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2017.02.09

 坂の町・亀崎 「にしさんぽ」で見た!

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 情報誌『Step』で知多半島の町をランダムに散歩する「にしさんぽ」を連載している。
 今月(3月号)は潮干祭がユネスコの世界遺産に登録されて盛り上がっている半田市亀崎の町を行くことにした。
 街角には「祝・世界遺産登録」の幟があちこちに、さすがの盛り上がりだ。
 それはそうとして、へそ曲がりのぼくは潮干祭より良いものは無いかと探す。久しぶりに亀崎城址に上がってみた。
 勘のいい人なら、「はは~ん、玉姫(淀)を師崎に連れて来た稲生重政の城跡に来たかったのだな」とお分かりだろう。その通り、大坂の陣の時、豊臣の御座船と高貴な姫を奪って来たのが稲生水軍。その城(本家・・本拠地は師崎の千賀邸)がここ亀崎城である。
 城跡には当然、何もない。しかし海を見下ろせる「観月亭跡」はあった。ここから見る亀崎の海は美しい。

 亀崎は坂の町である。広島の尾道と似て語られることもある。
 その坂の町を歩くの先立ち、Googleマップを見た。そこでビックリ仰天! 黒田鋭三先生の葬儀の看板が写っていたからだ。

 黒田先生は当会の会長、ぼくと一緒に名鉄カルチャー教室の講師も務めてくださった方だ。先生が亡くなったのは昨年7月だ。ところが、「おい! 西くん、亀崎を取材するなら私を連れて行きなさい!」とばかりに画面に登場したのだ。

 何ということだ! しばし画面に釘付けになったぼくであった。

2017.01.26

 法務省局長が榊原弱者救済所跡を視察に。久々の賑わい。

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久しぶりに半田市鴉根の丘が賑わった。
なぜ賑わった?
亀三郎の偉業に触れようと、人々が集まった?
ちゅうちゃう、違う。
霞ヶ関から偉いさんが来たから、それを目当てに人が来た。

こんなことでもないと弱者救済所跡などに人は来ない。
更生保護やら福祉やら、そんな金にもならんことには関わりになりたくない。それが多くの人の心のようだ。まことに淋しいことだが、それは理解もできるし、同情もできる。残念だけどね。

さて、
霞ヶ関の偉いさんって誰れ?
法務省保護局長、畝本直美氏。更生保護行政のトップ。検事正。怖くて偉い人なのである。しかし嬉しいことに、この人がなんと、若くて美しい女性なのだ。

凄いことを聞いた。
全国の都道府県に一つづつ検察庁がある。北海道だけは4つあり、全部で50の地方検察庁があり、そこのトップが検事正である。その50箇所の検事正のうち女性はたった3人。高知、熊本、島根とのこと。
彼女は保護局長に就任する前は、その高知県のトップ。全国で3人のうちの一人である。
検事正の仕事はよく分からないが、怖い顔で犯罪者と犯罪を吟味するのだろう。

ところが今日の畝本局長は違った。優しい顔でニコニコと榊原弱者救済所史跡公園を視察してくれた。
そして、ぼくと会った瞬間、「あなたが西まさるさん! 本を読みましたよ! DVDも観ましたよ!」と言ってくれた。

これは何より嬉しい。あっぱれ! 

ぼくが史跡公園の説明者に指名された。
冒頭、ぼくは局長に「こんなことでもなければ人々は弱者救済所や福祉施設に来てくれません。あなたは人寄せパンダになって、どんどんPRの片棒を担いでください」と嫌がられるかな、と思いながら言ってみた。
局長は少しも嫌な顔もせず、にっこりと微笑みながら大きく頷いた。

