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2016.06.06

 核廃絶/平和行進

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 今年も核廃絶のための平和行進が行われている。全国各地から「ノーモア・ヒロシマ」を訴えながら歩いて広島に向かう運動だ。
 わが事務所の前にも行進が通る。昨年も、一昨年も、その前もやって来ている。

 数年前だった。こんな出来事を思い出した。
 愛犬リン(今年2月死去)を抱いて平和行進を見ていると、行進の中から美しい女性がぼくに近寄って来て、「可愛いですね」と言った。むろん、ぼくのことではない。リンのことだ。
 「行進、大変ですね」とぼく。
 「平和のためですもの。大丈夫です」と女性。
 「少ないですが…」とぼくはポケットの600円だったか650円だったかをカンパした。ちょっと惜しかった…。
 女性に対するいい格好も(多少)あったが、平和のためのカンパだった(本当かい!)。

 そんなことを思い出しながら過ぎて行く今年の行進を見ている。
 総勢200名ほど、警備の警官が10名ほど。言葉は悪いがチョロいデモ行進だ。こんな程度で核兵器を廃絶できるもんか! と言いたくなる。

 ヒロシマにぼくは思い入れがある。若いぼくの青春の1ページでもある。長くなるから詳しくは書かないが、「核兵器による無差別殺戮」はどんな理由があろうとも許してはならない。
 焼け焦げて転がる死体のほとんどは市民だ。女性、子供、非戦闘員ばかりだ。市民を無差別に大量に殺して平和が来るわけがない。
 そんなこと、オバマ大統領だって知っている。

 平和行進は今、半田市乙川地区を過ぎて行く。街の人たちは遠巻きに、あるいは窓の陰から行進を見ている。そんな乙川村の人の顔には、「こんなお上に逆らう政治的行動をしたら村八分にされてしまう。触らぬ神に祟りなしじゃ」と書いてあるのが見える。

 チョロい行進は歌を歌いながら去っていった。ぼくの掌の中に100玉が2つ残った。今回はカンパを頼まれなかったから出さなかった。100円玉は手の汗で濡れていた。
 

2016.05.18

 名鉄カルチャーセンター

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 毎月第3火曜日は名鉄カルチャーセンターで「知多半島ふしぎ物語」の講座。きのうも開講した。
 レジュメをみてびっくり、第80回だ。つまり6年半以上も続けているわけだ。毎月、毎月、それも知多半島の郷土史限定でよく続いたものだ・・・と我ながら感心する。

 レジュメの控えをめくってみる。
 第1回は、「宝順丸と知多の三吉」。2回は「清水次郎長と知多半島」。そして「明治天皇と陸海軍大演習」、「知多の黒鍬衆」と延々と知多半島ネタが続く。
 ネタ切れなし。つくづくと知多半島は歴史の宝庫、ふしぎな半島だと実感する。

 昨月の前回は「半田の豪商たち」を紹介した。そして今回はその「半田の豪商たちの道楽=文化遺産=旦那芸」などを面白く紹介した。面白くと言っても史実は曲げない。ここは真面目な講座で講談話ではない。
 (だから講師は苦労する…)

 半田の豪商がどんな道楽をしたのか聞きたい? 女道楽? そんなもの道楽のうちに入らない。

 ①半田のある豪商は大正末期、道楽で飛行機を2機買った。しかし置き場所に困った。木製のプロペラだけ残して座敷に飾り楽しんだ。【写真あり=ここでは非公開】
 ②半田亀崎のある豪商は、自分の庭に高さ1・8㍍、幅93㌢、長さ15㍍ほどのトンネルを掘った。何の意味もないトンネルだ。「かくれんぼ」か「秘密の基地」にでもして遊んだとしか思えない、まるで使途不明のトンネルだ。【写真あり=ここでは非公開】

 商売とは無関係、道楽としか思えないエピソードは、他に③、④、⑤といろいろと面白いくあるが、ここで書いてしまうと受講料を払ってカルチャーに通ってくれる人に悪いので伏せておくが、ともかく昔の豪商の道楽は桁外れだった。

