記事一覧

2016.03.07

 言い訳

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 一ケ月近くブログの更新をサボった。
 げんきんなもので、先日、当ブログへの来訪者数を調べたら、半減していた。
 愛想をつかされるというのは、こうことを言うのだろう。

 ぼくの患った脳梗塞の、辛い後遺症の一つは、「疲れやすい」「がんばりが効かない」だ。従来なら原稿用紙の5枚や10枚の仕事なら、一気に書けた。…むろん、取材や推敲の時間は別だが。
 ところが、今は一休み、一休みしないと持たない体力、というか気力なのだ。
 ぼちぼち改善の兆しはあるが、今のところはそんな現状。

 しかし、「物書き」という商売は日雇い労働者そのもの。休めば収入はゼロ。ゼロである。そして締め切りのある雑誌の仕事は、もし休載などしてしまえば、契約打ち切りは必至。だから、書くしかない。・・・食うために。

 『ステップ』『ハローズ』『エディト』など地元の情報誌のコラムに加え、東京の雑誌『東京人』の原稿もあった。
 あ~ぁ、我ながら、よくがんばった。

 さらに15年もいっしょに暮らした愛娘・リン子が亡くなった。
3、4日、泣いた。泣いた。今も思い出すと涙が出る。いい子だった。

 本日はブログをさぼった言い訳をした。

2016.02.12

 鈴渓義塾を訪問

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 今の常滑市の南端・小鈴谷村に驚くほど先進的な私塾があったことをご存じだろうか。

 明治21年のこと。当時、知多半島に高等小学校は半田町にしかなかった。半田から遠い村の子は通うことができない。ならば、塾を作り地方の子にも教育を。そんな動機で知多郡小鈴谷村に鈴渓義塾が創立された。
 小さな村の小さな私塾だが、驚きの教育成果をあげた。その成果は卒業生の面々をみれば分かる。わずか20年ほどの期間での結果だ。
 列記してみる。
 敷島製パンの創業者・盛田善平、名古屋帝国大学の設置に尽力・伊東延吉、標準語の父・石黒魯平、戦艦大和の艦長・森下信衞、トヨタの石田退三、多産卵鶏の榎本誠、海軍中将・古川四郎、東北大学助教授・天木順吉などキラ星のごとく。

 特別な教育をしたのかな?
 こんな田舎にたまたま頭の良い子どもがいっぱい生まれていたのかな?
 そんなことはない。

 学習内容は、小学高学年に対し高校並みの教科だったとも言うが、それより、教育に対する姿勢と熱意が凄かった。

 学校の方針。先生は「身分や貧富の差なく平等に」。
 生徒は「清く、正しく、生き生きと」。

 これでよく分かる。
 経済的不平等は教育の不平等であってはならない。これを認識した時点で鈴渓義塾からすごい人材が生まれ始めた。
 格差が当たり前の明治時代にこれを標榜した人がいたことが凄いのだ。

 この鈴渓義塾の資料館が小鈴谷小学校内に新設されたと聞き、当会の竹内雄幸さん、吉田政文さんと見学に行った。
 残存する資料も同校の竹内英章校長のご尽力でよく整理され、後世に残す努力もしっかりとされている。

 実は、ここを訪問する前は、「学校という閉鎖的な場所に歴史遺産を閉じ込めることになるのでは」「もっとオープンな所で公開すべき」と思っていた。
 ところが、現地を観て考えが変わった。
 小学校は毎年、毎年、数百人の子どもたちが入っては、巣立ってゆく。この子たちが6年間、「鈴渓の心」と接して、これを誇りとするなら、こんな貴重なことはない。これぞ教育だ。
 そう思った。

 現在=現代。大人たちの思想の中には、「身分や貧富の差なく平等に」という考えはない。
 新しく大人になる子どもたちは知ってほしい。かつて鈴渓義塾のような進歩的な考えや、それを育む環境や教育が故郷にあった。そして素晴らしい人材が多く生まれたのだ、ということを。

 大人たちは(ぼくを含め)もうだめだ。格差社会の少しでも上部にぶら下がることを人生の目標にしているからだ。まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を見るように人間は「糸」にぶら下がっているように感じる。
 そんな社会を良いとは、多分、誰も思っていないはずだが・・・。

 さまざまな刺激をくれた「鈴渓義塾資料室」である。常滑市立小鈴谷小学校内にある。許可をとれば見学可能だ。

 ●写真は資料館の壁新聞。
 集合写真の1枚=最下段の右から4人目が石田退三。彼はこの村の貧乏人の小倅。だが鈴渓で教育を受け、世界のトヨタの大番頭になった。
 写真、最上段右から2人目が溝口幹校長。この人がえらい。
 詳しくは、『はんだ郷土史だより』3月号に掲載の予定。

