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2016.10.29

 小学生が次々と

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 突然、事務所の戸が開く。 
 「すみません~! 西の宮貝塚のことを教えてください~」。
 小学3年生という。

 30分後、また。
 「すみません~! 西の宮貝塚のことを教えてください~」。
 今度は母親が一緒だ。母親は小学生の少し後で、ぼくに会釈をするというか、睨むというか、「よろしくお願いします」と口では言うが、「うちの子にちゃんと親切にしないと私が許さない!」という顔で立っている。

 半田市乙川の西ノ宮池近辺に残る貝塚は人骨も貝殻も出た縄文遺跡だ。だが、ぼくは古代史の研究家ではないし知識も薄い。だが、児童たちが「すみません~! 教えてください~」と来る。
 学校で研究発表のテーマが出され、その一つが地元の「貝塚」「古墳」などという。こんな専門外のことをぼくに振られているようだ。しかし児童たちはぼくが専門家と思い、ノートを手にやって来ている。
 まさに困ったものだ。

 これには心当たりがある。
 数年前、乙川小学校の4年生の社会授業の一貫で「西の宮貝塚」が採り上げられ、30人ほどの児童の前で、ぼくが不確かな話をしたことがあった。その時の記録が学校にあって、今の先生がぼくの名をあげたのだろう。

 「すみません~! 西の宮貝塚のことを教えてください~」。
 おいおい、また来た。シャッターを下ろして居留守をつかうとするか。

 写真は「二子塚古墳」。前方後円墳である・阿久比町宮津公民館の前にある。前の駐車スペースと比べると分かりやすいが、小ぶりなものだ。
 この古墳の真贋も論が分かれている。学者でも決められないものをぼくに訊きに来るな、と言いたい。
 早よ、シャッターを下ろそう。

2016.10.22

 突然現れる故郷

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 「脳梗塞記念日」その3である。

 生きるか死ぬかの瀬戸際にいたのは確かだが、激痛を伴うわけではなく、それこそぼんやりと三途の川で船を待っているような感じだった。
 三途の河原で酒盛りこそしなかったが、もう識者はお分かりのことと思うが、この光景は上方落語の名作『地獄八景亡者戯』(じごくばっけい・もうじゃのたわむれ)そのものである。
 死の間際に落語とは不謹慎! だからこそ船頭は逃げたのかもしれない。
 しかし何ですな、人間、死のうとする間際、案外とつまらない夢を見るものですな。

 その夜だったか次の夜だったか、ぼくの脳裏に俳句が一句、浮かんでは消えなかった。まるで記憶にない句だ。ぼくの作品でもない。
 
   物書きて扇引さく余波哉 (ものかきて おおぎひきさく なごりかな)

 ぼくの記憶にない句がはっきりとみえる。聞こえる。
 何だこの句は? 何なのだろう? と思いながら数ケ月、退院したぼくはネットで検索。すると一発で解明する。作者は芭蕉。有名な句だった。
 芭蕉の『奥の細道』の旅の終盤のこと。金沢から加賀、越前丸岡まで芭蕉を送って来たのは、後に「蕉門十哲」とされた北枝という俳人。芭蕉が彼との分かれを惜しんで詠んだ句だった。
 ああ、そうだった、知らないわけがないのだが、すっかり忘れていたようだ。その句が死の間際にいるぼくの肩を叩いたのだ。
 句の解説はこの場では止めておくが、別れの淋しさに溢れる秀句だ。

 ところがですな。ぼくはこの句を記憶していなかった。『奥の細道』にある60数句はほとんど知ってるはずなのに、この句の記憶だけは飛んでいた。
 でも、ぼくの死の間際、ぼくに語りかけてきた句は、まさにこれなのだ。
 わが故郷、金沢そして加賀路の句なのである。

 物書きで歌人のぼくが、故郷を忘れ、辞世の歌も遺さずに死ぬことを閻魔さんが怒って、ぼくにこの句を思い出させたのかもしれない。

 ならば狂歌、腰折れ一首。

   「物書きて扇引さく余波哉」引き裂きそこね戻るこれの世

 ではまた。

 写真は丸岡市天竜寺にある「余波の碑」。雪の日に防寒のゴザをかぶせてあるのが面白いので、ネットから無断コピペ。このような防寒用のかぶり物を加賀地方では「ゴザ帽子(ござぼし)」と言っていたっけ。

