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2009.12.08

 幸せの風を求めて 榊原弱者救済所 見学会

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 12月5日、朝より小雨。
 「これでは人は来ないな…」とがっかり。「誰だ雨男は!」と愚痴を言いながら現地へ。
 ところが、ところが、開場時間の10時には次々と見学者が。
 ありがとうございます。これも榊原亀三郎・べっ甲亀のお蔭です。来場者は約70名。予想の50名を上回る人数でした。

 この1000坪の荒れ野は、かつて4000坪あって、ここには10棟の建物が建ち、常時100名近い人が保護救済されていました。救済所は30余年続き、合計1万4千人の人がここでお世話になりました。反面、ここで亡くなった人は僅か90名ほどと法要の記録。素晴らしい救済所だったのです。
 たくさんの方がみえ、亀三郎の嬉し涙の雨が降ったのです。

 この救済所のことは「幸せの風を求めて 榊原弱者救済所」で西まさるが詳しく書きます。

○この日の模様は地元テレビCAC局で放映されます。
 放映時間は下記の通り。 
 当日の模様をCACが下記の予定で放映します。
 12月7日(月) 17:00 20:00 22:00 23:45
 12月8日(火) 7:30 13:00
 12月13日(日) 13:00 19:00 22:00

2009.12.01

 中島飛行機滑走路跡

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 この日曜日に「ものづくり文化再発見ウォーキング半田コース」という企画のお手伝いをした。我々「はんだ郷土史研究会」に中島飛行機の滑走路についての説明を担当してほしいという依頼にこたえたものである。だが、実際には企画した団体について、ほとんど情報がない状態でのお手伝いであった。
 かつて、中島飛行機があったことを知る唯一の痕跡といってもいいのが滑走路のエプロン部分である。国道247号の「みどり牛乳」の少し東を南に入ったところにある。田んぼとの境にある細い道をよくみると丸く曲がっているのが分かる。直径が100メートルを越す円形の一部分である。地元の人でも知らない人が多くなったのではないだろうか。
 工場から国道を牛に引かれてきた艦上攻撃機天山や偵察機彩雲が方向を転回して飛び立っていったところである。戦争を経験した方達にとっては、つい最近のことのように思われるかもしれない。戦争というものは遠いところで行われ、我々とは無縁のものではなかったのである。身近で戦争に協力していたのだ。また戦争に苦しめられたことも忘れないようにしたいものである。

*写真は半田市中午町付近(中部産業遺産研究会提供)

2009.11.24

 少年老いやすく恋なり難し

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 もうすぐ12月。早いものだ。また一つ年をとる。
 「少年老いやすく学なり難し」。還暦をとうに過ぎたぼくだが、心はまだ少年…… たるべし。

 新美南吉の初恋を某雑誌に書いた。写真の常夜燈にまつわる話である。常夜燈は南吉の生家の前に立つ。台座を見てほしい。小さな穴がいくつも掘られている。子どもたちが削りとるようにコツコツと掘ったものだ。何日もかかったろう。そして掘れたらここに花を挿して遊ぶ。当時の子どもたちは他に遊びがなかったのか根気がよかったのか、気の長い遊びである。
 遊びの輪に少年南吉がいた。そして南吉の視線の先にツルという可愛い女の子がいた。南吉は彼女に特別な感情を抱いていた。

 そんなことを書きながらぼくの初恋は― と考えた。
 告白しよう。小学1年の時である。小柄な女の子、○田愛子さんが同級にいた。学校の帰りに習いに行くらしく、いつも身体の半分もあろうかというバイオリンケースを抱えていた。
 田舎者のぼくにはバイオリンも珍しかったが、それより驚いたのは彼女のお弁当だ。サンドイッチ。それも籐のバスケットに入れてくる。ぼくは気絶しそうだった。
 ぼくの弁当といえばスルメの佃煮と沢庵。前夜の残り物の煮物がおかずも当たり前。サ、サンドイッチなど生まれて初めて見るものだったかもしれない。
 ぼくは愛子さんに恋をした…… 