一瞬、鴉根の丘に幸せの風が吹いた。

 *青色のスーツが保護局長。写真はあえて美人の顔が見えないものを掲出した。見たければ現地においで。

2017.01.23

 若者、ばか者、よそ者と淀殿伝説

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 地域を活性化させたり、既存のものを革新するのは「若者・ばか者・よそ者」という。当たっているようだ。
 それは何もその3者が偉いわけでもなく、特別な能力を持っているわけでもない。ただ、既成の事実をよく知らないから物事を見る視点が既成の人と違うからだろう。
 知多半島人歴が10年少々の、よそ者でばか者のぼくは(若者でないのは残念だが)、この地で埋もれた郷土の偉人を見つけ、様々なスポットライトを当てた。
 全国的な有名どころでは、清水次郎長、大碇紋太郎、豊田佐吉、榊原亀三郎など。さらに大高源五や新吉原遊郭を支配した松本清十郎ら南知多衆など。
 驚くほどの面々だ。
 これらの人物の生い立ちや偉業がこの地に埋もれていた。
 そして地元の人たちはこれらを既成の生活の中の当然のものとして拾うこともPRすることもしなかったのだ。

 善し悪しを言っているのではない。
 これを「宝の持ち腐れ」と言えば、ぴったりだろう。知多半島には歴史的な宝がいっぱい埋まっている。

 また一つ、宝を発見した。
 大阪の陣。大阪城落城。秀頼や淀は城内で自刃したというが遺体も遺書も遺品も発見されていない。
 城から脱出したという説もある。

 その淀=茶々が千賀水軍の稲生重政により、知多半島の師崎に匿われていた。その詳細は、『はんだ郷土史だより70号』に詳しく書き、また、この2月例会でも話した。

 またまた、よそ者でばか者の西まさるが面倒を起こした、と地元の識者は言うだろう。
 さて、さて・・・
 続きはまたの機会に。

 写真は師崎・延命寺の「姫塚」。実は茶々の墓? あるいはダミー。間もなく真相は分かるかな?

2017.01.08

 新春より

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 罹患以来、作業効率が極端に低下している。
作業効率だけでなく、作品や文章の質まで低下しているのじゃないかとビクビクしている。
 月末締め切りのコラムの仕事を2つばかり積み残している。先方の出版社が年末年始の休業中だから催促もない。気持ちの良い正月だ。
 とも言っていられないので正月2日、Step誌の「にしさんぽ」の取材に出た。今回は「小鈴谷」を書く。

 伊勢湾沿いに車を走らす。運転は運転手兼アシスタント兼西まさる編集事務所社長兼ピアニスト兼地元のコーラスグループの指導者兼わが女房の優子さん。けっこう忙しい人である。

 爽やかな日だ。
 波もない伊勢湾に海苔の養殖棚がひろがり、その先に蜃気楼のように中部空港が浮かぶ。これならセントレアと言ってもいい光景だ。

 穏やかで、トランプ波が暴れない年であることを祈ろうか。
 

2017.01.01

 謹賀新年 西まさる&はんだ郷土史研究会

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謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

 昨年一年、『はんだ郷土史研究会』は10数年の倣い通り、例会は一度も休まず遅れず開催できました。『はんだ郷土史だより』も遅れることなく隔月発行を続け、70号をお届けできました。
 この牛歩の歩みを酉年も続けていきたいと思います。

 西まさる個人のこと。
 昨年は疲れました。病気は快方に向かいましたが、体力、気力の低下は補いようがなく、今まで1~2日で出来ていた雑文程度の仕事が1週間もかかるといった有様でした。
むろん、纏まった本などは出来ようもなく、残念、無念の日々でした。

 今年こそ……。
 『新吉原遊郭を造った男たち』を纏めたい。これを決意の第一に置きたいと思っています。

 では、本年も変わらぬご指導のほど、深く、願いあげます。

2016.12.13

 忠臣蔵 勅使饗応料理の全て。研究者の徒労

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 研究者が世の役にも立たぬことを夢中になって調べ、鬼の首を取ったように喜々として発表しているーー と、今さら自虐的に言うつもりはないが、忠臣蔵の季節になるといつも思い出すのは「勅使饗応料理」の献立を懸命に調べたことだ。そして、鬼の首を取ったように喜々として発表したぼくの姿だ。
 そんなもの、誰も興味を示さなかったのに。

 浅野内匠頭と吉良上野介の喧嘩のネタは数々語られているが、その一つは、勅使に出す料理だった。
 本膳料理か精進料理かのやりとりだ。その日に実際に出した料理の献立を調べた。ちょっと苦労したが次の献立だった。

 この献立を拙書『忠臣蔵と江戸の食べもの話』(新葉館出版)に書き、少々は話題になると思っていたが、見事、空振りだった。
 悔しいから、ここに書いておく。
 興味のない方は読まなくていいゾ!

