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2010.04.09

 野球

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 日本のプロ野球が開幕した。意外と調子の良いドラゴンズ。やっぱり苦しいカープとベイスターズ。何となく気になる季節がやってきた。野球など関心がなさそうに見えるかもしれないが、ドラゴンズの調子が悪いと、少し機嫌が良くない。何時ごろから野球に関心を持ったか、確かなことは覚えていない。だが、ラジオから聞こえてくる杉下茂・西沢道夫・服部受弘の名前はしっかり記憶している。そして、解説は「なんといいましょうか」の小西得郎を忘れることはできない。テレビの時代になり、その丸い体型とともに覚えているのが森徹である。丸い体型と言えば、西鉄ライオンズの中西太が半田球場にきた時、一度だけ見たことがある。練習で軽々と場外へホームランを打つ姿に感動したものである。
 今年は一度くらいは名古屋ドームで野球を見たいものである。

* 写真は西沢道夫 (スポニチ)

2010.04.05

 穏or隠 こんな失敗。

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 半田・亀崎の廻船業、醸造業をリードした伊東七郎衛家がある。
 屋号を「おんじょう丸」という。
 ここは郷土史の宝庫で、当会の「ふるさと講座・4/18」も池上房子、杉浦和子がこの研究発表をする。

 さて、である。
 数年前、この「おんじょう丸」を郷土史だよりで書いた時のことだ。読者という人から電話があって、「穏乗丸」と書いてあるのは何事だ! これは「隠乗丸」だ。おんの字は隠密の隠だ」。
 「こんなことも知らないのか!」と頭から湯気が上がっているような声だった。
 ぼくは素直に「すみません。勉強不足でした」。
 そして数年、今回の池上、杉浦組の研究発表に際し、ぼくはHPにも郷土史だよりにも、ポスターにも、叱られないよう「隠密の隠」を書いたのであります。
 間違わぬよう注意して。
 ところが、同家の資料を見ると「隠」ではない「穏」と記されている。なってこった!
 ああ~ お詫びして訂正します。
 反省~。

*写真は同家の酒「猿若街」の新聞広告。日本初のカラー広告ともいわれている。この「猿若街」の「街」も「衛」との説。今度は匿名電話にだまされないぞ。

2010.03.25

 わが家のお宝展

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 お宝展にはさまざまなものが出展された。
 「うちの先祖は相撲取りだった」と市野昭さん。出展されたのは化粧回し。「嵐山」の四股名が染め抜いてあるものだ。天保時代だというから名古屋相撲の力士だったのか。
 地元ならではの出展が続々。
 山本梅荘、山本石叟、山本香雲の一門展。3人は親子でもあり師弟でもある。梅荘は今の日展(文展)の審査員をするなど南画家の最高峰といわれた人。
 3人とも半田の人だけに地元に残る作品も多い。画や書などが十二畳の広間の四方にずらり。
 「何でも鑑定団」も注目?

2010.03.19

 お宝中のお宝

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 お宝展の展示品を紹介するといって遅くなっています。
 ごめんなさい。
 今回はお宝中のお宝、「明治時代、日露戦争中の戦地の師団長など高官から届いた手紙」を纏めた巻物。
 当時のほとんどの高官がキラ星のごとく並ぶ。あまりに多いので全部は見ていないが、乃木、秋山、西郷。
 そんな名前もあるかも。