2016.10.19

 地獄八景亡者戯

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 「脳梗塞記念日」その2である。

 昨年10月6日の深夜、半田病院のICUで気を失っていた。
 ぼんやりした記憶の中だが、ぼくは、どうやら地獄の入口にいるようだ。どこかで見たような、薄い煙というか靄というか、そんな中にあの世界が見えるのである。
 こうして死ぬのだな……、と思っていた。

 そこに川がある。「これが三途の川だな」と廻りを見ると数百人もの人が、やはり、ぼんやりと佇んでいる。
 「この人たちもあちらの世界に行くのだ・・」。

 そこへ船が来た。
 船頭がいて、船賃を集めている。
 「料金がいるんや」。
 船頭がぼくに、「あんたは6400円!」と言う。
 「えらい高いや」とぼく。
 「タバコを吸ったやつは、ぱっぱ、64や。6400円!」と船頭。
 「ぼくはタバコを10年も前に止めた」
 「なら、半分でいい。3400円!」
 「そりゃ半分と違うよ。半分なら3200円やろ!」
 「うるさいやつだな! お前は乗せてやらない!」。

 船はぼくを乗せず行ってしまった。
 どうやらぼくは三途の渡しの船頭に嫌われたようだ。
 「嫌われ者、世に憚る」
   ・・お後がよろしいようで。

 以上は作り話のようだが、ぼくが実際にその夜、見た夢そのものである。
 そして、地獄行きの三途の渡し船に乗り損ねたぼくは、何となく今は生きているのである。

 近日のその3をお届けする。

2016.10.10

 脳梗塞記念日

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   「まだ生きているよ」と叫んでみたいから 10月6日は脳梗塞記念日

 ふざけて話すことではないが、1年前の10月6日のぼくは、まさに死線をさまよっていた。
 前日の5日の夕方、下半身が麻痺。歩けなくなった。
 ところが6日は大阪府保護司会での講演の仕事が入っていた。半年も前からのオファで、大阪の名士が200名以上もお集まりになる会だ。まして講演者はぼくだけ。行かないわけにはいかない。
 6日朝も相変わらず下半身は動かない。でも幸い、生意気を言う口だけは無事だった。
 芸人は舞台で死ねれば本望というが、作家はどこで死ぬのが本望なのか分からぬが、ともあれ、「行かねばならぬ! 行かねばならぬ!」。

 今になれば自慢話のようだが、必死の強行軍でこの仕事をこなした。
 JRにお願いして車椅子を手配してもらい、朝7時に乙川発→名古屋→新大阪と車椅子リレー。新大阪からタクシーで会場のシェラトン都ホテルに10時前に到着した。
 JRさんありがとう。もう悪口は言いません。

 恰好は悪いがホテルが用意してくれた車椅子で登壇。
 出来は良くないが、「榊原亀三郎と弱者救済事業」を80分話した。不思議なもので壇上では意外と元気が出る。
 見栄を張って言えば、使命感とか責任感とかいうやつが身体を支えてくれていたようだ。200名を超える人たちの眼もぼくを支えてくれていたようだ。

 講演が終わり懇親会。失礼したかったが、この会はぼくが一枚看板。中座はできない。ここまでは仕事だとがんばる。目の前に一流ホテルの料理が並ぶが手が出ない。大好きなビールもコップ半分も飲めない。
 終会。帰りは大阪に留まるつもりだったが、そんな気にはとてもならず、一目散に半田まで帰る。夕方7時過ぎ帰宅。
 バタ! と仰向けに倒れ、救急車。ICUへ。