 勅使の前に、まず三つの三方が出る。ここから会席の始まりである。
 三方の一つには敷紙に長熨斗。
 一つには雑煮椀、梅干盛、田作盛。
 三番目の三方は蓋置きである。
 その三方がすべて片付けられ、いよいよ三汁十一菜の本膳料理となる。

 ○本膳は、
 膾(鯛・よせ赤貝・白髭大根・木耳せん・栗生姜・金かん)。
 香の物(奈良漬瓜・守口大根・粕漬茄子・味噌漬人参・味噌漬なた豆・塩山椒)。
 煮物(ひらき鴨・色紙麩・つみせり)。
 汁(つみれ・しめじ茸・葉大根・薄皮牛蒡・めうど)。
 ご飯。
 ○二の膳は、
 杉箱(結えい・花形山吹・穂くわい・広岩茸・八重成・敷みそ)。
 小桶(のしもみ)。
 汁(鯛背切・木の芽)。
 酒浸(塩引鮭・もみしめ貝・黒くらげ・よりかつお・山川酒)。
 ○三の膳、
 差し味(鯉子付・かき鯛・えんす・海そうめん・くねんぼ・わさび)。
 煎酒。
 汁(わかめ)、茶碗(花みる貝・土筆・かけしお)。
 ○与の膳、
 向詰(小鯛・かけしお)。
 ○五の膳、
 洲浜台(大坂かまぼこ・みの焼あいなめ・あんかけたいらぎ)。
 平皿(甘鯛ふわふわ・みの笠茸・鍵わらび)。

 以上が、五の膳の三汁十一菜である。

 これが勅使饗応料理の全て。苦労して入手した原典通りである。
 しかし何だね。こんなものを長い時間と労力を費やして調べる、物書きや研究者は、淋しい人種だね。
 では、ご機嫌よう。

2016.12.07

 吉原遊郭の揚屋 尾張屋清十郎の生家?

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 新吉原遊郭を支配した張本人、尾張屋清十郎。彼は尾張国知多郡須佐村の神職・禰宜左衛門の子であることが分かった。禰宜左衛門の神社は須佐村高浜の「土御前社」である。つまり清十郎の実家はここだったといえる。但し、清十郎がここに暮らしていた時の神社は写真の場所でなく、もっと山頂近くだった。

 この土御前社は知多最古の寺「極楽寺」に隣接していて、ともに「求聞持山(ぐもんじ)」の山腹にある。
 求聞持山の山頂には、昔、修験者が修行していた「五文敷」という聖地のような場所にあったことは『極楽寺の歴史』などで分かっていた。多くの修験者たちがここで心身を鍛えていたのだろう。

 土御前社は切り立った山の上の社というから、小さな祠があるだけとの先入観をぼくは持っていた。だからわざわざ訪ねる気にもならないでいた。
 『新吉原遊郭と尾張・南知多衆(仮題)』をいよいよ上梓する段階になって、一度行ってみるか、と重い腰を上げた。行ってびっくり、こんな立派な神社だった。
 写真をみてほしい。
 写真㊧の長い階段をどんどんと登るのだが、上部の左に小さくみえるのがかつての五文敷への登り口。鳥居がたっている。
 写真㊥ 明治のものだが、「吉原」「松本」「家田」との家名。思いが巡る名前だ。
 写真㊨ ここから数百歩上に「五文敷」があった。修験者の高下駄と法螺貝の音が聞こえそうだ。ついでに書くが写真の男はぼくである。杖もなしでスタスタ… ではないが元気なものだ。

 尾張屋清十郎こと松本清十郎の生家はここかもしれない。生家でないとして、この地が彼の実家である可能性は極めて高い。
 ここに何かの物的資料(エビデンス)が眠っている。そして、それがぼくに「おいで、おいで」をしているのである。

 

2016.11.28

 いただきもの万歳! 西まさる編集事務所にボンショ!

