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2017.10.21

 風邪を引いた

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風邪を引いた。たぶん生まれて初めてだ。

今までぼくの周辺で「風邪を引いたから休む」と言っていた人がいたが、それはずる休みだと思っていた。少々咳が出ようが、多少熱があろうが仕事をする! それが当然だと思っていた。
「風邪を引いた」は「ずる休みの口実」、風邪など根性で直ると思っていたのである~っ。

 事実、ぼくも子ども時代、何度も何度も「風邪を引いた」。
 ただ、それはすべて嘘。
 寝込むぼくに「大丈夫かいね」とやさしくおばあちゃんやお姉さんが言ってくれて、卵のかかったオジヤやバナナ。時にはカステラが出た。
 ぼくは定期的に風邪を引くことにしていた。

 だから、風邪はずる休みの口実。そうぼくは信じて疑わなかったのである。

 この10月8日(日)偉い学者ご夫妻が「はんだ山車まつり」を観るというのでご案内した。初めて桟敷席を買った。イスに座れるだけで五千円はちと高いが辛抱して観覧。壮観な山車の列を観てそれはそれで満足したが、日差しが照り放題、日陰が一切ないスタンド席。たぶんあれでやられた。
 それから一週間、ぐずぐずと調子が悪くなった。

 14日は安城博物館に陰陽師展の見学。
 15日ははんだ郷土史研究会の例会。
 17日は名鉄カルチャースクール。雨の中、神宮前へ。濡れることはないのだが何だか体調が優れない。でも講座は楽しくすませた。
 19日は鴉根の榊原弱者救済所跡に美浜町の民生委員さんが見学に52名。いつものようにミニ講座。手抜きをすると倒れそうなので気合を入れて話した。

 これくらいのスケジュールはいつもならへのかっぱ。何ということはないのだが、やはり堪えたのだろうか。

 これが終わってほっとしたのか急に体調が悪化。しんどい。動きたくない。喉が痛い。ちょっと横になりたい。これはずる休みでない。まさに行灯の油をなめるような気持ちで過ごした。
 

 そしてずる休みでない休みを2日ばかり。ようやく事務所復帰。
 こんなつまらぬブログを書いて仕事を再開する。

 「風邪は引いたなどとは、ずる休みの言い訳だ!」と二度と言わない。すまん。

2017.10.04

 陰陽師・安倍晴明

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 「新吉原遊郭をつくった男たち」をほぼ調べあげた。主役は松本清十郎や千賀志摩守だが、どうしても避けて通れぬ影の主役が2人いる。
 一人は車善七。もう一人(一団)は陰陽師である。
 知多半島の人は意外と知らない(興味を持たない)が知多半島は陰陽師の重要な郷である。特に今の知多市、東海市、安城市あたりは秀吉によって京から追われた陰陽師が集団で住みつき、一種の郷をつくっていた土地だ。

 安城市歴史博物館で「安倍晴明・特別展」があるので出かけた。
 何度来てもこの博物館は凄い。建物も立派だが、展示内容や所蔵品、なにより文化に対する目線が低く、いかにも歴史や文化を大切にしているという姿勢が見える。あっぱれ! と言わせてもらう。

 陰陽師関連の所蔵品も多く、こんな地味なテーマだがしっかりと保存し広く公開している。
 勉強させてもらった。

 新美南吉の生家を模したコーナーもあった。南吉の故郷・半田の人間としては焼き餅を焼くほど安城は南吉を大切にしている。

 帰り際、外に出るとパイプオルガンのような曲が鳴り響いた。ちょうど12時だったので、「昼を知らせる曲だが、何の曲だろう。ドボルザークに似ているが…」と同伴の家内に話しかけた。
 「何を言っているの。これは雅楽でしょ。陰陽師のテーマーに決まっているでしょ」。
 そうか、ここまでやるか。安城さん、あっぱれ!

2017.09.20

 伊勢湾台風の体験談を聞く会

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 昭和34年9月26日に伊勢湾岸を中心に大被害をもたらした巨大な台風「伊勢湾台風」。死者行方不明は愛知県で3300人近く、半田市だけでも291人に及んだ。
 55年も前のことだが、人々の脳裏にこの大惨事の有り様は消えないようで、「体験を話したい。体験を聞きたい」との声が多く、この会を企画した。
 9月の例会は9月17日(日)。何と台風が九州に接近、これも記録的な大きな台風だ。困った、会は出来るのか。
 前夜、前々夜からろくに寝られない。テレビの台風情報ばかり見ていた。というのも当会はちゃんとした会員制をとっていない。連絡網もない。もし、会が中止となっても通達手段がないのだ。

 ところが、日ごろの行いの良いぼくたち。天が味方して台風を九州で足止めしてしてくれた。
 当日は曇天微風、傘もいらない天気に恵まれた。
 さすがに大阪からご参加予定の方や、蒲郡からお越しの方は帰路が心配だからとご欠席。それはやむを得なかったが60名ほどの方で「伊勢湾台風の体験」を話し合った。

 その模様は『はんだ郷土史だより』でお知らせする。

2017.09.13

 古典の小径 記紀から『夜明け前』まで

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 久しぶりに良い本に出会った。それが実感である。
 古典というと堅いイメージがある。イメージじゃない、本当に堅い=難い、ものだ。でもこの本はその難しい古典文学をちゃんと読み砕いて分かりやすく提供してくれている。実に読みやすい。親しみやすい編集である。
 それは、古代・中世・近世の膨大な古典から75篇を拾い出し、一話を4ページにまとめたことが成功の要因だろう。
 「かぐや姫」も「清少納言」も「芭蕉」も4ページにまとめてある。このまとめは著者に相当の力量・知識量・文章力がなければ出来るものではない。
 出版社の宣伝文句に「古典文学をこれほど楽しく、軽やかに、そして、史実を大切に書いた本はない」とあったが、それはあながちオーバーな惹句ではない。当たっている。
 4ページが一話で75篇。75篇にはそれぞれ写真や挿絵もあり退屈しない。だから一日一話読んで75日経てば、ちょっとした古典通になる。
 そんな本だ。
 著者は外村展子、知る人ぞ知る中世文学研究者だ。新葉館出版刊・3000円+税
 装丁も美しい。

