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2016.08.29

 「樽」と「桶」論争

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 「これは樽だ」と「いや、桶だ」。
 「お前は桶屋だ!」。
 「違う、うちは樽屋だよ!」。

 ぼくは、こんな論争が大好きである。そして、こんなちょっと知的でちょっと娯楽的な論争のタネを持ち込んで来るのが、竹内和子さんなのである。
 和子さんからのメールを無断で拝借する。

  ◎
 私の同級生で樽屋の娘と会社員の娘の会話です。
 会社員の娘が、樽屋の娘に、”桶屋の娘”と言いました。樽屋の娘は、憤然として「うちは桶屋じゃない」と言います。
 「うちは樽屋だ!」。
 会社員の娘は、「桶屋も、樽屋も同じだ」と言い返す。

 それから大論争になり、桶屋は、樽屋より格式が低いと言う事が論じられました。
  ◎

 和子さんのメールはそれから〝樽と桶の違い〟〝半田地方の樽と桶〟そして、
 「もう一つ申しますと、背の高さくらいの大きなのは六尺あるので、普通は〝ロク〟と言いまして、酒や味噌を醸造するときに使う〝樽〟を指して言います。
 夏場に、酒つくりの準備にロクが、洗って、庭に干してあるのを見ています。今は、琺瑯びきの桶かもしれませんが、木で作った六尺の物は、樽であって、桶ではありません」。

 と郷土風景と持論を展開する。
 確かに酒造どころの半田地方は酒樽の生産も盛んだったようだ。また、大相撲の土俵際で使う力水を入れる桶は、長年、亀崎の〝桶屋〟が造ったもので、その職人は無形文化財だった。

 さて、「桶屋」より「樽屋」の方が格式が高いと、「樽屋」は「桶屋」をバカにする…。なぜだろう? これも面白い。樽は桶よりも大きいから? 樽は酒や味噌など高価なものを入れるのに、桶は水用だからから?
 どうぞどなたでも、この意味の無い論争にご参加ください。
 ぼくはこんな生産性のない論争が大好きである。

  *写真は武豊町の老舗味噌蔵・中定商店の味噌樽。
  そしてご存じ、北斎の富士の絵だがこれは樽だろうか桶だろうか。

2016.08.17

 終戦の日の動員学徒たち/『中島飛行機の終戦』より

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 昭和20年8月15日終戦。
 動員されていた学徒たちは「速やかに帰郷させよ」の命令で続々と駅へ集まっていた。同16日から数日は国鉄半田駅、乙川駅は帰郷する学徒たちで溢れていた。臨時列車も出された。
 ところが、その日の光景は私たちの想像外のものだった。
 拙書『中島飛行機の終戦』のその1章を転記する。

一、動員学徒と女子挺身隊

 終戦となり、各地から動員されていた学生たちが帰郷を始めた頃である。半田製作所に近い国鉄半田駅、乙川駅には毎日、毎日、別れの光景が見られた。
 しかし、ちょっと変わった雰囲気なのである。
 男子学生の多くは口を真一文字に結び、悔しさをみせている。あるいは、敗戦を嘆き号泣する者も少なくない。号泣する友の肩をどんどんと叩く男も泣いている。
 ー日本は本当に負けたのか…。信じたくない男たちである。
 女子学生も泣いている。但し、彼女たちの涙は男たちとは明らかに違う。それは暫く住んだ土地を離れる感傷の涙。帰郷できる感動の涙。いわば嬉し涙なのである。
 その証拠に、寮を出て、駅までの道すがら、彼女たちは手を組み、声を合わせて歌を歌って歩いて来たのだ。
 ♪ラ・ラ・ラ 赤い花束 車に積んで 春が来た来た 丘から町へ♪
 明るい明るい、女学生の歌声だった。
 この学徒と呼ばれる男子学生と、女子挺身隊と呼ばれる女子学生との温度差は、単なる性差なのだろうか。彼ら、彼女らの戦時中、終戦直後をみてみる。

