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2016.11.21

 吉原遊郭 尾張屋清十郎こと松本清十郎

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 ここ数回、当会の『ふるさと講座』では、「新吉原遊郭と尾張・南知多衆」と題して、新吉原遊郭を〝建設し〟〝遊郭を支配した〟のは松本清十郎を筆頭にする知多半島の須佐村の男たちだった、という講座を続けている。
 思えば、この件を発見したのは10年ほど前、以来、各地の講演などを含め、何十回もこの発表をしている。
 但し、ぼくの話が既存の伝承とは違う、いわば新発見であることからだろう、皆さんは、なかなか素直に受け入れてはくれていないようだ。
 そして再々、松本清十郎について「実在の人物だったのか」などの質問が来るので、ここで少しだけ書いておきたい。
 今回は清十郎のプロフィールと当時、江戸で彼がどのようなものであったかのかを文献からみてみる。

★松本清十郎(尾張屋清十郎)
 揚屋清十郎と呼ばれることもある。(不明~元禄5年(1692))
 尾張国知多郡須佐村高浜の出身、神官、禰宜左ヱ門の子。小佐村に寺院を寄進しているので、小佐村の出かもしれない。禰宜左ヱ門は土御前社など須佐村、小佐村、中須村などの神社を複数掛け持ちする宮司だろう。
 明暦2年(1655)の新吉原遊郭誕生と同時に、揚屋「尾張屋」に主人となり、他の須佐村出身者(分かっているだけで14軒)のリーダとして存在した。揚屋は宝暦の頃には吉原ではなくなる。最後の揚屋は「尾張屋」で、この時の主人松本清十郎は3代目だろう。

★吉原遊郭の中の清十郎
①、『吉原大全』に下記の記述。

 寛文七年の犬枕に、ふかきものゝ部に、「あげや清十郎」と見ゆ。その住家の大なるも思ふべし。

②、尾張屋清十郎の庭に、「通う神」の道祖神(地蔵堂?)があり、吉原の遊女たちの信仰を集めていた。遊女たちが客に手紙を送る時、綴じ目に「かよふかみ かわんじゃう」(=通ふ神 勧請)と書くと、手紙が無事に客の許に届き、願いが叶うとされ、それがひろく遊里の倣いとなっていた。

③、吉原には井戸がなかったが、最初に井戸が掘られたのは尾張屋の前だった。
 『吉原大全』から。

 元禄宝永の比。紀伊国屋文左ヱ門といゝし人。あげや丁・尾張屋 清十郎かたにて。はじめてほりぬき井戸をほらせしに。水おびたゞしく湧き出。ことさら名水なりければ。皆々この水をよび井戸して遣ひけり。中の丁のすへ。呼戸樋(よびとい)のとまりなれば。水戸尻といふ。紀文此井をほらせし時。祝義として。舛にて金銀を斗(はか)り。まきちらしけると。今にかたり伝へ侍る。

④、井原西鶴が『好色一代男』の中で次のように清十郎を書いている。つまり当時のベストセラー作家がモデルにするほど有名だった。

 まづは吉原の咄聞きたし 新板の紋尽し 紅葉は三浦の(高尾)太夫と 評判記なるものを読むが早いか 心ときめき 花の散らない先に さあ 出かけよう と吉原をめざして 一目散 大門口の茶屋 揚屋尾張屋清十郎方にいけば  さすが 御名は 予てより 受け給わっておれば 八畳敷きの小座敷に案内するのでありました

⑤、江戸の毒婦を代表する「妲己(たっき)のお百」。歌舞伎・浄瑠璃・怪談で有名。世にもまれなる美貌だったという「お百(於百)」は、清十郎の後妻になっている。そして数年後、お百は佐竹藩の重臣の妾に譲り渡された。(=秋田騒動になる)

 等々、明暦から元禄にかけて松本清十郎はスーパースターだったことがよく分かる。この清十郎を掘り下げていけば「新吉原遊郭誕生の謎」も解けてくる。
 さて、この続きはまた。

2016.11.18

 大阪行き

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 杖を片手に大阪に行って来た。疲れた。身体が充分に動かないということが本当に辛いことだと実感した。健常者のみなさん! どうぞ健康は大切に、大切にしてくださいよ。