 名鉄河和線に1ケ所だけトンネルがある。南加木屋と高横須賀の間、わずか10数㍍の長さだ。開通工事の時、ここは堀割にした方が工事も早く安価で済むのだが、そこに待ったをかけたのが半田の豪商。
 どうやら「いやだ、いやだ、堀割じゃだめだ。鉄道にはトンネルがなくちゃ嫌だ!」と駄々をこねたのか、お金にものを言わせたのかは分からないが、ともあれ名古屋鉄道に無理を言って、このトンネルを造らせたのである。

 それから・・、もっともっとあるがこれくらにしておく。

 名鉄カルチャーでは毎月、こんな「知多半島のふしぎ物語」を話している。

 写真=保下田久六が清水次郎長に討たれて死んだ庄屋家の門内。次郎長は豊かな知多半島へ来て稼ぎ、風向きが悪くなると三河へ逃げた。
 明治になり、次郎長は知多の豪商(盛田+中埜酢店)に頼まれ、沼津や清水で「中泉現金問屋」なる店の経営に協力した。但し、こうして商売を熱心にしているのは豪商の番頭さんたち。主人は道楽に専念である。
 道楽ばかりで商売をしない(させてもらえない)主人のいる大店は潰れずに長く残っている。・・・これも史実だという。

2016.05.07

 ピアノのコンサート

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 ピアノグループ「えすぷり」のコンサートに出かけた。
 実は愚妻・優子が出演、演奏する。だから、これに欠席すると大事件になってしまう。恰好は悪いが杖を片手に名古屋伏見の電気会館・ザ コンサートホールに行った。

 クラシック音楽は学生の頃からなぜか好きで、金沢の木倉町にあった名曲喫茶「寿苑」に通い詰めていた。「寿苑」は狭く細長い店で一番奥に天井まで届くような大きなスピーカーが設えてあった。そこから流れるクラシックの名曲を聴くのだ。
 当時はコーヒーが50円、トーストが50円。そして一旦入店すると学生の厚かましさもあって半日ねばるのが常だった。
 注文は当然1品50円、但し選曲の注文はタダだから際限なくしたものだ。
 本当はチャイコフスキーが好きだったが、「チャイコなど聴くのは素人だ」と気取って、バッハばかりをリクエストしていた。だからかどうか、今はバッハは好みではない。
 テーブルには冷めたコーヒーと岩波文庫のハイネの詩集。苦虫を噛みつぶした顔でバッハを聴く。そんな学生客だった。
 ああ苦笑である。

 時代は下がり、今から20年ほど前のことだった。
 優子と金沢に行った時、懐かしさもあって「寿苑」に誘った。店はクラシック名曲喫茶でなくスナックになっていた。でも店内には昔の雰囲気がそこはかと残り、水割りを飲みながら懐かしんでいた。
 すると店主(確か徳山さん)が突然、「あんた美大の子やろ・・。ほら、ほら・・」と言われ、仰天した。30年以上前の迷惑な客を覚えていてくれたのだ。
 「当時はお世話になりました。もしかしたらツケを残していない?」
 「そんなものないわいね。懐かしいね」。
と昔話に花が咲いた。

 今回の「えすぷり」はピアノだけのコンサート。優子は藤本逸子先生(東海学園大学教授)とベートーベンを連弾した。それも5番。ご存じの「運命」だ。
 あの壮大な交響曲、50人ものオーケストラで聴かせる曲を1台のピアノで2人で弾く? 選曲に無理はないの? と余計な心配をした。 
 「ああ、失敗して恥をかかねばいいが…」が本音だった。
 でも何とかなったみたいな感じ・・・。

 ぼくが感想を言うわけにはいかないが、久しぶりに困惑の気持で「運命」を聴かせてもらった。♪ダダダ、ダン

 

