣いた。泣いた。今も思い出すと涙が出る。いい子だった。

 本日はブログをさぼった言い訳をした。

2016.02.12

 鈴渓義塾を訪問

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 今の常滑市の南端・小鈴谷村に驚くほど先進的な私塾があったことをご存じだろうか。

 明治21年のこと。当時、知多半島に高等小学校は半田町にしかなかった。半田から遠い村の子は通うことができない。ならば、塾を作り地方の子にも教育を。そんな動機で知多郡小鈴谷村に鈴渓義塾が創立された。
 小さな村の小さな私塾だが、驚きの教育成果をあげた。その成果は卒業生の面々をみれば分かる。わずか20年ほどの期間での結果だ。
 列記してみる。
 敷島製パンの創業者・盛田善平、名古屋帝国大学の設置に尽力・伊東延吉、標準語の父・石黒魯平、戦艦大和の艦長・森下信衞、トヨタの石田退三、多産卵鶏の榎本誠、海軍中将・古川四郎、東北大学助教授・天木順吉などキラ星のごとく。

 特別な教育をしたのかな?
 こんな田舎にたまたま頭の良い子どもがいっぱい生まれていたのかな?
 そんなことはない。

 学習内容は、小学高学年に対し高校並みの教科だったとも言うが、それより、教育に対する姿勢と熱意が凄かった。

 学校の方針。先生は「身分や貧富の差なく平等に」。
 生徒は「清く、正しく、生き生きと」。

 これでよく分かる。
 経済的不平等は教育の不平等であってはならない。これを認識した時点で鈴渓義塾からすごい人材が生まれ始めた。
 格差が当たり前の明治時代にこれを標榜した人がいたことが凄いのだ。

 この鈴渓義塾の資料館が小鈴谷小学校内に新設されたと聞き、当会の竹内雄幸さん、吉田政文さんと見学に行った。
 残存する資料も同校の竹内英章校長のご尽力でよく整理され、後世に残す努力もしっかりとされている。

 実は、ここを訪問する前は、「学校という閉鎖的な場所に歴史遺産を閉じ込めることになるのでは」「もっとオープンな所で公開すべき」と思っていた。
 ところが、現地を観て考えが変わった。
 小学校は毎年、毎年、数百人の子どもたちが入っては、巣立ってゆく。この子たちが6年間、「鈴渓の心」と接して、これを誇りとするなら、こんな貴重なことはない。これぞ教育だ。
 そう思った。

 現在=現代。大人たちの思想の中には、「身分や貧富の差なく平等に」という考えはない。
 新しく大人になる子どもたちは知ってほしい。かつて鈴渓義塾のような進歩的な考えや、それを育む環境や教育が故郷にあった。そして素晴らしい人材が多く生まれたのだ、ということを。

 大人たちは(ぼくを含め)もうだめだ。格差社会の少しでも上部にぶら下がることを人生の目標にしているからだ。まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を見るように人間は「糸」にぶら下がっているように感じる。
 そんな社会を良いとは、多分、誰も思っていないはずだが・・・。

 さまざまな刺激をくれた「鈴渓義塾資料室」である。常滑市立小鈴谷小学校内にある。許可をとれば見学可能だ。

 ●写真は資料館の壁新聞。
 集合写真の1枚=最下段の右から4人目が石田退三。彼はこの村の貧乏人の小倅。だが鈴渓で教育を受け、世界のトヨタの大番頭になった。
 写真、最上段右から2人目が溝口幹校長。この人がえらい。
 詳しくは、『はんだ郷土史だより』3月号に掲載の予定。

 

2016.01.30

 「死に方用意!」

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 以前、かつての中島飛行機半田製作所の工場内のスケッチを送っていただき、その工場の壁に「死に方用意!」の看板があるのが話題になった。
 「そんな看板はないよ」、「半田で働いていたが、見たことがない」が主なご意見。小生もそうだろうな、と思っていた。
 労働させる現場で、「死に方用意!」の檄文は、とても激励にはならないとも思っていた。死んじゃったら働けないものね。

 ところが以前入手していた『半田製作所所歌』のB面に「突撃隊の歌」があった。「所歌」は聞いていたが、B面は興味がなかったので今までは聴き流していたようだ。ところが、
 ああ! ここにあった。1番の冒頭である。

 ♪号令一下 部署に立つ 死に方用意のいでたちで
  きりりとしめた鉢巻は 勝ち抜く男の 武者振りだ
  ぐんぐんぐんとやれ突撃隊

 「死に方用意」は歌にも歌われ、工員さんたちにも知られていた? フレーズだった可能性もでてきた。
 つまらぬことにこだわるわけではないが、もういっぺん、調べ直したい。