 朝7時に武豊線に乗車。通勤時間帯なのでほぼ満員。でも話し声ひとつ聞こえない。実に静かだ。数百人はひとつの箱に中にいて何の音もないのは不思議にさえ思った。
 人は人と話すことに疲れているのだろうか。

 大阪に着いた。
 大阪環状線に乗った。乗車率は50%もないのにうるさいほどの話し声だ。大きな声の会話が飛び交う。
 「さすが大阪や」と思ったが…、違う。中国語だ。ずっとずっと休まず喋り続けている。4人ほどの会話が車内を占領している。これだけ大声で喋ることがよくあるものだ。まして他人の迷惑など意にも介しないようだ。文化の違いとは恐ろしい。
 うるさい! と怒鳴りたくなったが、日中友好関係を優先して我慢してやった。

 今回の大阪行きは被差別部落の歴史を探る取材だ。場所は大阪、浪速区・芦原橋駅の近所の一帯。江戸時代以前から被差別部落が点在した地域で、現在も『大阪人権博物館(リバティおおさか)』などがある部落解放運動のメッカともいえるところだ。
 ここで関係の方と会う。

 芦原橋の駅を降りる。昔から何度も来ているが15年程前に最後に来た時とまるで変わっていない印象だ。町並みも町の雰囲気にも変化は感じない。「人権問題にも変化はないのだろうか…」とつい思ってしまう。
 街角には「人権啓発」のポスターがあちこち貼られているが、それ以外は町の歴史を物語るようなものはない。
 無事、取材は終えた。良いも悪いも想定内の結果だった。

 疲れた。
 きょうは昔馴染みの千日前の「自由軒」で「名物カレー」を食い、昔馴染みの「立ち飲み屋」に寄って、湯豆腐と水茄子で生ビールを2杯飲む予定だった。その旨、女房にも高らかに宣言して出かけた来たのであるっ!。
 しかし、店の前まで来ても入る気になれない。疲れ果てているのだ。
 もういい! 一目散に帰途についた。

 ああ!大阪 の一日であった。

2016.11.01

 明治17年の亀崎邨の地図

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 『はんだ郷土史だより』69号で明治17年の亀崎の地図を紹介した。亀崎の豪商家・伊東合資さんから出たもの。
 『はんだ郷土史だより』は一色刷りで不鮮明なので、ここに添付している。
 あえて大きなままの画像にしている必要な箇所をみていただきたい。
 なお、無断転載はお断りする。(郷土史だよりに掲載以外の所有者の許可を得ていない)
 研究のため必要な方は、当方にメールをしてほしい。貸出できるよう協力する。
 この地図の内容や詳細は本紙にある。

2016.10.29

 小学生が次々と

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 突然、事務所の戸が開く。 
 「すみません~! 西の宮貝塚のことを教えてください~」。
 小学3年生という。

 30分後、また。
 「すみません~! 西の宮貝塚のことを教えてください~」。
 今度は母親が一緒だ。母親は小学生の少し後で、ぼくに会釈をするというか、睨むというか、「よろしくお願いします」と口では言うが、「うちの子にちゃんと親切にしないと私が許さない!」という顔で立っている。

 半田市乙川の西ノ宮池近辺に残る貝塚は人骨も貝殻も出た縄文遺跡だ。だが、ぼくは古代史の研究家ではないし知識も薄い。だが、児童たちが「すみません~! 教えてください~」と来る。
 学校で研究発表のテーマが出され、その一つが地元の「貝塚」「古墳」などという。こんな専門外のことをぼくに振られているようだ。しかし児童たちはぼくが専門家と思い、ノートを手にやって来ている。
 まさに困ったものだ。

 これには心当たりがある。
 数年前、乙川小学校の4年生の社会授業の一貫で「西の宮貝塚」が採り上げられ、30人ほどの児童の前で、ぼくが不確かな話をしたことがあった。その時の記録が学校にあって、今の先生がぼくの名をあげたのだろう。

 「すみません~! 西の宮貝塚のことを教えてください~」。
 おいおい、また来た。シャッターを下ろして居留守をつかうとするか。

 写真は「二子塚古墳」。前方後円墳である・阿久比町宮津公民館の前にある。前の駐車スペースと比べると分かりやすいが、小ぶりなものだ。
 この古墳の真贋も論が分かれている。学者でも決められないものをぼくに訊きに来るな、と言いたい。
 早よ、シャッターを下ろそう。

