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2017.03.18

 淀殿はどこに行った

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 気になりながらブログを更新できていなかった。
 正味、しんどかったからだ。罹患以来、ぼくの能力の低下は著しい。何がダメかというと、頭の抽斗が開かない。頭のそこに知識や記憶のタンスがあるのは分かるのだが、どの抽斗を開ければいいのか分からないのだ。そこでイライラ。
 体力の低下はしょうがないが、これも困る。3時間も机に座っていると立ち上がるのに1、2分はかかる。これは情けない。

 てなことで、例月の雑誌のコラムが2本。郷土史往来の発行月、単発の執筆依頼が小さいのが2本。これくらいの仕事は、元のぼくなら、せいぜい1週間だが、これが4週間かかった。
 それに加え、『知多半島郷土史往来・5号』を出した。来週半ばには発行できる。

 さて、その巻頭に「淀殿は知多半島に逃れていた」を書いた。
 大坂の陣の後、淀は千賀水軍・稲生の手で知多半島の師崎に逃れて匿われていたのだ。
 家康ー織田ー佐治ー千賀ー江ー初 そして茶々。これがキーワードだったことを突き止めた気分だ。
 自信を持って書いた。分かりやすくするため、あえて小説タッチで書いた。
 ぜひ読んでほしい。

2017.02.20

 知多市と半田市

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 知多市の歴史民俗研究会に呼ばれ90分の講演をして来た。
知多市へ呼んでいただくのは、団体こそ違うが、これで4度目、行くたびに歴史や郷土文化を大切にする土地柄であることを実感する。

 半田市と知多市は直線なら20㎞も離れていないところ。しかし、文化には大きな隔たりがあるように思える。これは知多半島の西側と東側ということが大きいようだ。それは文化の発生源の違い・・、というと難解かもしれないが、ざっくり言うと伊勢湾に面する半島の西側(知多市・常滑市など)は尾張美濃の影響、衣浦湾・三河湾に面した(半田市など)東浦は三河地方の影響が強い。さらに言えば、西浦側は武家文化、東浦側は商人文化が基本のようだと思っている。

 講演後、慈雲寺に案内していただいた。立派な大きな寺院だ。墓地に一色範光の墓があった。なぜここに一色の墓が? と一瞬考えた。そうか南朝時代、知多半島は一色領だったことがある。一色氏は伊勢湾を見下ろす尾張大野の宮山城が拠点だった。
 そして、一色氏の後、佐治氏の城となり、今、ぼくが盛んに調べている千賀氏に結びつく。

 歴史は曲がりくねっているが一本道のようだ。

 知多市では「新吉原遊郭を造り、支配したのは尾張は南知多の男」を話した。その話の質疑応答の時間に訊かれたのは、「黒鍬衆の関わり」のこと、「陰陽師の関わり」のこと、そして「尾張万歳」に話が及んだ。半田市ではとても出てこない質問だ。
 直線で20㎞はとてつもなく遠いのである。

2017.02.09

 坂の町・亀崎 「にしさんぽ」で見た!

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 情報誌『Step』で知多半島の町をランダムに散歩する「にしさんぽ」を連載している。
 今月(3月号)は潮干祭がユネスコの世界遺産に登録されて盛り上がっている半田市亀崎の町を行くことにした。
 街角には「祝・世界遺産登録」の幟があちこちに、さすがの盛り上がりだ。
 それはそうとして、へそ曲がりのぼくは潮干祭より良いものは無いかと探す。久しぶりに亀崎城址に上がってみた。
 勘のいい人なら、「はは~ん、玉姫(淀)を師崎に連れて来た稲生重政の城跡に来たかったのだな」とお分かりだろう。その通り、大坂の陣の時、豊臣の御座船と高貴な姫を奪って来たのが稲生水軍。その城(本家・・本拠地は師崎の千賀邸)がここ亀崎城である。
 城跡には当然、何もない。しかし海を見下ろせる「観月亭跡」はあった。ここから見る亀崎の海は美しい。

 亀崎は坂の町である。広島の尾道と似て語られることもある。
 その坂の町を歩くの先立ち、Googleマップを見た。そこでビックリ仰天! 黒田鋭三先生の葬儀の看板が写っていたからだ。