 ここで初めて病名が脳梗塞と知る。
 医師が言う。「発病から4、5時間なら有効な治療法があるが、あなたは発病から24時間も経っている・・・・。」

 直らないと宣告された。

 それを聞きながら、ぼくの意識は薄れたり、戻ったり…。薄れたり、戻ったり…。

 「人間、こうして死んで行くのだろうな…」、と思いながら眠ってしまった。
 10月6日、ぼくの脳梗塞記念日である。

 その夜、2つの夢を見た。はっきりと覚えているその夢のことは次回に。

2016.10.04

 お寺フェアに出展

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 知多郡の曹洞宗青年会が「お寺フェア」を開いた。
 10月1日(土)半田市乙川の「海蔵寺」が会場だった。
 はんだ郷土史研究会にも地元ネタでの参加要請があった。では、と「地元の生んだ知られざる偉人たち」のパネル展を持たせてもらった。当会の得意ネタである。

 当日、朝の小雨もあがり好天となり、800人を超す来場者だったという。座禅、お稚児行列、経画といったお寺さんらしいものから、フリーマーケット、屋台など縁日風のものもあって楽しいイベントだ。

 当会は庫裏の2階の大広間で「パネル展」。
 「大碇紋太郎」「榊原亀三郎」といった知られざる偉人から、「明治天皇」「豊田佐吉」「新美南吉」など知られた偉人など、半田ゆかりの偉人たちの秘蔵パネルを展示した。

 展示会場を見ていて感じたのは、これらの資料が〝とても貴重で価値のあるもの〟と分かる人と、〝こんなものはどこにでもある〟と思っている人の違いだ。
 別に優劣を言っているわけではない。
 思わず、「猫に小判とは、このことだな」と思ったのだ。それは個々の価値観の違いだから仕方ないことだ。

 ともあれ、当会が長い時間と労力。それにそれなりのお金を使って収集した資料群が多くに人にお披露目できたことに感謝している。誘ってくれた海蔵寺さんにも。

 でも見学客に「分かる人」も「分からない人」もいる?
 結構、結構。ご観覧は終日でゆうに100名を超えた。嬉しいことだ。知られざる偉人たちも喜んでいることだろう。
 

2016.09.23

 能登はやさしや土までも

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 9月15日、榊原弱者救済所跡を視察に訪れたのは石川県羽咋市保護司会のご一行17名。昨年来、愛知県下の各地や静岡県の数カ所からはおみえいただいたが、石川県からは初めてのご訪問である。
 羽咋(はくい)といえば能登半島の中程、まさに遠路ご苦労様ですと申し上げたい。

 ご一行は現地を視察。その後、鴉根区民館に移動。ぼくが「榊原亀三郎と弱者救済事業の苦労と実績」のような話をさせていただく。そして、拙書『幸せの風を求めて』や絵本『いばりんぼうのカメ』、DVD『榊原亀三郎物語』などをお買い上げ願うように必死に啖呵売! 
 それがいつものスタイルである。
 おっと、誤解のないように申し上げる。本の売り上げは榊原弱者救済所保存会の活動資金となる。ぼくの利益では決してない。
 弱者救済事業は辛くて金にはならないのだ。昔も今もそうなのだ。・・・それでいいのだ! 念のため。

 さて羽咋の皆さまを前に講演する時、危なくも目頭が熱くなった。
 実はぼく、石川県金沢の出身。能登の羽咋や七尾、輪島にも馴染みがある。親戚もある。ご一行の会話には懐かしい故郷訛りがいっぱいだったからだ。

 能登地方はこう言われている。
  「能登はやさしや土までも」。
 「土」は地面の土でもあるが、人間の根幹との意味だろう。裏も表も優しいということだ。つまり、他人への気遣いができて、人情味豊かな人が多いのが能登である。
 なぜ?
 昔々、妻の優子と金沢へ向かった汽車の中でのことである。冬の日だった。加賀平野は一面の雪景色。雪の平野の中に、ぽつんぽつんと家が建っている。ぼくには見慣れた故郷の光景である。
 それを車窓から見て優子は、
 「この地方の家々は近所と仲良くしていかないと暮らせないね。自分勝手な人じゃ生きていけないね」。
 こんなに深い雪に閉ざされた日々では、近所が助け合っていかないと暮らしが成り立たないだろうと、しみじみと言うのであった。
 彼女の見ているのは加賀・金沢の景色だが、能登の冬はさらに厳しい。隣の家に行くのさえも大変な日もあるし、風雪で村が陸の孤島になってしまうのも珍しくはない。