2016.10.22

 突然現れる故郷

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 「脳梗塞記念日」その3である。

 生きるか死ぬかの瀬戸際にいたのは確かだが、激痛を伴うわけではなく、それこそぼんやりと三途の川で船を待っているような感じだった。
 三途の河原で酒盛りこそしなかったが、もう識者はお分かりのことと思うが、この光景は上方落語の名作『地獄八景亡者戯』(じごくばっけい・もうじゃのたわむれ)そのものである。
 死の間際に落語とは不謹慎! だからこそ船頭は逃げたのかもしれない。
 しかし何ですな、人間、死のうとする間際、案外とつまらない夢を見るものですな。

 その夜だったか次の夜だったか、ぼくの脳裏に俳句が一句、浮かんでは消えなかった。まるで記憶にない句だ。ぼくの作品でもない。
 
   物書きて扇引さく余波哉 (ものかきて おおぎひきさく なごりかな)

 ぼくの記憶にない句がはっきりとみえる。聞こえる。
 何だこの句は? 何なのだろう? と思いながら数ケ月、退院したぼくはネットで検索。すると一発で解明する。作者は芭蕉。有名な句だった。
 芭蕉の『奥の細道』の旅の終盤のこと。金沢から加賀、越前丸岡まで芭蕉を送って来たのは、後に「蕉門十哲」とされた北枝という俳人。芭蕉が彼との分かれを惜しんで詠んだ句だった。
 ああ、そうだった、知らないわけがないのだが、すっかり忘れていたようだ。その句が死の間際にいるぼくの肩を叩いたのだ。
 句の解説はこの場では止めておくが、別れの淋しさに溢れる秀句だ。

 ところがですな。ぼくはこの句を記憶していなかった。『奥の細道』にある60数句はほとんど知ってるはずなのに、この句の記憶だけは飛んでいた。
 でも、ぼくの死の間際、ぼくに語りかけてきた句は、まさにこれなのだ。
 わが故郷、金沢そして加賀路の句なのである。

 物書きで歌人のぼくが、故郷を忘れ、辞世の歌も遺さずに死ぬことを閻魔さんが怒って、ぼくにこの句を思い出させたのかもしれない。

 ならば狂歌、腰折れ一首。

   「物書きて扇引さく余波哉」引き裂きそこね戻るこれの世

 ではまた。

 写真は丸岡市天竜寺にある「余波の碑」。雪の日に防寒のゴザをかぶせてあるのが面白いので、ネットから無断コピペ。このような防寒用のかぶり物を加賀地方では「ゴザ帽子(ござぼし)」と言っていたっけ。

2016.10.19

 地獄八景亡者戯

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 「脳梗塞記念日」その2である。

 昨年10月6日の深夜、半田病院のICUで気を失っていた。
 ぼんやりした記憶の中だが、ぼくは、どうやら地獄の入口にいるようだ。どこかで見たような、薄い煙というか靄というか、そんな中にあの世界が見えるのである。
 こうして死ぬのだな……、と思っていた。

 そこに川がある。「これが三途の川だな」と廻りを見ると数百人もの人が、やはり、ぼんやりと佇んでいる。
 「この人たちもあちらの世界に行くのだ・・」。

 そこへ船が来た。
 船頭がいて、船賃を集めている。
 「料金がいるんや」。
 船頭がぼくに、「あんたは6400円!」と言う。
 「えらい高いや」とぼく。
 「タバコを吸ったやつは、ぱっぱ、64や。6400円!」と船頭。
 「ぼくはタバコを10年も前に止めた」
 「なら、半分でいい。3400円!」
 「そりゃ半分と違うよ。半分なら3200円やろ!」
 「うるさいやつだな! お前は乗せてやらない!」。

 船はぼくを乗せず行ってしまった。
 どうやらぼくは三途の渡しの船頭に嫌われたようだ。
 「嫌われ者、世に憚る」
   ・・お後がよろしいようで。

 以上は作り話のようだが、ぼくが実際にその夜、見た夢そのものである。
 そして、地獄行きの三途の渡し船に乗り損ねたぼくは、何となく今は生きているのである。

 近日のその3をお届けする。

2016.10.10

 脳梗塞記念日

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   「まだ生きているよ」と叫んでみたいから 10月6日は脳梗塞記念日