 と本は続く。
 この瞠目すべき駅の風景・・。なのである。

 *写真は男子寮の襖の裏に残されたもの。終戦後2ヶ月もたった10月に書かれた。まだ負けたことを悔いている。ああ男の悲しさ、だろうか。

2016.08.10

 「終戦の日」の特集

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 はんだ郷土史研究会の毎年の7,8月の例会は、「終戦の日の半田」を採り上げて来た。

 昨年は、「玉音放送」をフル再生してみんなで聴いた。
 昭和20年8月15日の正午の時報から始まる20分に及ぶ「終戦の詔勅」の放送である。ほとんどの人が「こんなに長く、こんな丁寧な解説まであったのか」と感想を漏らした。
 「玉音放送は聴いたけど、雑音も多く、何を言っているのか解らなかった」と言う大方の感想は眉唾であることがいみじくも分かった。

 雑音は確かにあったのだろう。しかし当時のアナウンサーが明瞭に内容を話している。これで内容が理解できないはずはない。ではなぜ「理解できなかった」と多くが言ったのだろう。
 たぶん、多くの国民はラジオ放送を聴いていなかった。あるいは聴いたと誤認(故意に)していたのだろう。
 実は、一般国民はラジオ放送どころでなかったはずだ。毎日のめしの心配。空から降ってくる爆弾の恐怖。家を焼かれる恐怖。子供の身の安全。それらに全神経が向いていたのではなかろうか。

 だが、天皇陛下のお言葉を聴かなかったと言うと、憲兵に殴られる。町内五人組から村八分にされる。だから、「聴いたけど内容は理解できなかった」と当たり障りのないようにしていた・・・のである。
 ああ、悲しきは庶民である。

 8月21日の例会は「あなたの終戦の日」を会場のみなさんに聞いてみる。むろん、既に終戦の日を知らない人が大部分だろう。
 ぼくもそうだ。
 でも聞き伝えでもいい。それを語り継ぐのが郷土史研究である。
 
 ○写真は有名な「玉音放送を聞く人たち」だが、どうやら新聞社が撮ったやらせ写真らしいというのが有力。ラジオを聞く男女のこざっぱりした服装、整髪ぶりもあやしい。
 ○対して、沖縄を占領した直後に米軍が撮った「沖縄の子供たち」。やせ細り・・・。感想も書きたくない。この子たちが戦争の最大の犠牲者である。

2016.08.05

 暑中お見舞い申し上げます

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 猛暑です。お見舞い申し上げます。
 
 2日遅れたが、8月3日はぼくの母の命日。昭和28年8月3日に亡くなった。確か30歳。結核だった。
 この時代は既に結核の特効薬ペニシリンが開発されていて、それは劇的に効いたという。但し入手手段も限られ、相当に高い薬だったという。祖父が田畑を数枚売ってペニシリンを買う金を作った。

 だがその時、母のお腹には弟がいた。ペニシリンの投与は無理だった。
 弟が産まれて、母にペニシリンが注射された。だが既に手遅れだった。
 弟は母に抱いて貰うどころか、母の顔を見ずに育った。

 母の闘病中にぼくは小学校に入学した。
 登校初日の帰り、母の病室に行った。貰ったばかりの教科書をランドセルに詰めて行った。母は全部の教科書にぼくの氏名を書いてくれた。そして全部の教科書に千代紙でブックカバーをしてくれた。
 千代紙で教科書を包む母の手はとてもきれいだった。

 5年も6年も結核療養所で過ごした母だった。だから着飾った母をぼくは知らない。母はいつもネルの生地の寝間着だった。寝間着の模様はたいがい青い朝顔だった。
 青い朝顔は、ぼくにとって母だった。