 

2016.01.30

 「死に方用意!」

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 以前、かつての中島飛行機半田製作所の工場内のスケッチを送っていただき、その工場の壁に「死に方用意!」の看板があるのが話題になった。
 「そんな看板はないよ」、「半田で働いていたが、見たことがない」が主なご意見。小生もそうだろうな、と思っていた。
 労働させる現場で、「死に方用意!」の檄文は、とても激励にはならないとも思っていた。死んじゃったら働けないものね。

 ところが以前入手していた『半田製作所所歌』のB面に「突撃隊の歌」があった。「所歌」は聞いていたが、B面は興味がなかったので今までは聴き流していたようだ。ところが、
 ああ! ここにあった。1番の冒頭である。

 ♪号令一下 部署に立つ 死に方用意のいでたちで
  きりりとしめた鉢巻は 勝ち抜く男の 武者振りだ
  ぐんぐんぐんとやれ突撃隊

 「死に方用意」は歌にも歌われ、工員さんたちにも知られていた? フレーズだった可能性もでてきた。
 つまらぬことにこだわるわけではないが、もういっぺん、調べ直したい。
  

2016.01.18

 『ふるさと講座』1月例会

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 本年1月の例会。型どおり新年の挨拶をすませる。

 1コマ目は河合克巳先生の「知多半島の自然」。講義は、「80万年前の知多半島は・・・。40万年前の知多半島は・・・」と続く。その証拠は「師崎断層に見られ・・」と自然の地層の中にあるという。
 自然・地理は、100万年以上も前の〝証拠〟をあげて話せるわけだ。うらやましい限りだ。
 「太古、伊勢湾は瀬戸内海と繋がっていて・・・」などと、とても現代感覚では信じがたい話も、「その証拠はこれ・・」と言われると黙るしかない。

 2コマ目は小生の「知多半島の陰陽師」。これはわずか4~500年前の話。しかし、陰陽師という、摩訶不思議な職種の得体の知れない存在に〝証拠〟は薄い。仮説を立て、それを補強してゆくしか論拠を得にくい。
 「秀吉に京を追われた百数十人の陰陽師が尾張、三河に住み着き、陰陽道、万歳、普請などを生業に暮らし、やがて土地の有力者になった・・」。「さらには、新吉原遊郭の建設とも無関係ではない」。
 その証拠は「西まさるが現在、探索中である・・」、ではいかにも頼りない。

 ともあれ会場の皆さんは身を乗り出して聞いてくださっていた。
 退院以来、椅子なしで立って長時間の、まともな講座は今回が初めて。少々疲れたが、自信もついた。来月2月例会も続きをやりたいと思っている。

 今年初のはんだ郷土史研究会『ふるさと講座』につき、ご報告まで。

2016.01.14

 こもれ、何?

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 わが事務所の隣に乙川児童公園がある。その一角にこんな木、そしてこんな果実が一つ。寒空に震えるように下がっている。
 冬の風物詩は、籠もれ柿が知られているが、これは柿ではない。
 ミカンなど柑橘類でもなさそう、梨のように見えるが、こんな所に梨の木はないし、だいいち、梨の木はこんな大木ではないはず。

 冬を越す鳥たちのために、少しの果実を残す自然界のやさしさ。それがこれなのだと思いたい。
 こんなやさしさが、人間界にはあるだろうか。少しはあってほしいものだ。

 ところで、この果実は何でしょう? ご存じの方はお知らせ願いたい。

2016.01.03

 謹賀新年

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 平成28年の年明けです。
 皆さま、明けましておめでとうございます。
 はんだ郷土史研究会は創立12年目となります。その間、毎月の例会『ふるさと講座』。隔月発行の『はんだ郷土史だより』を1回も欠かさず開催・刊行できたことが何よりの誇りでしょうか。
 どこまで続けられるかはスタッフ次第。みなさまの激励次第と思います。がんばります。

 スタッフの中心、幹事さんも、毎月の幹事会は欠かさず出席、会の運営や企画にがんばっています。この幹事会も創立以来、休会はありません。小生の緊急の入院時も蟹江会長が臨時幹事会を招集、さらに強い結束を促す素早い対応をされ、事なきを得た。

 さて正月。わが輩は病後のことゆえ、例年のように底なしの酒は飲めず。発泡酒2本だけの元旦。寂しい限りだ。酒がないとご馳走も進まない。雑煮でもすすって寝正月とするにした。
 せめて写真だけでも「1月の料理」を掲出しておく。四條流家元・入口氏の作品だ。
 おとなりは、粥をすする若侍。スギウラフミアキ氏の作品。拙書『忠臣蔵と江戸の食べもの話』の表紙絵に使ったもの。