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きょうはいい日だ。
当事務所にいらっしる方々が何故か、手土産を持って来てくださる。
いつもはまるでないことが、きょうは奇跡のように起こっている。

友人の猟師が自分で獲ったタコを干してつくった通称「ひっぱりタコ」をくださった。干してもこの大きさ、元々の立派なタコが想像できて感激する。このまま炙って酒の肴もいいし、水で戻してからたこ飯にするもいいと言う。わが家は肴に決まってる。

ご自分の庭で穫れた「ぎんなん」を持って来たくれたのは成岩のSさん。すごい量だ。たっぷりの塩で炒めるといいという。なるほど。

よしよし、今夜は「タコ」と「ぎんなん」で一杯飲るぞ、と思っていたら、何と望外の良い酒が飛び込んで来た。焼酎の銘酒「萬膳庵」だ。これは高価なプレゼント。これは大事に飲まなきゃ。

すると何と、別の方が「もらい物だけど俺は飲まないから飲んで」と「二階堂」が。「これは焼酎の宝箱や!」とご機嫌である。

あれあれ、きょうはどんな日だ。盆と正月が一緒に来たよな、ボンショだ!

すると優子のコーラスの生徒さんがひょっこりと顔を出し、「カリン」を一袋置いていった。

ボンショにクリスマスが合同! 
あすが怖いような、きょう一日でありました。

2016.11.21

 吉原遊郭 尾張屋清十郎こと松本清十郎

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 ここ数回、当会の『ふるさと講座』では、「新吉原遊郭と尾張・南知多衆」と題して、新吉原遊郭を〝建設し〟〝遊郭を支配した〟のは松本清十郎を筆頭にする知多半島の須佐村の男たちだった、という講座を続けている。
 思えば、この件を発見したのは10年ほど前、以来、各地の講演などを含め、何十回もこの発表をしている。
 但し、ぼくの話が既存の伝承とは違う、いわば新発見であることからだろう、皆さんは、なかなか素直に受け入れてはくれていないようだ。
 そして再々、松本清十郎について「実在の人物だったのか」などの質問が来るので、ここで少しだけ書いておきたい。
 今回は清十郎のプロフィールと当時、江戸で彼がどのようなものであったかのかを文献からみてみる。

★松本清十郎(尾張屋清十郎)
 揚屋清十郎と呼ばれることもある。(不明~元禄5年(1692))
 尾張国知多郡須佐村高浜の出身、神官、禰宜左ヱ門の子。小佐村に寺院を寄進しているので、小佐村の出かもしれない。禰宜左ヱ門は土御前社など須佐村、小佐村、中須村などの神社を複数掛け持ちする宮司だろう。
 明暦2年(1655)の新吉原遊郭誕生と同時に、揚屋「尾張屋」に主人となり、他の須佐村出身者(分かっているだけで14軒)のリーダとして存在した。揚屋は宝暦の頃には吉原ではなくなる。最後の揚屋は「尾張屋」で、この時の主人松本清十郎は3代目だろう。

★吉原遊郭の中の清十郎
①、『吉原大全』に下記の記述。

 寛文七年の犬枕に、ふかきものゝ部に、「あげや清十郎」と見ゆ。その住家の大なるも思ふべし。

②、尾張屋清十郎の庭に、「通う神」の道祖神(地蔵堂?)があり、吉原の遊女たちの信仰を集めていた。遊女たちが客に手紙を送る時、綴じ目に「かよふかみ かわんじゃう」(=通ふ神 勧請)と書くと、手紙が無事に客の許に届き、願いが叶うとされ、それがひろく遊里の倣いとなっていた。