2010.03.13

 望洲楼

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 めったに行く事のない亀崎の望洲楼さんへ、つい最近二度も行く機会があった。宝くじが当ったわけでもなく、お金をひろったのでもない。皆さんのお供というところでしょうか。
 最初の時は女将さんのやさしい説明付き、二度目の時はご主人の丁寧な案内でした。望洲楼といえば、近在では知らない者がないほど有名な老舗料理旅館です。小高い丘の傾斜を利用して建てられた建物は落ち着いた趣があります。各部屋に飾られた花、さりげなく廊下の横に置かれたお香は訪れた者を癒してくれます。
 福沢諭吉をはじめ望洲楼を利用した有名人は枚挙にいとまがないほどです。私達も敷居が高いのではないかと思い勝ちですが、安価に利用できるプランもあるようです。時には覗いて見るのもいいのではないかと思います。着物姿の女将さんが迎えてくれると思います。
ちょっと、望洲楼さんの宣伝のようにもなってしまいましたが、このような料亭が半田市内からなくなりつつあります。ファーストフードの店や手軽に利用できるレストランは増えています。だが、タマにはお座敷でゆっくりと食事をするのも良いのではないでしょうか。望洲楼さんにも、もう少し努力をしていただくと同時に地元でも大いに利用して盛り立てていかなければならないでしょう。

* 写真(絵葉書)は大正後期の望洲楼全景

2010.02.27

 テレビ出演

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 「わが家のお宝展」。入場者は150名少々(スタッフ除く)。昨年の半分ほど。今までのワースト1だった。
 地元で大きな行事が2つ3つあったことが原因かな? でも出品された物は今までで間違いなくナンバー1。博物館の展示品クラスの物がぞろぞろだった。たった2日間では勿体ない。勿体ない。
 写真は地元ケーブルテレビのインタビューを受ける伊藤正治会長。最近はなかなか堂に入って来たようだ。
 「お宝展」の出展品は以降、ぼちぼち紹介する。

2010.02.16

 豊田章男社長に期待を

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 ここ一ヶ月程、トヨタのニュースが流れない日はない。しかし、それは全てトヨタにとって悪いものである。現在の自動車は一台パソコンを積んで制御しているようなものである。かつてのように油にまみれて修理するものとは違ってきている。特にハイブリッド車においては新技術ということもあり、複雑な制御が必要である。
 だが、今のトヨタの苦境は必然であったと思われる。出る杭は打たれるということかもしれないが、最大の間違いは世界一になることをあわてた結果であろう。技術的にも、販売環境においても、しっかりと足元を造り上げてから、目標の達成に努めるべきであった。
 豊田佐吉は「発明私記」の中で次のように述べている。『此ノ如キ創造的ナモノハ、先ヅ自ラ之ガ製作ニ従事シ、深甚ノ注意ヲ払ヒ、幾多ノ実験ヲ重ネタル後ニ非レバ、到底完成セシムル能ハズ。之ガ製作ヲ他ヘ託スルガ如キハ、決シテ為スベカラザル処ニシテ、必ズ蹉跌ノ基ヲナシ、噛臍ノ悔ヲ残スベク、大イニ戒ムベキコトナリ』佐吉が井桁商会の失敗後の言葉として残したものである。
 トヨタが置かれている情況は当時とは全く違うであろう。しかし、一人間として決断しなければいけない情況としては同じである。ジャストインタイムやカンバン方式の前になすべきことがあるのではないだろうか。お客様の視点に立った「もの造り」であり、その「もの造り」をする人間をつくることではないかと思う。
 豊田章男氏はその手腕を買われて社長に就任したであろうが、同時に佐吉、喜一郎、章一郎と続く、豊田家本家の人間としても期待されて、その任に就いたのであろう。結果として、この逆境には幸いと言おうか、最も適任の人選となったのである。果断な行動を大いに期待したい。

*写真は豊田佐吉・喜一郎・章一郎・章男 (敬称は略)