 浅野内匠頭と吉良上野介の殿中刃傷沙汰の日。
 切腹の刻を待つ間、浅野は「出された一汁五菜の膳を断り、粥を所望した。そして粥を二杯食すると桜の散る庭に静かに向かった」。
 浅野に討たれた吉良の傷は意外と深かった。医者は吉良に元気をつけるため粥を食べさせた。吉良は粥を二杯食すると、少し元気を取り戻した」。
 
 なぜ二人とも粥なのか。なぜ二杯なのか。
 そんな質問が拙書を読んだ人からあった。
 なぜ、粥? 「江戸時代は炊飯器もジャーもない。炊いためしは冷えたらそのまま冷や飯に。そして、身分の高い人は冷や飯を喰わない。だから湯付けにする」。
 なぜ、二杯か? 「一杯は下品。一膳飯は下品。だから無理にでも二杯食べた(食べたことにした)」。

 これが江戸の食べ物事情。なかなか面白い。詳しくは『忠臣蔵と江戸の食べもの話』に。

 本年もよろしくお願いいたします。

2015.12.31

 年末回想③ 世の中、捨てたものじゃない

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 落ち目の西まさるだ! と散々愚痴った。
 カレンダーも持ってこないのか! と悪態をついた。

 落ち目の三度笠で顔を隠して、旅にでようと思った矢先。店先から声が。「西のん、お待ちなせい」。
 見ればカレンダーを持った旧友が、「何もカレンダーが来ないくらいで短気を起こし、凶状旅に出ることはございやせん」。

 「へい! 分かりました」と西。この辺の変わり身は早い。すっかりご機嫌を取り戻したのである。

 そしてあの人も、この人も来てくれた。ありがたいものだ。
 おかげさまで写真のように来年のカレンダーが7、8本。これで年を越せるのであります。

 どうぞ、みなさま、良いお正月をお迎えください。 頓首

2015.12.28

 年末回想② 落ち目の西まさる

 人間、落ち目になりたくない…… 
 などと言うと妙に粋がっているようだが、この年末は実感した。その実感は、しみったれた事だが、生まれて初めて来年のカレンダーを買いに行った悲哀だ。

 毎年、年末になると、いろいろな方が来年のカレンダーをお持ちくださる。10数本は下らない。そんなに沢山、ぶら下げることもないので、大部分は絵柄やデザインを見て、そのままお蔵入り。使うこともなかった。もったいない話だがそれが常だった。

 ところが今年は、なんとゼロだ。誰も持って来てくれない。落ち目の西まさるにギフトする必要がなくなったようだ。
 カレンダーなんかいらんわい! と悪態ついても、実際、1本や2本なくては困る。
 1年間、カレンダーなしというわけにもいかないので、近所の三洋堂書店に買いに行った。驚いた、カレンダーというものは意外と高い。1千円はする。2千円近いものもある。今までタダでもらっていたこともあり、実に高価に感じる。また、デザインや趣向も多彩で迷った。迷った末、何も買わずに帰って来た。

 今年、わが家にカレンダーなどギフトがないのは、〝落ち目〟もあるが、小生の入院騒ぎで11月~12月は西まさる編集事務所が休業状態にあったからだ…、と思いたい。しかし、そう自らを慰めても淋しさはある。

 西まさる、落ち目の三度笠。
 ああ、カレンダーよ。

 

2015.12.25

 年末回想① 男性看護士

 年末となると1年を回想したくなる。
 ぼくの場合は脳梗塞という思いがけない大病を発症、はじめて長期の入院をしたことが重大ニュースのトップだ。他人の病気の云々など読みたくないだろうから、みなさんが余り経験のないだろう病院の内輪話をしてみよう。

 50日も入院していると、患者としてはプロになる。最初の1、2週間は、できるだけ模範的な患者と思われたいので、従順に振舞う。但し、2、3週間もすると医者や看護士のアラが見えてきて、時々いじわるを言いたくなるものだ。ことに、ぼくはジャーナリストの端くれ、従順ばかりじゃ飯が食えない。

 医者の悪口は今度にして、きょうは看護士を標的にする。
 最近、男性の看護士が増えた。だから看護婦から看護士と名称も変わった。その男性看護士に、ぼくも看護のお世話になった。
 ストレートに言うと看護士は女性に限る。男性看護士に良い思い出は少しもない。
 なぜだろう? と病院のベッドで考えた。すぐに答えが出た。男性看護士は、「看護するより治療をしたい」という姿勢なのだ。だから「やさしさ」がない。というか患者からはそれが感じられないのだ。
 その点、女性看護士は看護を本分として患者に接する。だから「やさしさ」を感じるのだ。