 南吉のツルへの恋はやがて冷めていった。
 ぼくの愛子さんへの恋は、サンドイッチばかり見ていたので実らなかった。
 ああ、恋なり難し。

2009.11.21

 新横浜

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 先日、二泊三日で新横浜に行ってきた。横浜ではなく新横浜である。そのため、観光は全くなし。三日間とも研修である。この歳で何の研修かと言われそうであるが、まあ一応真面目な、堅い研修である。事前にレポートを提出、また研修後も報告書を提出。どこかの議員さん達に是非見習ってほしいものである。
 新横浜は新幹線からの乗り換えで利用したことはあるが、駅を降りたことはなかった。北口から駅を降りると、駅前は碁盤目状に整備されていた。目に付くのはホテルばかりである。その他では、銀行とコンビニがやたらとある街であった。新横浜は近年、全ての新幹線が停まるようになり、急速に賑やかになったということである。この街が夜になると、その姿を一変した。飲み屋への客引きのお兄ちゃん・お姉ちゃんが道路にあふれているのである。街へ繰り出したビジネスホテルに泊まったお客の客引きである。私は飲めないので「和民」で食事を。「和民」は飲み屋?

*写真は新横浜駅

2009.11.18

 行基と黒鍬

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 行基伝説が知多半島各地に残っている。
 なかなか面白いと興味をもって少し調べている。これの答えは、「行基」=「大阪・狭山池」=「知多半島の黒鍬衆」であることは、まず間違えないだろう。
 ぼくは物書きだから、すぐ筋書きを作りたがる傾向にあって、学者の先生方からいつも眉をひそめられているが、この筋立てにはちょっとした自信があるのだ。
 詳しくは、そのうちちゃんとした文章にするが、要はこういうこと。
 行基は、日本初のダム式ため池、狭山池の工事を指導している。その池の工事を施工したのは知多の黒鍬衆。これらは記録も残る事実。長期に亘る大工事の間に、黒鍬衆は行基の影響を受けて、それを故郷知多半島に持ち帰っていた。
 当たり前のことだ。
 さて、写真の一つは半田市の鳳出観音教会にある「行基廟塔」(廟は旧字)。
もう一つは、半田市鴉根の榊原弱者救済所跡にある「南無阿弥陀仏」の塔。
 明治後期、半田市成岩橋のたもとにあった成岩村の墓地に2基並んで建てられていたという。これはぼくの仮説にしたがえば成岩村にも黒鍬衆がいたということに繋がることだ。
 墓地の移転に伴い、石塔を2箇所に分けて移設され、現在に至っている。鳳出観音のものは境内にあるからいつでも見れる。鴉根のものは12月5日に見られる。
 ともあれ、行基などという大人物がみえる歴史は面白い。

2009.11.12

 二つの記念パーティー

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 先週末、連続で記念パーティーに出席した。一つは西川秋次氏が私財を提供してつくった豊秋奨学会のパーティー。もう一つは半田高校同窓会「柊会」のパーティーである。
 西川秋次は奨学会設立の趣旨の中で「優秀な頭脳と旺盛な向学心を持ちながら、経済的事由によって勉学を断念しなければならない者があります。私は、これら有為の学徒に対して学資の補助を行い、学業を完成させたい念願から、若干の私財を出して財団法人西秋奨学会を設立する次第であります」と述べている。この奨学会は平成16年に、豊田紡織元会長の故豊田信吉郎氏(豊田佐吉翁孫)の未亡人豊田江美さんから寄付を受け、豊田紡織に保管されていた資金が加えられた。また、その時に豊秋奨学会と名称が変更された。
 高校生から大学生及び専門の研究者まで幅広く奨学金が給付されている。また、中国で活躍した西川秋次にちなんで留学生も対象になっている。
 私が柊会の同窓会にも出席しようと思ったのは、服部美奈さんの記念講演があるというのが理由の一つでした。服部さんは亀崎出身で、現在、名古屋大学教育学部の准教授です。「女性の教育とイスラム教」を主な研究テーマとされています。この服部さんが豊秋奨学会から奨学金を受けていた奨学生という関係もあったのです。
 服部さんの講演を聞いた後、パーティーでは親しい人や懐かしい人と楽しく歓談することができた。

*写真は二つのパーティー会場

2009.11.08

 榊原弱者救済所

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 榊原亀三郎の鴉根弱者救済所の見学が12月5日と決まった。詳細は、本HPの『当会の行催事』や「はんだ郷土史だより・11月号」に記載した。
 記載した日から、なんと4件。「今、救済所の前にいるが入っていいのか」「中に入ったが、碑はどの辺にあるのか」という電話が入って大慌てをした。
 『ここは私有地で施錠もしてありますので勝手には入れません。また、マムシがいますので咬まれてもしりませんよ』
 と書くのを忘れたからだ。
 近くの人にすればちょいと寄って見るという気はわかるが、いくら荒れ野といっても施錠されている私有地。どうぞご遠慮を。まして11月の今は、マムシが冬眠前で獰猛な時ときく。
 興味を持っていただくのはありがたいが、12月5日までお待ちいただきたい。
 写真は、亀三郎が半田の町中で、大き過ぎて処分に困っていた石塔を、「それなら、」とここまで持ち帰ったもの。亀三郎は人間ばかりでなく、石塔も救済していた。
 あっぱれ! 

