記事一覧

2009.10.02

 武豊線明治遺産めぐり

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 28日(月)、総員48名で武豊線の鉄道遺産めぐりを実施した。驚いたことは半田市以外から22名のも方が参加したことだ。
 お会いしてみると彼らの多くは本格的な鉄道ファン。いわゆる鉄ちゃんだ。
 明治19年に開通。日本最古がごろごろしている武豊線。亀崎駅⇒乙川・半田間の明治遺産(拱渠、橋脚)⇒半田駅・鉄道資料館・SL⇒旧武豊港駅の転車台。充実の一日だった。
 ことに、蒸気機関車C11265の運転席に乗れたことには一同、満足。少年少女の顔になっていた。

2009.09.25

 男のまん中 鵜飼一三物語 <改訂版>

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 個人的なことでお許しください。
 昨年春、上記の本を書いた。鵜飼一三さんという一宮市の会社社長の自伝である。会社はイチコウ建設という。
 ゴーストライター業の長い僕は、この種類の本は今まで100冊近くも書いている。そのほとんどは自伝の主の名か、架空の作家名でのものだ。
 ところが、鵜飼一三氏の場合は、西まさる、僕の名で書いた。鵜飼氏の希望もあったが、彼の生き方そのものに感動したからである。
 焼け跡からの出発、挫折、一念発起して起業。そして成功。よくある創業者社長のサクセスストーリーだ。
 ところが鵜飼氏の場合は、ちょいと味付けが違う。生き様が違うのだ。
 戦後の焼け野原ではテキヤ。チンピラ同然の暮らし。そして一転、「日本一の左官屋になる!」と懸命に働き、その地方でトップクラスの左官業者、そして総合建設業に進出。だが、成功したと思えば、今の金で3億円がほど競輪につぎ込み、パー。再び、事業に専念するも右翼と対峙。今でいう行政対象暴力と毅然と戦った。国税=マルサが130名が捜査に入る脱税騒ぎも経験。
 そして今は、「金みたい重たいもんは、もういらん」と社会福祉活動に熱心に取り組んでいる。
 面白いなあ― と思って書いたのだが、作者・西の心底には、「このての自伝だし売れないだろうな」と思っていたら、あにはからんや、何と一宮市の大書店のベストセラー10位にランク。先月、堂々の増刷。改訂版として発行の運びとなった。これは「男のまん中」すなわち鵜飼一三氏の生き様への興味、共感であったのだろう。
 「お~い! 元気だせよ!」。
 いい本を書かせてもらった。

2009.09.19

 榊原弱者救済所の石碑

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 榊原亀三郎が明治33年~昭和初期まで身体を張って守り抜いた鴉根弱者救済所。はんだ郷土史だよりで紹介して以来、反響が大きい。その中でも、「現地を見学したい」「石碑を見たい」の声がこのところ多く寄せられている。
 石碑とは写真のもので、救済事業を援助してくださった方々、90名のお名前を彫ってあるのものだ。(写真=朝日新聞)
 救済所跡は私有地で施錠されているが、その許可はとれる。しかし問題は広大な敷地が一面の荒地で腰までも伸びる雑草、それに、「べっ甲亀と白蛇伝説」があるほど、ここには蛇が多く棲んでいるようだ。したがって、今、石碑をゆっくり見学するには格別の勇気がいる。
 晩秋。すなわち雑草が枯れ、蛇たちが地中深く眠ったころ、見学会をしたい。たぶん、11月の初旬。
 参加ご希望の方は、本HPから事務局へメールを一本願います。企画が立ち次第、ご連絡します。

2009.09.17

 仙台

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 先日、仙台まで行ってきた。全くの遊びではないので、多くの観光はできなかった。それでも、蔵王、青葉城、松島、瑞巌寺という観光の目玉だけは廻ってきた。仙台は乗り継ぎで仙台駅と仙台空港へ降りたことはあるが、街は初めてである。
 どこか名古屋の街と似たところがある。道が城下町の地割りそのままで結構広い。近代的な建物が林立している。森の都という割には、それほど緑が多いようには感じなかった。
 しかし、目的の視察の場所は仙台市内であるにもかかわらず、一面緑の世界である。都心から長いトンネルをくぐって太白区という地区に入ったとたん、そこはとても100万人都市とは思えない風景である。道路の両側は大豆なのか、名物のズンダ豆なのか分からないが、豆の畑が長く続く。また訪問した施設では、今困っているのはクマが出没するのとサルによる食害だと聞いた。
 もう一つ驚いたことがあった。松島遊覧の船に乗った際に、ウミネコがエサ欲しさに船を追って来るのだ。そして、船でエサ用に売っているのが「カッパエビセン」である。その「カッパエビセン」を投げるとウミネコは器用に食べる。そして、慣れてくると手から直接食べるやつも出てくる。大変面白いが、これでいいのだろうか。塩気の多いカッパエビセンを食べ過ぎたウミネコは高血圧にならないだろうか。

*写真はカッパエビセンを食べるウミネコ

2009.09.03

 新美南吉の秀歌

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 南吉は童話ばかりでなく、短歌、俳句など定型短詩に際立った才能をみせている。
 知多半島に「エディット」という情報誌があり、西が「新美南吉」を連載している。短歌・俳句を通じ南吉をみるという切り口だ。
 ちょっと玄人好みが過ぎるかもしれないが、あえてこの歌を強力に推した。