2016.05.01

 東海近世文学会

 久しぶりに東海近世文学会に出席した。病欠が続き、実に8ケ月ぶりである。例会場の熱田神宮文化殿会議室が懐かしく見える。

 会場に入る。ありがたいことに各先生方からやさしい言葉をかけていただいた。また、司会の島田先生のご配慮で挨拶の機会をいただいた。感謝。

 東海近世文学は東海地方一円の近世文学者の研究・発表の会。近世とは、大凡、戦国時代から江戸幕末までを指すが、その時代の文学の研究と討論をする。

 今回は      
 ①「御存知蕪村書簡」 永井 一彰(奈良大学名誉教授)
 ②「お伽草子『狐の草子』の怪異について」 沢井 耐三(愛知大学名誉教授)
 のご発表。
永井、沢井両先生は学会を代表する権威で近世文学会の重鎮だ。
 よい会からぼくはカムバックできた。

 ①の永井発表は、新発見した与謝蕪村の手紙から今まで分からなかった蕪村の係累の所在などが類推でき、蕪村作品の解釈も変わったというアカデミックなもの。
 ②の沢井発表は、お伽草子の「狐の話」の原典(典拠)を読むとみえてくる〈なまなましい話〉などなど。
 沢井先生はこの研究に特化された学者。他では聴けない、さすがのご発表だった。今度、この話をパクって、どこかで話したいと思うほど実に興味深い講座だった。(=聞きたければ言って=笑)

 終了後はいつものように懇親会。ここで議論の二次会。ここの方が本音の質疑応答の応酬があって面白い。

 ところで某先生、「今の学生は忠臣蔵を知らないんだ」とこぼす。忠臣蔵を知らない学生に近世の文学や演劇を教えるのはさぞ苦労するだろう。
 同じようなことが、ぼくの身にもあった。
 雑誌のコラムで「清水次郎長」が登場する一文を書いた。原稿を送ると出版社の編集部から電話が。
 「清水次郎長さんって、文章ではよくわからないので説明文を加えてください」
 「清水次郎長って、あの次郎長ですよ」
 「私、知りません」。
まさかと思ったぼくは、
 「そこは編集部ですか。編集部員に訊いてみて、みんな知ってると思うから」。

しばしあって、
 「お待たせしました。ここに5名いますが、全員、清水次郎長はどんな人か知らないと言っています」。

 ああ~、愕然とした。時代は変わったのか。
 そして分かった。出版社の編集部にいるのは一流大学出身の秀才たち。一流進学高、進学塾、一流大学と学んだが、どこでも「次郎長や森の石松は教えてくれなかった」のだ。学校で習わないものは知らない。テストに出ないものは知ろうともしないし、時間がもったいない。
 そんなことだろう。

 そして、忠臣蔵を知らず次郎長を知らず「近世研究」は構築されていくのだ。さて、数十年後はどうなっているのだろう。

 久しぶりに生ビール3杯。ちょっと酔いました。

2016.04.25

 あっ! 軍艦だ!

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 ブログをさぼってばかりではいけないので、急ぎアップ。
 但し、いろいろ書いている時間がないので、秘蔵写真を披露する。
 ある町に出現した巨大軍艦!?
 これは何か知ってる?
 ある町(市)とはどこ?

 知ってる人はコメントください。

2016.04.12

 弱者救済所まつり

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 日本初、日本最大の民営の弱者救済所が半田・鴉根の丘にできたのは明治31年のこと。そこで30年に亘り、一万五千人もの社会的弱者が保護され、救済された。

 それらは、すっかり忘れられて雑木林の中にあった数年前、半田保護司会、半田市、半田市鴉根区、はんだ郷土史研究会の四位一体で〝弱者救済所跡保存事業〟が立ち上がり、かたちになった。

 榊原亀三郎の偉業を後世に伝えようと隔年「まつり」を行うことになり、この4月10日に第2回が開催、賑やかに行われた。
 今回、半田市の藤本副市長のご提案がありがたかった。「桜の木を植えよう」。そして本日、桜が5本、『史跡公園』に植樹された。
 桜の木は、明治31年に亀三郎が救済所用地を開墾した時、記念に植えたもの。救済所にはゆかりの木である。きっと副市長はこのことを念頭に桜を提案してくれたのだと思う。