 入院中、何十人という看護士さんと接した。お喋りなぼくは、特に女性看護士さんとは積極的に話をした。女房に「ナンパしてるの?」と笑われたほどだ。
 そして分かった。
 女性看護士は幼い時から、看護婦という職業に憧れ、「看護婦さんになりたい」と願ってナースになった。いわば天職に就いたのだ。だから患者に対する接し方も「古典的」で「やさしい」。そう思った。
 転じて男性看護士さんは、「医療関係者になりたい。ほんとうは医者になりたかった」という思いからだったことが、話していてよく分かった。だから、患者の看護より治療。「情より理屈」が先行している。
 一つ例をあげる。
 ぼくの血糖値がいつもより下がった。女性看護士さんは「よかったね。がんばったからね。だんだん良くなりますよ」と言ってくれた。
 ところが男性看護士さんは、「薬を飲んでいるからね」。下がって当然だ、と言わんばかりだ。
 男性看護士の言うことが正解だろうが、どこか違うよね。

 
 ある日のこと、男性看護士がぼくに「この薬を投与されているが、別の薬がいい」と言ったので耳を疑ったことがあった。また、鼻から酸素を吸入する管について、「こんなものは気休めですよ」とも言った。つまり医師より自分の医療知識が高いと言いたいのだ。ああ!

 ついでにもう一つ。
 恥ずかしい話だが、入院中ぼくは小便が自力で出来ず、管で尿を取る〝導尿〟をしてもらっていた。看護士さんにチンチンを握られ、尿道に管を入れられるわけだ。
 不思議なことに、恥ずかしいその行為だが、女性看護士さんにされると素直に普通に受け入れられる。ところが男性看護士さんだと妙に恥ずかしい。ほんとうは逆だと思うのだが、不思議な心理だ。
 これも「やさしさ」の差なのだろう。

 年末雑感、病院での内緒話でした。

2015.12.15

 病気と罰

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 脳梗塞で入院中のこと。
 病院は脳梗塞などで身体の不自由な患者は、あえて食堂に集めて食事をとらせる。ベッドにいるよりリハビリになるからだ。ぼくも3度の食事はここでとっていた。

 食堂で日焼け顔の初老の男性とよく向かい合わせになった。
 彼とは何度も席が同じになっている。但し、一度もしゃべったことはない。以前、ぼくが話しかけたことはあったが、返答もなく、そのままだった。多分、彼は誰にでも、そうなのだろう。いつも黙って不機嫌そうに食事をしている。
 彼は右手、右足が相当に不自由で、左手のスプーンでたどたどしく飯を掬っている。歩けて両手が使えるぼくとは比べものにならない重度の障害が彼にはある。

 ある日、たまたま彼と向かい合わせになった。
 「あなたも脳梗塞ですか?」と、ぼくは話しかけてみた。しばらく返事はない。まただ… と、ぼくは不愉快に思った。
 その時、彼が口を開いた。弱弱しい声だ。
 「…働いて、働いて。何の贅沢もせずに働いて。その結果がこのザマだ…」。
 彼はぼくの目も見ず、独り言のようにそうつぶやくと、また黙って左手のスプーンで飯を掬った。めし粒がいっぱい彼の膝にこぼれた。

 ぼくは冷水を掛けられたようなショックを受けた。
 彼は顔が真っ黒になるほど働いて来た。年中、汗をかき、長年、働き続けたのだろう。すべての私欲や贅沢は捨てて働いたのだろう。誰のためだろう。家族のため? 家のため? 少なくとも自分のためではない。

 反面、ぼくはどうだろうと思ってしまった。
 自分のやりたいことだけをして生きてきた。好きな物を食べ、好きな物を飲み。自分の身の丈(収入)に合わぬ贅沢をして来た。
 仕事を言い訳に、何万円ものめし。何万円もの酒。日に80本のタバコ。観劇はS席、相撲は溜り席。移動はタクシーチケット、グリーン車・・・。
 際限のない、わがままな生活だった。

 ぼくこそが罰を受けるべきだ。
 何の贅沢も知らず働き続けて来た彼の身体に、あんな不自由を与えた神は間違っている。
 そう思った。

 ぼくは彼に返す言葉もなく飯を食った。右手で、箸で喰った。
 あれから彼には会っていないが、あの日焼け顔と、あの言葉は忘れることはないだろう。