 ふざけて話すことではないが、1年前の10月6日のぼくは、まさに死線をさまよっていた。
 前日の5日の夕方、下半身が麻痺。歩けなくなった。
 ところが6日は大阪府保護司会での講演の仕事が入っていた。半年も前からのオファで、大阪の名士が200名以上もお集まりになる会だ。まして講演者はぼくだけ。行かないわけにはいかない。
 6日朝も相変わらず下半身は動かない。でも幸い、生意気を言う口だけは無事だった。
 芸人は舞台で死ねれば本望というが、作家はどこで死ぬのが本望なのか分からぬが、ともあれ、「行かねばならぬ! 行かねばならぬ!」。

 今になれば自慢話のようだが、必死の強行軍でこの仕事をこなした。
 JRにお願いして車椅子を手配してもらい、朝7時に乙川発→名古屋→新大阪と車椅子リレー。新大阪からタクシーで会場のシェラトン都ホテルに10時前に到着した。
 JRさんありがとう。もう悪口は言いません。

 恰好は悪いがホテルが用意してくれた車椅子で登壇。
 出来は良くないが、「榊原亀三郎と弱者救済事業」を80分話した。不思議なもので壇上では意外と元気が出る。
 見栄を張って言えば、使命感とか責任感とかいうやつが身体を支えてくれていたようだ。200名を超える人たちの眼もぼくを支えてくれていたようだ。

 講演が終わり懇親会。失礼したかったが、この会はぼくが一枚看板。中座はできない。ここまでは仕事だとがんばる。目の前に一流ホテルの料理が並ぶが手が出ない。大好きなビールもコップ半分も飲めない。
 終会。帰りは大阪に留まるつもりだったが、そんな気にはとてもならず、一目散に半田まで帰る。夕方7時過ぎ帰宅。
 バタ! と仰向けに倒れ、救急車。ICUへ。

 ここで初めて病名が脳梗塞と知る。
 医師が言う。「発病から4、5時間なら有効な治療法があるが、あなたは発病から24時間も経っている・・・・。」

 直らないと宣告された。

 それを聞きながら、ぼくの意識は薄れたり、戻ったり…。薄れたり、戻ったり…。

 「人間、こうして死んで行くのだろうな…」、と思いながら眠ってしまった。
 10月6日、ぼくの脳梗塞記念日である。

 その夜、2つの夢を見た。はっきりと覚えているその夢のことは次回に。

2016.10.04

 お寺フェアに出展

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 知多郡の曹洞宗青年会が「お寺フェア」を開いた。
 10月1日(土)半田市乙川の「海蔵寺」が会場だった。
 はんだ郷土史研究会にも地元ネタでの参加要請があった。では、と「地元の生んだ知られざる偉人たち」のパネル展を持たせてもらった。当会の得意ネタである。

 当日、朝の小雨もあがり好天となり、800人を超す来場者だったという。座禅、お稚児行列、経画といったお寺さんらしいものから、フリーマーケット、屋台など縁日風のものもあって楽しいイベントだ。

 当会は庫裏の2階の大広間で「パネル展」。
 「大碇紋太郎」「榊原亀三郎」といった知られざる偉人から、「明治天皇」「豊田佐吉」「新美南吉」など知られた偉人など、半田ゆかりの偉人たちの秘蔵パネルを展示した。

 展示会場を見ていて感じたのは、これらの資料が〝とても貴重で価値のあるもの〟と分かる人と、〝こんなものはどこにでもある〟と思っている人の違いだ。
 別に優劣を言っているわけではない。
 思わず、「猫に小判とは、このことだな」と思ったのだ。それは個々の価値観の違いだから仕方ないことだ。

 ともあれ、当会が長い時間と労力。それにそれなりのお金を使って収集した資料群が多くに人にお披露目できたことに感謝している。誘ってくれた海蔵寺さんにも。

 でも見学客に「分かる人」も「分からない人」もいる?
 結構、結構。ご観覧は終日でゆうに100名を超えた。嬉しいことだ。知られざる偉人たちも喜んでいることだろう。
 

2016.09.23

 能登はやさしや土までも

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 9月15日、榊原弱者救済所跡を視察に訪れたのは石川県羽咋市保護司会のご一行17名。昨年来、愛知県下の各地や静岡県の数カ所からはおみえいただいたが、石川県からは初めてのご訪問である。
 羽咋(はくい)といえば能登半島の中程、まさに遠路ご苦労様ですと申し上げたい。