 黒田先生は当会の会長、ぼくと一緒に名鉄カルチャー教室の講師も務めてくださった方だ。先生が亡くなったのは昨年7月だ。ところが、「おい! 西くん、亀崎を取材するなら私を連れて行きなさい!」とばかりに画面に登場したのだ。

 何ということだ! しばし画面に釘付けになったぼくであった。

2017.01.26

 法務省局長が榊原弱者救済所跡を視察に。久々の賑わい。

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久しぶりに半田市鴉根の丘が賑わった。
なぜ賑わった?
亀三郎の偉業に触れようと、人々が集まった?
ちゅうちゃう、違う。
霞ヶ関から偉いさんが来たから、それを目当てに人が来た。

こんなことでもないと弱者救済所跡などに人は来ない。
更生保護やら福祉やら、そんな金にもならんことには関わりになりたくない。それが多くの人の心のようだ。まことに淋しいことだが、それは理解もできるし、同情もできる。残念だけどね。

さて、
霞ヶ関の偉いさんって誰れ?
法務省保護局長、畝本直美氏。更生保護行政のトップ。検事正。怖くて偉い人なのである。しかし嬉しいことに、この人がなんと、若くて美しい女性なのだ。

凄いことを聞いた。
全国の都道府県に一つづつ検察庁がある。北海道だけは4つあり、全部で50の地方検察庁があり、そこのトップが検事正である。その50箇所の検事正のうち女性はたった3人。高知、熊本、島根とのこと。
彼女は保護局長に就任する前は、その高知県のトップ。全国で3人のうちの一人である。
検事正の仕事はよく分からないが、怖い顔で犯罪者と犯罪を吟味するのだろう。

ところが今日の畝本局長は違った。優しい顔でニコニコと榊原弱者救済所史跡公園を視察してくれた。
そして、ぼくと会った瞬間、「あなたが西まさるさん! 本を読みましたよ! DVDも観ましたよ!」と言ってくれた。

これは何より嬉しい。あっぱれ! 

ぼくが史跡公園の説明者に指名された。
冒頭、ぼくは局長に「こんなことでもなければ人々は弱者救済所や福祉施設に来てくれません。あなたは人寄せパンダになって、どんどんPRの片棒を担いでください」と嫌がられるかな、と思いながら言ってみた。
局長は少しも嫌な顔もせず、にっこりと微笑みながら大きく頷いた。

一瞬、鴉根の丘に幸せの風が吹いた。

 *青色のスーツが保護局長。写真はあえて美人の顔が見えないものを掲出した。見たければ現地においで。

2017.01.23

 若者、ばか者、よそ者と淀殿伝説

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 地域を活性化させたり、既存のものを革新するのは「若者・ばか者・よそ者」という。当たっているようだ。
 それは何もその3者が偉いわけでもなく、特別な能力を持っているわけでもない。ただ、既成の事実をよく知らないから物事を見る視点が既成の人と違うからだろう。
 知多半島人歴が10年少々の、よそ者でばか者のぼくは(若者でないのは残念だが)、この地で埋もれた郷土の偉人を見つけ、様々なスポットライトを当てた。
 全国的な有名どころでは、清水次郎長、大碇紋太郎、豊田佐吉、榊原亀三郎など。さらに大高源五や新吉原遊郭を支配した松本清十郎ら南知多衆など。
 驚くほどの面々だ。
 これらの人物の生い立ちや偉業がこの地に埋もれていた。
 そして地元の人たちはこれらを既成の生活の中の当然のものとして拾うこともPRすることもしなかったのだ。

 善し悪しを言っているのではない。
 これを「宝の持ち腐れ」と言えば、ぴったりだろう。知多半島には歴史的な宝がいっぱい埋まっている。

 また一つ、宝を発見した。
 大阪の陣。大阪城落城。秀頼や淀は城内で自刃したというが遺体も遺書も遺品も発見されていない。
 城から脱出したという説もある。

 その淀=茶々が千賀水軍の稲生重政により、知多半島の師崎に匿われていた。その詳細は、『はんだ郷土史だより70号』に詳しく書き、また、この2月例会でも話した。

 またまた、よそ者でばか者の西まさるが面倒を起こした、と地元の識者は言うだろう。
 さて、さて・・・
 続きはまたの機会に。

 写真は師崎・延命寺の「姫塚」。実は茶々の墓? あるいはダミー。間もなく真相は分かるかな?