2009.10.22

 熱田の森文化センター

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 先日の火曜日に熱田の森文化センターの講座が始まった。はんだ郷土史研究会による初めての出張講座です。第1回は西まさる「宝順丸の遭難とジョン・M・オトソン そしてモリソン号事件」と小栗照夫「豊田佐吉と乙川」でした。来月は西まさる「清水次郎長」と伊藤正治「常滑焼」です。
「郷土史家が語る知多半島のふしぎ物語」というテーマのもと、知多半島の歴史の魅力を、受講していただいた方にお伝えできればと思っています。息の長い講座として定着できたらと願っています。
やはり緊張しましたね。いつもの乙川公民館とは勝手が違うからでしょうか。或いは、名古屋という大都会の文化センターということもあるのでしょうか。顔見知りの方が多い乙川公民館での例会は結構安心して、話ができるようになった気がしているのですが、どうでしょう。
講義室の窓からは東に伸びる名古屋の風景がよく見えます。また、このセンターの道の反対側には熱田神宮の鬱蒼とした森が広がっています。講座の成功を「熱田さん」に、お賽銭は後払いで心の中で祈ってきました。

*写真は熱田の森文化センターのあるパレマルシェ神宮店の外観

2009.10.13

 鴉根弱者救済所跡の見学会は12月5日

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 榊原亀三郎の弱者救済所跡の見学会を12月5日(土)の午前10時~12時に行う予定。雨天決行。費用なし。
 救済所は、愛知県半田市鴉根町にあるが、地番その他は不詳で住宅地図にもない。したがって当日の集合場所などは後日、「はんだ郷土史だより」もしくは当HPでお知らせする。
 とりあえず、日程を抑えていただきたい。
 当日は紀念碑ばかりでなく、亀三郎の建てた稲荷神社や墓碑なども見られる。

 写真は先日、亀三郎の「紀念・芳名碑」の拓本を採る作業中のもの。メンバーは半田拓本研究会のメンバー。手前の赤いシャツが同研究会の間瀬眞吾会長。
 拓本は立派に採られ、裏打ちをして現在、当会事務局の壁に飾ってある。18日の「ふるさと講座」でみなさんにお披露目する。
 なお、紀念碑の標題の書は「床次竹二郎(とこなみ・たけじろう)」。碑の建立された大正9年当時は内務大臣、国鉄総裁などを歴任中で、総理大臣に最も近い男といわれていた政界の実力者である。こんな人と亀三郎との接点もおもしろい。

2009.10.06

 伊勢湾台風

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 台風が近づいているというニュースを聞くと、大きさは、進路はどこだろうと気になる。南から紀伊半島へ向かっているかどうかが気になるのである。そのコースからそれていれば、少々大きな台風でもひと安心と思う。これは伊勢湾台風を経験した東海地方の人間が持つ共通の感じ方かもしれない。
 伊勢湾台風の時、私の家には5~6家族の人達が避難していた。避難してきたのは乙川のガードの近くに住んでいた叔父さんの家族とその近所の人達である。小さい時は台風になると、少しうれしかった。それは皆が避難して来て、我が家がにぎやかになるからであった。しかし、伊勢湾台風の時は小学校6年生になっていたので、ラジオの台風情報を聞きながら何か不安な気持の方が強かった。
 はっきり記憶しているのは台風が過ぎるまで、玄関の扉を押さえていたことである。その時、父が「もしこの扉がとばされたら、裏の扉をすべて開けるからな」と言われたことである。その後、台風の目に入ったのだろうか、風が止んだ記憶も残っている。
 台風が去ってしまったあくる日からは何日も何日も抜ける様な秋晴れが続いた。復旧のために自転車は役立つ道具だった。また散乱した瓦礫でパンクする自転車も多かった。そのため、父は自転車の修理に忙しかった。私は母から「まだ水が退いていないし、死体があるかもしれないから駅の方へは行ってはいけない」と言われていた。50年も前の記憶である。