 だから、厳しい自然の中で生きるためには、他人を気遣い、また、他人と手を取り合っていなければ冬将軍には太刀打ちはできないのだ。

 「能登はやさしや土までも」。

 日本中がそうあって欲しいとつくづく思う。
 そんなことを思い出させる一日であった。
 

2016.09.08

 浦島太郎がおったとさ

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 昔むかし 知多半島のふきの村に 浦島太郎がおったとさ
 太郎は亀を助け、助けた亀が太郎を背負って 竜宮城に連れていったとさ
 竜宮への入口は ふきの浜の沖にあって そこを四海波と呼んでいたとさ
 竜宮城には それは美しい吉永小百合のような乙姫さまがいて 太郎を歓待してくれたとさ
 太郎は喜んで まるで西まさるが酔っ払ったような顔で3年を過ごしたとさ

 そして太郎は・・・・・

 というお馴染みのお伽話の舞台が武豊町である。それも最近、ねつ造した話ではなさそうだ。天保年間の古地図に「浦島屋敷」や「浦之嶋」があったり、大正末期にできた名鉄河和線の駅に「浦島駅」や「四海波海岸駅」があった。昔々から伝説はあったようだ。
 現在、富貴(ふき)という大きな町も、以前は負亀(ふき=亀に負われ)と書いたという説もある。
 ともあれお伽話の舞台になって嫌なことは何もない。
 みんなで、「昔むかし、ここに浦島太郎が住んでいたとさ」
と言えばいい。みんな笑顔になるだろう。

 先日、Step誌の「にしさんぽ」の取材で久しぶりに浦島伝説の史跡を一回りした。かつて乙姫さまのように美しかった人と一緒にである。
 写真は「亀の墓」。看板のすぐ下の小さな墓がそれ。
 もう一つの写真は「乙姫橋」。そこに佇む人は乙姫さまでなく、かつて乙女だった人(爆笑を)。

 では、そろそろ玉手箱を開けるとするか。さてお立ち会い!

2016.08.29

 「樽」と「桶」論争

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 「これは樽だ」と「いや、桶だ」。
 「お前は桶屋だ!」。
 「違う、うちは樽屋だよ!」。

 ぼくは、こんな論争が大好きである。そして、こんなちょっと知的でちょっと娯楽的な論争のタネを持ち込んで来るのが、竹内和子さんなのである。
 和子さんからのメールを無断で拝借する。

  ◎
 私の同級生で樽屋の娘と会社員の娘の会話です。
 会社員の娘が、樽屋の娘に、”桶屋の娘”と言いました。樽屋の娘は、憤然として「うちは桶屋じゃない」と言います。
 「うちは樽屋だ!」。
 会社員の娘は、「桶屋も、樽屋も同じだ」と言い返す。

 それから大論争になり、桶屋は、樽屋より格式が低いと言う事が論じられました。
  ◎

 和子さんのメールはそれから〝樽と桶の違い〟〝半田地方の樽と桶〟そして、
 「もう一つ申しますと、背の高さくらいの大きなのは六尺あるので、普通は〝ロク〟と言いまして、酒や味噌を醸造するときに使う〝樽〟を指して言います。
 夏場に、酒つくりの準備にロクが、洗って、庭に干してあるのを見ています。今は、琺瑯びきの桶かもしれませんが、木で作った六尺の物は、樽であって、桶ではありません」。

 と郷土風景と持論を展開する。
 確かに酒造どころの半田地方は酒樽の生産も盛んだったようだ。また、大相撲の土俵際で使う力水を入れる桶は、長年、亀崎の〝桶屋〟が造ったもので、その職人は無形文化財だった。

 さて、「桶屋」より「樽屋」の方が格式が高いと、「樽屋」は「桶屋」をバカにする…。なぜだろう? これも面白い。樽は桶よりも大きいから? 樽は酒や味噌など高価なものを入れるのに、桶は水用だからから?
 どうぞどなたでも、この意味の無い論争にご参加ください。
 ぼくはこんな生産性のない論争が大好きである。