2017.01.08

 新春より

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 罹患以来、作業効率が極端に低下している。
作業効率だけでなく、作品や文章の質まで低下しているのじゃないかとビクビクしている。
 月末締め切りのコラムの仕事を2つばかり積み残している。先方の出版社が年末年始の休業中だから催促もない。気持ちの良い正月だ。
 とも言っていられないので正月2日、Step誌の「にしさんぽ」の取材に出た。今回は「小鈴谷」を書く。

 伊勢湾沿いに車を走らす。運転は運転手兼アシスタント兼西まさる編集事務所社長兼ピアニスト兼地元のコーラスグループの指導者兼わが女房の優子さん。けっこう忙しい人である。

 爽やかな日だ。
 波もない伊勢湾に海苔の養殖棚がひろがり、その先に蜃気楼のように中部空港が浮かぶ。これならセントレアと言ってもいい光景だ。

 穏やかで、トランプ波が暴れない年であることを祈ろうか。
 

2017.01.01

 謹賀新年 西まさる&はんだ郷土史研究会

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謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

 昨年一年、『はんだ郷土史研究会』は10数年の倣い通り、例会は一度も休まず遅れず開催できました。『はんだ郷土史だより』も遅れることなく隔月発行を続け、70号をお届けできました。
 この牛歩の歩みを酉年も続けていきたいと思います。

 西まさる個人のこと。
 昨年は疲れました。病気は快方に向かいましたが、体力、気力の低下は補いようがなく、今まで1~2日で出来ていた雑文程度の仕事が1週間もかかるといった有様でした。
むろん、纏まった本などは出来ようもなく、残念、無念の日々でした。

 今年こそ……。
 『新吉原遊郭を造った男たち』を纏めたい。これを決意の第一に置きたいと思っています。

 では、本年も変わらぬご指導のほど、深く、願いあげます。

2016.12.13

 忠臣蔵 勅使饗応料理の全て。研究者の徒労

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 研究者が世の役にも立たぬことを夢中になって調べ、鬼の首を取ったように喜々として発表しているーー と、今さら自虐的に言うつもりはないが、忠臣蔵の季節になるといつも思い出すのは「勅使饗応料理」の献立を懸命に調べたことだ。そして、鬼の首を取ったように喜々として発表したぼくの姿だ。
 そんなもの、誰も興味を示さなかったのに。

 浅野内匠頭と吉良上野介の喧嘩のネタは数々語られているが、その一つは、勅使に出す料理だった。
 本膳料理か精進料理かのやりとりだ。その日に実際に出した料理の献立を調べた。ちょっと苦労したが次の献立だった。

 この献立を拙書『忠臣蔵と江戸の食べもの話』(新葉館出版)に書き、少々は話題になると思っていたが、見事、空振りだった。
 悔しいから、ここに書いておく。
 興味のない方は読まなくていいゾ!

 勅使の前に、まず三つの三方が出る。ここから会席の始まりである。
 三方の一つには敷紙に長熨斗。
 一つには雑煮椀、梅干盛、田作盛。
 三番目の三方は蓋置きである。
 その三方がすべて片付けられ、いよいよ三汁十一菜の本膳料理となる。

 ○本膳は、
 膾(鯛・よせ赤貝・白髭大根・木耳せん・栗生姜・金かん)。
 香の物(奈良漬瓜・守口大根・粕漬茄子・味噌漬人参・味噌漬なた豆・塩山椒)。
 煮物(ひらき鴨・色紙麩・つみせり)。
 汁(つみれ・しめじ茸・葉大根・薄皮牛蒡・めうど)。
 ご飯。
 ○二の膳は、
 杉箱(結えい・花形山吹・穂くわい・広岩茸・八重成・敷みそ)。
 小桶(のしもみ)。
 汁(鯛背切・木の芽)。
 酒浸(塩引鮭・もみしめ貝・黒くらげ・よりかつお・山川酒)。
 ○三の膳、
 差し味(鯉子付・かき鯛・えんす・海そうめん・くねんぼ・わさび)。
 煎酒。
 汁(わかめ)、茶碗(花みる貝・土筆・かけしお)。
 ○与の膳、
 向詰(小鯛・かけしお)。
 ○五の膳、
 洲浜台(大坂かまぼこ・みの焼あいなめ・あんかけたいらぎ)。
 平皿(甘鯛ふわふわ・みの笠茸・鍵わらび)。