 桜を植えた亀三郎は若い衆に、「この桜の下で花見ができるようになりたいものだ。みんな! 桜は成長が早いぞ。がんばろう!」と言った。

 実は拙著『幸せの風を求めて』で、このシーン、このフレーズを書いたとき、なぜか涙が出ていた。こんな月並みなフレーズになぜ心が動くのだろう、と思っていた。

 きょう、救済所跡に桜が5本植わった。

 挨拶で壇上に立った時、「この桜の下で花見がしたいものだ」の亀三郎の言葉を引用し、桜の話をしようと思っていた。
 マイクを持って会場を見た時、藤本副市長の顔が見えた。

 ヤバい、泣いてしまう。と思って強引に別の話題にした。

 ともあれ5本、桜が植わった。ニコニコ顔で植樹式も出来た。2年後、とりあえず、この桜の下で花見がしたいものだ。

2016.04.06

 美しい国/日本

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 日本人は桜が大好きだ。庭木や山野の花々に目もくれないおじさんたちも、こと桜の花となると別。うっとりと花を見る。

 何で桜が日本人の心をつかむのかは明白。
 桜の花は辺り一面を染めるように一気に咲き、そして、その美しさはわずかな時間で消えてしまい、元の風景に戻る。その短期間のドラマが心に来るのだろう。
 もし、桜が3ヶ月も咲き続ける花ならば、こんなに人気は出なかったろう。

 そこに本居宣長が、
    敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花
 てな調子で、日本人の心は「朝日に匂ふ山桜花」だよ、などと言うから桜のポテンシャルが完成してしまった。

 浅野内匠頭が切腹するのは桜の下
 神風特攻隊が出発するシーンには桜。♪貴様とおれとは同期の桜~

 ここでちょっと花見気分に水をぶっかける。
 なぜ、桜の花はわずか10日ばかりで散ってしまうのか? 
 それは、花がいつまでも咲いていると幹の栄養分が無駄に失われて桜の木の成長を妨げるからである。桜の木の成長の早さは大きな樹木のなかで突出している。それは花に無駄な栄養を与えずに本体が中心になって生き残るすべをもっているからだ。

 さっと咲いて、本体たる樹木のためにさっと散る。
 さっと咲いて花の役目を素早く終えて、本体の邪魔にならぬように、さっと散る。それが桜花なのである。

 お国のために、さっと散る。
 だから美しき国、日本の象徴が桜なのである。
 安部さんが「美しき国」のフレーズが大好きなのは、枝の先端の花を散らし、本体たる国を守り、国を成長させる。そのシステムが樹木本体(国の中枢)にとって、心地よく素晴らしいからなのだろう。

 あまりしつこく言うと、高市総務大臣にこのブログを消されてしまうので、ここで止めるが、実は、桜は儚い民なのである。

 乙川駅の桜は1週間ほど咲き、昨日から散り始めている。
 早く散らないと幹に迷惑をかけるぞ! もう役目は終わったからさっさと散れ! あとは大木の下で肥やしになれ!

 と、はっきり言ってくれと分かりやすいのだがね。

 では儚き桜に同情して、花の下で一杯やるか。

    杯に 散る花びらも 酒が好き

 

2016.04.03

 乙川駅の桜の大木

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 JR乙川駅に桜の大木が5,6本ある。一番大きなものは幹回りが4㍍以上もある古木だ。
 この木のことが数年前、「はんだ郷土史研究会」で話題になった。「いつ植えられたのか、」「だれが植えたのか」で姦しかった。
 答えは明白だ。
 この駅が出来たのは昭和18年夏ごろ。中島飛行機の半田市進出に伴い新設されたのが乙川駅である。中島・半田製作所の社員の通勤のためと工場内への貨物車引き込み線の架設の都合で、同地を盛り土して線路面をかさ上げ、そこに駅を建てたのだ。それ以前のこの場所は低湿地、田にも沼にもならない土地だったという。

 そこに中島飛行機は駅を新設した。
(国鉄ではなく、中島飛行機がすべて建設したという。「乙川駅の金庫から湯飲み茶碗まで、みな中島のものだ」との証言もある)
 さて、「通勤者のための新設」は分かる。説明も不要だろう。
 一方、「引き込み貨物線の架設の都合」は郷土史的で面白い。
 それまでの武豊線の線路は低いところにあった。停車駅を造るだけなら低いところでも構わないのだが、そこから工場内へ汽車が入るには小さな土手を越えなければならない。ところが当時の機関車の馬力では、一旦低いところに停まってしまうと、小さな土手でも越えられなかったらしい。まして阿久比川の堤防は越えられない。
 だから汽車を停める駅は高いところに作る必要があった。