  *写真は武豊町の老舗味噌蔵・中定商店の味噌樽。
  そしてご存じ、北斎の富士の絵だがこれは樽だろうか桶だろうか。

2016.08.17

 終戦の日の動員学徒たち/『中島飛行機の終戦』より

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 昭和20年8月15日終戦。
 動員されていた学徒たちは「速やかに帰郷させよ」の命令で続々と駅へ集まっていた。同16日から数日は国鉄半田駅、乙川駅は帰郷する学徒たちで溢れていた。臨時列車も出された。
 ところが、その日の光景は私たちの想像外のものだった。
 拙書『中島飛行機の終戦』のその1章を転記する。

一、動員学徒と女子挺身隊

 終戦となり、各地から動員されていた学生たちが帰郷を始めた頃である。半田製作所に近い国鉄半田駅、乙川駅には毎日、毎日、別れの光景が見られた。
 しかし、ちょっと変わった雰囲気なのである。
 男子学生の多くは口を真一文字に結び、悔しさをみせている。あるいは、敗戦を嘆き号泣する者も少なくない。号泣する友の肩をどんどんと叩く男も泣いている。
 ー日本は本当に負けたのか…。信じたくない男たちである。
 女子学生も泣いている。但し、彼女たちの涙は男たちとは明らかに違う。それは暫く住んだ土地を離れる感傷の涙。帰郷できる感動の涙。いわば嬉し涙なのである。
 その証拠に、寮を出て、駅までの道すがら、彼女たちは手を組み、声を合わせて歌を歌って歩いて来たのだ。
 ♪ラ・ラ・ラ 赤い花束 車に積んで 春が来た来た 丘から町へ♪
 明るい明るい、女学生の歌声だった。
 この学徒と呼ばれる男子学生と、女子挺身隊と呼ばれる女子学生との温度差は、単なる性差なのだろうか。彼ら、彼女らの戦時中、終戦直後をみてみる。

 と本は続く。
 この瞠目すべき駅の風景・・。なのである。

 *写真は男子寮の襖の裏に残されたもの。終戦後2ヶ月もたった10月に書かれた。まだ負けたことを悔いている。ああ男の悲しさ、だろうか。

2016.08.10

 「終戦の日」の特集

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 はんだ郷土史研究会の毎年の7,8月の例会は、「終戦の日の半田」を採り上げて来た。

 昨年は、「玉音放送」をフル再生してみんなで聴いた。
 昭和20年8月15日の正午の時報から始まる20分に及ぶ「終戦の詔勅」の放送である。ほとんどの人が「こんなに長く、こんな丁寧な解説まであったのか」と感想を漏らした。
 「玉音放送は聴いたけど、雑音も多く、何を言っているのか解らなかった」と言う大方の感想は眉唾であることがいみじくも分かった。

 雑音は確かにあったのだろう。しかし当時のアナウンサーが明瞭に内容を話している。これで内容が理解できないはずはない。ではなぜ「理解できなかった」と多くが言ったのだろう。
 たぶん、多くの国民はラジオ放送を聴いていなかった。あるいは聴いたと誤認(故意に)していたのだろう。
 実は、一般国民はラジオ放送どころでなかったはずだ。毎日のめしの心配。空から降ってくる爆弾の恐怖。家を焼かれる恐怖。子供の身の安全。それらに全神経が向いていたのではなかろうか。

 だが、天皇陛下のお言葉を聴かなかったと言うと、憲兵に殴られる。町内五人組から村八分にされる。だから、「聴いたけど内容は理解できなかった」と当たり障りのないようにしていた・・・のである。
 ああ、悲しきは庶民である。

 8月21日の例会は「あなたの終戦の日」を会場のみなさんに聞いてみる。むろん、既に終戦の日を知らない人が大部分だろう。
 ぼくもそうだ。
 でも聞き伝えでもいい。それを語り継ぐのが郷土史研究である。
 
 ○写真は有名な「玉音放送を聞く人たち」だが、どうやら新聞社が撮ったやらせ写真らしいというのが有力。ラジオを聞く男女のこざっぱりした服装、整髪ぶりもあやしい。
 ○対して、沖縄を占領した直後に米軍が撮った「沖縄の子供たち」。やせ細り・・・。感想も書きたくない。この子たちが戦争の最大の犠牲者である。