 以上が、五の膳の三汁十一菜である。

 これが勅使饗応料理の全て。苦労して入手した原典通りである。
 しかし何だね。こんなものを長い時間と労力を費やして調べる、物書きや研究者は、淋しい人種だね。
 では、ご機嫌よう。

2016.12.07

 吉原遊郭の揚屋 尾張屋清十郎の生家?

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 新吉原遊郭を支配した張本人、尾張屋清十郎。彼は尾張国知多郡須佐村の神職・禰宜左衛門の子であることが分かった。禰宜左衛門の神社は須佐村高浜の「土御前社」である。つまり清十郎の実家はここだったといえる。但し、清十郎がここに暮らしていた時の神社は写真の場所でなく、もっと山頂近くだった。

 この土御前社は知多最古の寺「極楽寺」に隣接していて、ともに「求聞持山(ぐもんじ)」の山腹にある。
 求聞持山の山頂には、昔、修験者が修行していた「五文敷」という聖地のような場所にあったことは『極楽寺の歴史』などで分かっていた。多くの修験者たちがここで心身を鍛えていたのだろう。

 土御前社は切り立った山の上の社というから、小さな祠があるだけとの先入観をぼくは持っていた。だからわざわざ訪ねる気にもならないでいた。
 『新吉原遊郭と尾張・南知多衆(仮題)』をいよいよ上梓する段階になって、一度行ってみるか、と重い腰を上げた。行ってびっくり、こんな立派な神社だった。
 写真をみてほしい。
 写真㊧の長い階段をどんどんと登るのだが、上部の左に小さくみえるのがかつての五文敷への登り口。鳥居がたっている。
 写真㊥ 明治のものだが、「吉原」「松本」「家田」との家名。思いが巡る名前だ。
 写真㊨ ここから数百歩上に「五文敷」があった。修験者の高下駄と法螺貝の音が聞こえそうだ。ついでに書くが写真の男はぼくである。杖もなしでスタスタ… ではないが元気なものだ。

 尾張屋清十郎こと松本清十郎の生家はここかもしれない。生家でないとして、この地が彼の実家である可能性は極めて高い。
 ここに何かの物的資料(エビデンス)が眠っている。そして、それがぼくに「おいで、おいで」をしているのである。

 

2016.11.28

 いただきもの万歳! 西まさる編集事務所にボンショ!

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きょうはいい日だ。
当事務所にいらっしる方々が何故か、手土産を持って来てくださる。
いつもはまるでないことが、きょうは奇跡のように起こっている。

友人の猟師が自分で獲ったタコを干してつくった通称「ひっぱりタコ」をくださった。干してもこの大きさ、元々の立派なタコが想像できて感激する。このまま炙って酒の肴もいいし、水で戻してからたこ飯にするもいいと言う。わが家は肴に決まってる。

ご自分の庭で穫れた「ぎんなん」を持って来たくれたのは成岩のSさん。すごい量だ。たっぷりの塩で炒めるといいという。なるほど。

よしよし、今夜は「タコ」と「ぎんなん」で一杯飲るぞ、と思っていたら、何と望外の良い酒が飛び込んで来た。焼酎の銘酒「萬膳庵」だ。これは高価なプレゼント。これは大事に飲まなきゃ。

すると何と、別の方が「もらい物だけど俺は飲まないから飲んで」と「二階堂」が。「これは焼酎の宝箱や!」とご機嫌である。

あれあれ、きょうはどんな日だ。盆と正月が一緒に来たよな、ボンショだ!

すると優子のコーラスの生徒さんがひょっこりと顔を出し、「カリン」を一袋置いていった。

ボンショにクリスマスが合同! 
あすが怖いような、きょう一日でありました。