 そこで従来の線路面を数キロにわたり、凡そ1・4㍍づつ、かさ上げをして、その最高点に駅を造った。それが乙川駅である。

 今、現地を見ても、阿久比川の堤防よりも、中島飛行機の工場面よりも随分と高い位置に駅がある。ここからならどこへ向かうにも下り斜面だ。機関車の負担はないだろう。

 そうして駅が完成したのは昭和18年秋口。駅舎の前に桜の木を記念植樹したのだろう。当時の苗木、今は高さ10㍍もある大木になっている。すなわちこの木は樹齢73年となる。

 はんだ郷土史研究会の例会で、これが話題になった時のこと。
 ある人が、「これを植えたのは当時の駅長。間瀬さんだ」と発言した。すかさず会場から手が上がった。
 「植えたのは間瀬駅長ではない。駅員だ!」。

 暫し会場は沈黙の後、爆笑に包まれた。

2016.03.26

 新吉原遊郭の謎/雑誌『東京人』に掲載

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「新吉原遊郭を支配した南知多衆」は、ほぼ10年ほど前から調査に入り、その実体のおおかたが判明している。いわゆるエビデンス(証拠)も入手している。

 それは数年前から『知多半島郷土史往来』などで発表しているのだが、
 明暦4年に元吉原遊郭が浅草田圃の今の場所に移転した時に、「それまでは、まるでいなかった尾張の人が一気に吉原に現れ、揚屋、妓楼、茶屋ばかりでなく、一般の小売商店にまで進出した」ことが明らかになっただけで、
 問題は、「なぜ尾張衆が・・」はまだ、推測の域を出ていない。

 今回は雑誌『東京人』に発表の機会をもらった。とはいえ紙幅が限られた月刊雑誌だから、言いたいことの半分も書けないが、「南知多衆が新吉原に進出した事実とエビデンス」は伝わったはずだ。

 『東京人』は、ぼくの他、渡辺憲司氏ほか吉原遊郭研究者のオンパレード、読み応えのある特集だ。

 ところで、庄司甚右衛門が開基したとされる元吉原遊郭が幕府の都合で浅草に移転された。その際、既得権益を持っていたであろう甚内ら既存の有力者を押しのけて、尾張・南知多衆が新吉原遊郭の中心に座った。
 なぜ、そんなことができたのだろう。
 ぼくと一緒に考えてみる気のある方はご連絡願いたい。
「吉原遊郭史」に残る研究ができる。

2016.03.22

 戦中戦後を生きた九十歳の手記

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 『戦中戦後を生きた九十歳の手記』が間もなく上梓される。
昭和2年生まれの竹内和子さんの手記だ。

 彼女が書きたかった、すなわち現代の人たちに知ってほしかったことは、ただ一つ。昭和2年頃から昭和15年頃までの世相と政治の方向が、今現在と酷似しているということだ。
 そしてこの先は、昭和16年12月の開戦。国家総動員令。数百万人の死者。広島、長崎の惨事。そして敗戦後の食べ物のないほどの貧困、超インフレ。紙キレとなった紙幣。
 そうなると警告する。

 そんな道を90年も歩いて来た著者・竹内和子さんが私たちに問いかける。
 「今の政治情勢、この道はいつか来た道。忘れもしない戦争への道」である。

 「一億総活躍社会」は、「一億火の玉」に似ていないか。などはハッとさせられるくだりでもある。

 本には貴重な写真なども挿入。その一枚が学徒動員の職場風景。著者の友人の提供のもの。娘さんたちが学業を放棄して軍需工場で働いた。
 その写真をよく見てほしい。どの娘さんもまだ幼い顔立ち。でも頭の中は「前線に武器を!」と洗脳された軍国少女なのだ。それを頼もしいとみるか、悲しいとみるかはあなた次第だ。

 一読の価値のある一書。ご感想は読後に。
 来月にもネット書店で買える。1200円。