2010.02.11

 神も仏もない話

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 榊原亀三郎の鴉根弱者救済所に稲荷神社がある。神社はあるが参拝する人はない。
 それは閉鎖されているのだから当たり前なのだが、12月に行った同所の公開見学会の際、神社に畏敬を表する意味でも神官にお祓いをしてもらうことにした。
 乙川八幡神社の宮司とは親しいので、遠路の出張になるが「安くお願い」と泣き付いた。喜んでか、しぶしぶかは分からないが承諾してくれた。酒もお供えも用意した。
 当会の伊藤正治会長が、「貧乏人の西にだけ祈祷料を出させるのはかわいそうだ」と半分出してくれた。
 ところが見学会の数日前、亀三郎の子が亡くなった。生存する最後の子である。ご親族から連絡があり「喪があけるまで祈祷は遠慮してくれ」。神への祈祷はお祭に通じるのでいけない、ということだ。
 宮司に中止を連絡したのだが、ぼくの手許に祈祷料が残った。
 「伊藤さんよ、いっぺん神様に出した金を引き上げると罰があたるよ」
とぼく。ここまでは立派な人の台詞だ。立派な人なら、こう続ける。「亀三郎のように慈善事業に寄付しよう」。
 ところが、ぼくはこう言った。
 「これで宝くじを買おう。3億円やで、3億や。明日から竜宮城のような暮らしが出来るデ。なあ、伊藤さん!」
 伊藤さんは、もともと長い鼻の下をさらに長くして、
 「竜宮城か~、乙姫さまか~、ええなぁ~。ええよ。一緒に行こ!」
 そして祈祷料が宝くじに変身したのでありました。

 結果は? 聞くまでもない。神様はそんなに甘くない。仏様だってそう。「神仏に寄与すべき金を、何たる不埒な! 喝!」。
 竜宮の夢は、玉手箱の煙のように消えたのであります。

2010.02.05

 史料ぞくぞくお宝展

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 すっかり恒例となった『わが家のお宝展』。昨年あたりから半田の旧家が史料を出してくれるようになった。
 今年は乙川の旧家・竹内惣九郎家が蔵を開けてくれた。江戸期より庄屋、組頭などを務めた家だけに公文書に準じるようなものも続々と出てきた。
 まだ整理中だが乙川村、亀崎村の江戸期、明治期の新発見がありそうだ。(すでにあった!)
 先々代以前は庄屋(行政者)だったが、先代は教育者。新美南吉が在校当時の岩滑小学校の校長。南吉を中学に進学させることを「畳屋に学問はいらない」と嫌がった南吉の父・多蔵を担任に説得するよう指示したのがこの人だ。
 日記や手紙もごっそりあった。南吉から手紙が来ていないか探したがなかった。但し、内海の豪商・内田佐七や文豪・永井路子から手紙や年賀状が来ていた。どんな交際だったのだろう。
 史料に興味はつきない。
 『わが家のお宝展』は、22年2月20日(土)~21日(日)
 乙川公民館で開催。詳しくは本HP「当会の行催事」に。

2010.01.30

 愛光園

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 知多郡東浦町にある愛光園という施設を皆さんはご存知でしょうか。半田方面から大府へ抜ける農面道路を少し入るとあります。愛光園は一つの施設ではなく、障害者支援施設をはじめ介護施設、発達障害児通園施設等、10以上の施設を持つ社会福祉法人です。ここでは心身に障害を持つ人、知的障害を持つ人が生活したり、通って来て作業や療養をしています。2万3千坪という広い土地にこれらの施設が建っています。
 これらの施設の土地はかつて日高牧場があった所です。愛知県議の日高昇氏が提供した土地です。最近になり、この2万3千坪という広大な土地が正式に愛光園へ譲られたと聞きました。どんなにお金持ちで広い土地を持っていたとしても、簡単にできることではありません。
 「はんだ郷土史研究会」の西まさる事務局長が取り上げた「榊原亀三郎」とは少し情況は違いますが、いずれも純粋な気持ちで弱者やハンデを持っている人達を助けしようということには変わりがないと思います。
 この施設の中に、「くるみ」という自然食レストランがあります。もちろん誰でも利用することができます。施設内で焼いているパンや採卵した玉子も販売しています。東浦方面を通った折に、ぜひ思い出して寄ってみてください。

*写真は障がい者活動センター愛光園の建物