 母がいつ死んだのか知らない。葬式はどうだったのかも覚えていない。ぼくが子供だったせいもあるがいつの間にか母は消えてしまったような印象だ。
 実家に母が娘時代に使っていた琴がある。座敷の奥に立てかけてあった。それを見て母を思い出すこともあった。

   金泥の長き袋は母の琴 母弾く音色は細かりしかな

 昔、そんな短歌を詠んだことがあった。
 あの琴はどうなったのだろうか。思い出も細くなってゆく。

2016.07.31

 カラオケでリハビリも・・

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 ありがたいことに脳梗塞の後遺症も少しは落ち着いたようだ。
 でも体力の低下は情けないほど。15分も歩くと疲れる。2時間も机に座っていると立ち上がるのが辛い。これではいかんと数ヶ月前からいろいろとリハビリらしきことを模索している。

 その一つがカラオケだ。
 腹の底から歌えば、腹式呼吸、即ち腹筋運動になる。ストレス解消にも効果は大。ということで最近、数回カラオケ屋に家内と一緒に行っている。ふたりカラオケである。

 ぼくは、思い切り美声を響かせ朗々と歌う・・・・つもりだが、ブランクも長く、腹筋も弱っていることもあり声が出ない。特に高音がまるっきりで出ない。
 発声練習のつもりで、腹から声を出すロシア民謡の『ともしび』『カチューシャ』など。それに、昔から大好きな『早春賦』を歌うが、とても昔の面影はなし。
 これはすべて病気のせい・・ と自らを慰めている。

 ところがだ、優子さん(家内)は高校、大学と音楽専科。本職はピアノだが声楽も多少はかじったのだろう。特に最近、地元のコーラスグループの指導をしていることもあり、うるさい、うるさい。
 ぼくが音を外すとブウブウと文句。ぼくが気持ちよく歌っているのに歌唱指導を始める・・。おい、おい、好きに歌わせてくれよ。
 ぼくはふてくされてビールをグイグイ。
   ♪♪これじゃ身体にいいわけないよ~
 てなカラオケリハビリであります。

 優子さんの歌はどうかって? それはだね、あなた。メゾソプラノで歌う『上を向いて歩こう』は、思わず下を向きたくなるよ!(笑)

 音程優先、こぶしなしのド演歌は演歌のジャンルを外れているぞ!(笑) 
 演歌は適当に音を外すのが味だろう、譜面の通りじゃ面白くないよ、て、ぼくは小声でブツブツ言っているのです・・・、内緒だよ。(笑)
 
 このブログが優子さんに見られないように祈りつつ、
  ♪♪そっと、そっと~ おやすみなさい~

2016.07.26

 大信紡績顛末記

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 7月の『ふるさと講座』は珍しく現代篇。従来は昔々の知多半島の郷土史が主だったが、今回は昭和20年代から40年代、半田で卓越した優良企業の「大信紡績」の誕生から閉鎖までの「顛末」を発表してもらった。
 初めて当会例会に出席される方が30名近く来場。久々の100人近い講座となった。
 新規の方の多くは大信紡績OBの方々だ。驚くのは会社閉鎖から既に40年も経っているのに、それに動員をされたわけではないのに、噂が噂を呼んで集まって来られた方々だ。
 ここに大信紡績の愛着(誇り)が見える。

 簡単に書くと、同社は昭和21年半田市で創業。織物のブームに乗り順風満帆の急成長。一気に従業員数1000人を超える大企業となった。
 ここまでならよくある話。大信はその内容が凄い。「企業は人なり」を地でゆき、地方出身の女子工員のために「女子学園」「女子高校」やがて「通常高等学校」も創設、教育に尽力する。
 企業は利益を出すだけではだめだ。人材を育成する義務もある。まして地方から出てくる若い女子には親身になって教養を得る環境を提供するのも企業の務めだーとの考えだった。

 また、女子寮や社宅も同業他社が「大部屋で雑魚寝」が普通の時に、「社宅は一戸建て、寮は最高のもの」を社員に提供した。
 いわゆる「女工哀史」とは正反対の思想を持った企業だったのだ。