 あの声はミミズならずと聞きたれど やはりミミズと吾はも思う 南吉

2009.09.01

 チリンチリン

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「お父ちゃんとチリンチリン乗ろうか」「お父ちゃんとチンチン乗る?」後者は何か変。チリンチリンは自転車のイメージですね。
「自転車の正式名称はチンチン自転車では?」という質問をもらった。私は自転車の修理はするが、自転車についての研究者ではないので、正確な答えをする自信がありません。それで、以下ごちゃごちゃとした話を。
 法律的に言えば自転車は軽車両に属し、道路交通法にも【人若しくは動物の力により、又は他の車両に牽引され、かつレールによらないで運転する車】と規定されている。また普通自転車は長さ190cm幅60cmを超えず、側車及び鋭利な突起物が付いていない二輪及び三輪のものと定められている。分かりにくい?だが、自転車の試験を受ける時一生懸命覚えました。
 明治の初期に自転車が輸入され評判になった。そこで日本でも自転車を造る者が出てきた。ミヤタ自転車の創業者宮田栄助である。名古屋では、岡本松造が英国まで行って研究し、ノーリツ号という自転車をつくりあげた。岡本は名古屋では豊田佐吉、バイオリンの鈴木政吉と並ぶ発明家として知られている。
 自転車は明治期では自在車・西洋車という呼び方もあったようです。また銀輪という言い方も自転車を表しています。現在でも自転車業界のことを輪界と呼んでいます。英語では自転車はバイクまたはバイシクルです。だが、日本ではバイクはオートバイを指します。チャリンコという言い方も広く使用されていますが、語源がはっきりしていないようです。近年、名古屋地方を中心にケッタ、またはケッタマシンという言い方もありますが、あまり上品な表現ではありません。

*写真はオーディナリー型自転車(江戸東京博物館)

2009.08.31

 驚きの巨木 

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 常滑市小鈴谷の鈴渓義塾へ取材に行った。資料も整理され、希望者には古文書も公開してくれる。私財を投じて私塾を創設した盛田命祺の精神は生きていると感じた。ここはまたソニーの本家。そんな精神の延長線上に世界のソニーがあるのかもしれない。
 資料館の隣に白山神社。そこに鈴渓義塾の初代塾長・溝口幹の碑があるというので見てきた。碑も碑だが、神社にあった巨木に驚いた。こりゃ、でかい。下の美女と比べて欲しい。彼女の4~5人はすっぽり収まりそうな幹の太さだ。大きくなり過ぎて倒木の危機もあったのだろう、2本のコンクリートの柱で支えられている。
 植物オンチのぼくには何の木かもわからない。帰宅してネットなどで調べたが「文化財」でもなさそうだ。名所にもなっていない。
 どんな木で、どんな由緒? 誰か教えて。

2009.08.22

 玉木幸則さん

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 強制されて参加する講演会ほど退屈なものはない。興味のないことを長々と聞くのはつらいものである。ほとんど眠さをこらえることにエネルギーを使うことになる。
だが、先日の玉木幸則さんの講演は久しぶりに、聞いた後に清々しさが残った。しかし、玉木さんの話はとても聞き取りにくいのである。仮死状態で生まれ、脳性まひのため話し方や歩き方に障害を持っているのです。彼は現在西宮市に住んで、障害のある方の自立を手助けする活動を精力的に行っている。彼自身、結婚もされ小学生の男の子と女の子を持つ父親であり、しっかり自立もされている。
その玉木さんが、阪神・淡路大震災で家屋の下敷きになり、二時間後に救出されるという経験をしたのです。「障害者は電車に乗る時もトイレを使う時も、いつも我慢をしている。だが、震災のような災害に会うと人間は我慢をする前にやさしさのない勝手な行動をするようになる」と言われた。障害者として震災を体験すると、人間としての本性が見えてくるという話は最も考えさせられた。
タオルで30秒ごとに汗をふきながら、関西弁での冗談を交えての話は心に残るものがありました。

2009.08.17

 新美南吉の下宿先

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 南吉が安城高女時代に下宿していた家が当時のままあるという。教えてくれたのは当会の顧問の大和黎生郎さん。彼と一緒に今さっき帰って来たところだ。
 下宿先は当時、南吉の同僚教師、大見さんのお宅。今は母屋と新家が敷地内に二つ建っている大きなお屋敷である。屋敷の入口は大きな門があるのだが、この門がこの地方独特のようで門というより小さな家(納屋)をくりぬいて門にしているという感じのものだ。その門の一角に部屋があり、そこが南吉の部屋であった。写真の左側、格子戸の部屋がそれである。
 6畳に2畳ほどの板の間の造り。2畳には簡単な湯沸しが出来る程度の洗面所兼台所があったと聞いた。ここで南吉は昭和14年から1年ほど住み安城高女に通ったのだ。学校までは2、3㌔はあるだろうか、当時は見渡す限りの田園地帯「日本デンマーク」である。
 ところで、この下宿の家主のところに南吉の高女時代の教え子たちがやって来て、「こんなみすぼらしい所に南吉先生がお住まいだった思われると嫌だ。きれいに直してほしい」と改修を迫ったという。
 教え子たちの気持は分からないでもないが、そんなこと南吉先生が喜びましょうかね?

2009.08.12

 残暑お見舞い申し上げます

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 ともかく暑い日が続く。
 昔は夏になると、按配よくお化けが出てきて、ぞっとさせてくれたものだ。お化けの納涼効果は氷水と同じくらいはあったろう。
 ところが最近のお化けはすっかりサボり癖がついてか、ちっとも出てこない。どうなっているんだ。
 お化けは墓場や淋しい夜道ばかりでなく、家の隅や階段の上にもたびたび現れて私たちを「冷やして」くれた。そうそう、学校の便所には必ずお化けがいて、子どもたちを「冷やして」くれた。
 おお~い、お化けさん~ 暑いから出てきてくれ~
 今日、お盆。舞台装置も整った。今夜あたりトイレにご注意。あのお化けが現れるゾ~。

 残暑見舞いに、怪談をひとつ差し上げました。