 ご一行は現地を視察。その後、鴉根区民館に移動。ぼくが「榊原亀三郎と弱者救済事業の苦労と実績」のような話をさせていただく。そして、拙書『幸せの風を求めて』や絵本『いばりんぼうのカメ』、DVD『榊原亀三郎物語』などをお買い上げ願うように必死に啖呵売! 
 それがいつものスタイルである。
 おっと、誤解のないように申し上げる。本の売り上げは榊原弱者救済所保存会の活動資金となる。ぼくの利益では決してない。
 弱者救済事業は辛くて金にはならないのだ。昔も今もそうなのだ。・・・それでいいのだ! 念のため。

 さて羽咋の皆さまを前に講演する時、危なくも目頭が熱くなった。
 実はぼく、石川県金沢の出身。能登の羽咋や七尾、輪島にも馴染みがある。親戚もある。ご一行の会話には懐かしい故郷訛りがいっぱいだったからだ。

 能登地方はこう言われている。
  「能登はやさしや土までも」。
 「土」は地面の土でもあるが、人間の根幹との意味だろう。裏も表も優しいということだ。つまり、他人への気遣いができて、人情味豊かな人が多いのが能登である。
 なぜ?
 昔々、妻の優子と金沢へ向かった汽車の中でのことである。冬の日だった。加賀平野は一面の雪景色。雪の平野の中に、ぽつんぽつんと家が建っている。ぼくには見慣れた故郷の光景である。
 それを車窓から見て優子は、
 「この地方の家々は近所と仲良くしていかないと暮らせないね。自分勝手な人じゃ生きていけないね」。
 こんなに深い雪に閉ざされた日々では、近所が助け合っていかないと暮らしが成り立たないだろうと、しみじみと言うのであった。
 彼女の見ているのは加賀・金沢の景色だが、能登の冬はさらに厳しい。隣の家に行くのさえも大変な日もあるし、風雪で村が陸の孤島になってしまうのも珍しくはない。

 だから、厳しい自然の中で生きるためには、他人を気遣い、また、他人と手を取り合っていなければ冬将軍には太刀打ちはできないのだ。

 「能登はやさしや土までも」。

 日本中がそうあって欲しいとつくづく思う。
 そんなことを思い出させる一日であった。
 

2016.09.08

 浦島太郎がおったとさ

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 昔むかし 知多半島のふきの村に 浦島太郎がおったとさ
 太郎は亀を助け、助けた亀が太郎を背負って 竜宮城に連れていったとさ
 竜宮への入口は ふきの浜の沖にあって そこを四海波と呼んでいたとさ
 竜宮城には それは美しい吉永小百合のような乙姫さまがいて 太郎を歓待してくれたとさ
 太郎は喜んで まるで西まさるが酔っ払ったような顔で3年を過ごしたとさ

 そして太郎は・・・・・

 というお馴染みのお伽話の舞台が武豊町である。それも最近、ねつ造した話ではなさそうだ。天保年間の古地図に「浦島屋敷」や「浦之嶋」があったり、大正末期にできた名鉄河和線の駅に「浦島駅」や「四海波海岸駅」があった。昔々から伝説はあったようだ。
 現在、富貴(ふき)という大きな町も、以前は負亀(ふき=亀に負われ)と書いたという説もある。
 ともあれお伽話の舞台になって嫌なことは何もない。
 みんなで、「昔むかし、ここに浦島太郎が住んでいたとさ」
と言えばいい。みんな笑顔になるだろう。

 先日、Step誌の「にしさんぽ」の取材で久しぶりに浦島伝説の史跡を一回りした。かつて乙姫さまのように美しかった人と一緒にである。
 写真は「亀の墓」。看板のすぐ下の小さな墓がそれ。
 もう一つの写真は「乙姫橋」。そこに佇む人は乙姫さまでなく、かつて乙女だった人(爆笑を)。

 では、そろそろ玉手箱を開けるとするか。さてお立ち会い!