 この点を当時の労働基準監督官だった小栗利治氏は「これぞ模範企業。この地方で突出した労働福祉環境をもっていた」。そして小栗氏はこの講座が開かれることを知ると、「俺にも少し喋らせろ」と黙っていられないほどだったから大信紡績の値打ちが分かる。

 紡積が斜陽化。石油ショックなど構造不況もあり大信紡績も経営不振となった。しかしさすが大信。全従業員の雇用先を完全に確保、退職金や手当なども満額支給し、昭和49年12月、会社を閉じた。

 利益優先の企業が溢れる中、あっぱれ! としか言いようのない会社であった。
 社長は大林信次さんという。この会社で働いた人たちもそんな立派な精神を誇りに思うのであろう。当会に続々と集まってくれたのだ。せちがない現在、利益追求より人材の教養アップに金をかける会社があるだろうか、と思う。

 写真の講座=講師は当時の同社労組幹部の山口孝司さん。と会場の模様。当日は久々に100名に迫る活況。

2016.07.17

 西まさるの「にしさんぽ」

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 知多半島の情報誌『Step』(すてっぷ)に、「にしさんぽ」というコラムが5月号から誕生した。
 わたくし西が、ちーちゃんという歴女と一緒に知多半島の史跡を訪ねるという設定だ。西の「にしさんぽ」と言うと、まるでぼくの冠番組のように見えて嫌なのだが、これは『Step』の編集部がつけたタイトルなので、ぼくは関与していないということを力強く言っておきたい。
 と言うものの自分の名前がついたコラムはどうしても意識する。
 がんばって良いものにしていきたい。

 第1回は阿久比町を散歩。「坂部城」→「阿久比川」と歩き、阿久比の町は菅原道真ゆかりだったこと、昔、阿久比川はマグロが泳ぐほどの大河だったなどを秘話的に話した。

 第2回は阿久比町の2。「於大の墓所」→「前方後円墳」→「ホタル」→「南吉のごん狐の山」と廻りながら、徳川家康が知多半島を特別扱いした原点が実はここなのだ話した。

 3回の7月号は成岩町へ。「成岩城」→「鴻の松」→「榊原弱者救済所跡」と廻り、南吉の狐をダシに、ちゃっかりと「榊原亀三郎」もPR。

 さて、間もなく発売の8月号は成岩町の続き。「鳥出観音」→「抱き地蔵」。そして「古民家カフェ」で休憩。そんな流れである。

 『Step』は地域情報紙とはいえ、知多半島で8万4千部を発行している。各層の読者も多い。一所懸命に散歩してガイドブックに書いてない史跡や歴史秘話を探してみるので、どうぞ一読願いたい。

  *写真はぼくとちーちゃん。ぼくは本物。可愛いちーちゃんは誰かは内緒!

2016.07.10

 7月10日参院戦の朝、人影なし

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 ただ今、平成28年7月10日(日)朝10時40分。写真は、わが事務所の横、JR乙川駅前の光景である。
 愛知県の田舎、知多半島。その田舎、半田市の、そのまた田舎、乙川とはいえ、人口2万人の地区。その玄関口であるはずの駅前に人影はまったくなし。
 静かで良いところ? そのとおり。まったく静かである。

 きょうは7月10日参院戦の朝、人影もなし。声もなし。
 そういえばこの2週間、選挙カーはこの町に来たのだろうか。候補者を乗せない共産党の街宣車が何度か来たが、その他は見ていない。

 きょう多分、自民党が圧勝するだろう。衆参で3分の1以上の改憲勢力になり、憲法を変える方向に日本国は動くのだろう。
 そして数年後には軍歌を歌いながら日本軍は「平和の名のもとに」進軍して行くのだろう。