③、吉原には井戸がなかったが、最初に井戸が掘られたのは尾張屋の前だった。
 『吉原大全』から。

 元禄宝永の比。紀伊国屋文左ヱ門といゝし人。あげや丁・尾張屋 清十郎かたにて。はじめてほりぬき井戸をほらせしに。水おびたゞしく湧き出。ことさら名水なりければ。皆々この水をよび井戸して遣ひけり。中の丁のすへ。呼戸樋(よびとい)のとまりなれば。水戸尻といふ。紀文此井をほらせし時。祝義として。舛にて金銀を斗(はか)り。まきちらしけると。今にかたり伝へ侍る。

④、井原西鶴が『好色一代男』の中で次のように清十郎を書いている。つまり当時のベストセラー作家がモデルにするほど有名だった。

 まづは吉原の咄聞きたし 新板の紋尽し 紅葉は三浦の(高尾)太夫と 評判記なるものを読むが早いか 心ときめき 花の散らない先に さあ 出かけよう と吉原をめざして 一目散 大門口の茶屋 揚屋尾張屋清十郎方にいけば  さすが 御名は 予てより 受け給わっておれば 八畳敷きの小座敷に案内するのでありました

⑤、江戸の毒婦を代表する「妲己(たっき)のお百」。歌舞伎・浄瑠璃・怪談で有名。世にもまれなる美貌だったという「お百(於百)」は、清十郎の後妻になっている。そして数年後、お百は佐竹藩の重臣の妾に譲り渡された。(=秋田騒動になる)

 等々、明暦から元禄にかけて松本清十郎はスーパースターだったことがよく分かる。この清十郎を掘り下げていけば「新吉原遊郭誕生の謎」も解けてくる。
 さて、この続きはまた。

2016.11.18

 大阪行き

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 杖を片手に大阪に行って来た。疲れた。身体が充分に動かないということが本当に辛いことだと実感した。健常者のみなさん! どうぞ健康は大切に、大切にしてくださいよ。

 朝7時に武豊線に乗車。通勤時間帯なのでほぼ満員。でも話し声ひとつ聞こえない。実に静かだ。数百人はひとつの箱に中にいて何の音もないのは不思議にさえ思った。
 人は人と話すことに疲れているのだろうか。

 大阪に着いた。
 大阪環状線に乗った。乗車率は50%もないのにうるさいほどの話し声だ。大きな声の会話が飛び交う。
 「さすが大阪や」と思ったが…、違う。中国語だ。ずっとずっと休まず喋り続けている。4人ほどの会話が車内を占領している。これだけ大声で喋ることがよくあるものだ。まして他人の迷惑など意にも介しないようだ。文化の違いとは恐ろしい。
 うるさい! と怒鳴りたくなったが、日中友好関係を優先して我慢してやった。

 今回の大阪行きは被差別部落の歴史を探る取材だ。場所は大阪、浪速区・芦原橋駅の近所の一帯。江戸時代以前から被差別部落が点在した地域で、現在も『大阪人権博物館(リバティおおさか)』などがある部落解放運動のメッカともいえるところだ。
 ここで関係の方と会う。

 芦原橋の駅を降りる。昔から何度も来ているが15年程前に最後に来た時とまるで変わっていない印象だ。町並みも町の雰囲気にも変化は感じない。「人権問題にも変化はないのだろうか…」とつい思ってしまう。
 街角には「人権啓発」のポスターがあちこち貼られているが、それ以外は町の歴史を物語るようなものはない。
 無事、取材は終えた。良いも悪いも想定内の結果だった。

 疲れた。
 きょうは昔馴染みの千日前の「自由軒」で「名物カレー」を食い、昔馴染みの「立ち飲み屋」に寄って、湯豆腐と水茄子で生ビールを2杯飲む予定だった。その旨、女房にも高らかに宣言して出かけた来たのであるっ!。
 しかし、店の前まで来ても入る気になれない。疲れ果てているのだ。
 もういい! 一目散に帰途についた。

 ああ!大阪 の一日であった。