 どこへ進軍? どこだっていいのだ。まず海外派兵することが重要なのだ。大義などどうにでも後付できる。「平和を守る戦争」というフレーズさえつければどうにでもなる!
 と、指導者たちは話している。高級ホテルの会員制のバーで。

 そんなぼくの予感・予知夢は当たるだろう。
 ともあれ、そんなことは知らん顔で人々は欠伸をしている。参議院選挙の朝である。
 10年後もこの静けさが続きますようにと、せめて祈ろうか。

2016.06.23

 鈴渓の里めぐり 野外講座

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明治初期、知多郡小鈴谷村に鈴渓義塾という私塾があった。
高等小学校の前身だが、「知多の最高学府」といわれるほどの高レベルの教育で多くの全国的な偉人を輩出した。
どんな人がどんな仕事をしたかは当ブログの既報やネットでご検索願いたい。

6月21日、名鉄カルチャースクール+はんだ郷土史研究会の野外講座で同地を訪問した。マイクロバスの定員一杯の27名が参加、この〝ふしぎな学校〟を探求である。

資料室は小鈴谷小学校内にある。
最初の写真。ご説明くださるのは同校校長先生。
特筆すべきは資料の整理と保管。きちんと分類し、桐の箱に保管。箱は50コもあろうか。
ここまで丁寧にやっていれば後世に貴重な資料が残る。あっぱれ! と言いたい。

盛田(株)に移動。ここが「鈴渓義塾」のあった跡地。11代当主盛田命祺が塾の産みの親。この人の存在がなければ、知多半島からこんな多くの偉材を出せなかった。【陶製の胸像が建つ】
ちなみに、ソニーの創業者・盛田昭夫はこの家の15代当主。

常滑市内に移動。明治初期の船主、伊藤嘉蔵邸を訪問。
明治2年建築の古民家、船長の家は趣が深い。
現在は閉鎖しているが、現家主の森下高行氏のご厚意で内部も見学させていただく。
写真は2階部分の天井。船底のような造りになっている。古民家ファンには垂涎の建物だ。
この伊藤家や船会社も鈴渓義塾と関係が深い。

明治初期の知多半島の経済的、文化的地盤は鈴渓義塾が造ったといっても過言ではなさそうだ。

2016.06.15

 狐 南吉の狐 鴉根の狐

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 きょうは訳のわからないことを書く。
 ぼくが解らないのだから、読むあなたも解らないだろう。
 でも、何か解ったら教えてほしい。

 ことの発端は先週の『東海近世文学会』。島田大助先生のご発表は井原西鶴の「狐の四天王」の新解釈。狐のモデルは誰だ、四天王のモデルは誰だ、と興味深い新説で面白い。
 これを書くと長くなるので割愛するとして、服部仁先生が「妖怪に狐はいないね。妖怪は猫、蛇、ガマがほとんど。狐は妖怪になっていない」に注目した。確かに「妖怪狐」はいない。せいぜい「狐の嫁取り」だけだ。

 そんな議論を聞きながら、新美南吉はなぜ狐を多用したのだろうか、とぼくは考えていた。
 南吉は自分の主張を擬人化した狐に代弁させている。だが、代弁者は狐でなくとも狸でもよかった。兎でも鳥でも猫でも悪くないはずだ。
 でも南吉は狐を選んだ。

 「ごん狐」ならぬ「ごん狸」じゃいけなかった?
 「手袋を買う狐」が「狸」でも物語に問題はない。「下駄を履く」のも「油をなめる」のも、狐より狸の方がかえって絵になりそうだ。

 そんなことを考えている。

 訳がわからない? 
 そうでしょう、そうでしょう。ぼくも訳がわからない。
 新美南吉が「狐」を選んだわけをどうぞ考えてみてほしい。どうぞご教示を。

 挿絵は鴉根山の榊原弱者救済所に棲んでいた「三本足の狐」。これは実話で、南吉も知っていたはずだ。