2017.09.01

 母の誕生日

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 今日はなぜか良いことが幾つかあった。
 一つは、苦労して編集をしていた『古典の小径』外村展子著が出来た。内容も装丁も素敵な本、一流の本だ。嬉しかった。
 一つは、ある人が良いものをくれた。あるものはここでは書かないが、すごく助かった。
 一つは、『はんだ郷土史だより』に広告が減っているのを気遣ってくれた方が「応援してやろうか」と言ってくれた。とても意外な人だったので驚いたり喜んだり。
 もう一つ、二つあったが省略!

 何で今日はいい日なのか? と思ったら、長く忘れていたことを思い出した。今日はぼくの母の誕生日だった。
 大正12年(1923)9月1日。ピンと来る人は少ないだろう関東大震災の日である。えらい日に生まれたものだ。産まれた所は石川県の金沢だから被災地ではないが、日本中が大騒ぎしていたことだろう。
 だから母の人生も震災の被災者・・、ではないが、ある意味、戦争の被害者、決して幸せな人生ではなかった。

 戦時中、若い母は妻子のある男に騙されていた。軍需工場に勤めるその男は、戦争が終わると妻子の許に帰って行った。
 残された母は子を産んだ。その子がぼくである。
 そして母は結核を患い、長期療養。7歳のぼくを残して亡くなった。29歳だった。

 ぼくの記憶の中の母は、朝顔の柄のネルの寝間着で病室にいる青い顔のお母さんだ。でもいつも微笑んでいた。

 母が亡くなって実家に帰った時、仏間に琴が立てかけてあった。
 「かあちゃんは琴が上手だったんだよ」と祖父が言った。母の供養のために出して来たのだろう。ぼくは暫くその琴を見ていた。

 ずっと後になって、こんな短歌をつくった。

   金泥の布に包まる母の琴 琴弾く母をわれは知らざり

 なぜか、良いことの幾つもあった今日、こんなことを思い出していた。

2017.08.14

 ああモンテンルパの夜は更けて

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 8月15日、終戦の日である。
 この日が近くなると新聞もテレビも「戦争」を採り上げる。 
 この日が近くならないと採り上げない・・、などと悪口を言うつもりはない。歴史は、戦争は、語り継がねば忘れられてしまう。まして日本国民の大多数が「戦争を知らない子どもたち」ばかりになった今。マスコミはぜひ、語り継いでほしい。

 先週、中日新聞の記者が取材に来た。
 そういえば昨年も来た。
 一昨年はNHKが取材に来た。
 ぼくの所に何があるわけでもないのに、戦争の生き証人が少なくなっているから、『中島飛行機の終戦』を書いたぼくは数少ないネタ元の一つなのだろう。
 取材する記者さんも戦争など知らない。取材されるぼくも同じ。観念的な質問、聞き書き、孫引きのような答。そんな繰り返しだ。でも、これでもいい。忘れら去られるより、ずっといい。

 終戦後のフィリピンのモンテンルパ刑務所に108人の死刑囚が死刑執行の日を待っていた。ほとんど全員がえん罪に近いBC級戦犯であった。
 理不尽な死を待つ刑務所に奇跡が起きた。
 歌である。
 「ああモンテンルパの夜は更けて」。
 刑務所内で作詞作曲され、当時の国民的歌手、渡辺はま子が歌った歌だ。この歌が刑務所で歌われ、日本国内でヒットし、フィリピン大統領の心も動かしたのである。

 戦争の悲惨。理不尽。しかしそれを吹き飛ばしたのは歌の力だった。
 文化も捨てたものじゃないと思える実話だ。

 この歌の作曲者が知多の人・伊藤正康さん。彼も死刑囚であった。数年前、彼の留守宅へ行きご親戚に取材し、全容を知った。秘話も聞いた。

 そんな話を8月20日の例会でする。

2017.07.27

 『塀の中の中学校』

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 半田保護司会が「社会を明るくする運動」の一環として、映画『塀の中の中学校』上映会を開いた。更生保護活動に理解を求めるための企画だ。アイププラザ半田で行われ300人ほどがご来場。
 ぼくは先日「社明運動」の講師に呼ばれた際に誘われたこともあるが、もとよりこの作品を観たかったから喜んで参加した。

 受刑者の中には何万人も義務教育を卒業していない人がいる。
 「卒業していない人」でなく、「卒業できなかった人」や「中学にも通えなかった人」がいるということだ。
 そんな人のために「塀の中の中学校」がある。
 長野県松本市にある「松本少年刑務所」の中に実在する、公立中学校「松本市立旭町中学校桐分校」である。
 映画はその「桐分校」を舞台にした「生徒(受刑者)」と先生との交流を描いたもの。脚本はフィクションだろうが受刑者の実態や舞台はノンフィクション。心に迫るものがあった。

 罪を犯した者に多額の税金を費やして中学教育を受けさせることの賛否が以前、議論されたことは覚えている。
 それは税金のムダ使いだ。それが更生に繋がると思えない。犯罪を犯すから中学も出られないのだ。
 ー反対派の意見は概ねそれだ。
 ー賛成派は「教育の機会均等」「犯罪者にも人権はある」「義務教育は国民の義務だ」。

 難しい問題だが、犯罪はすべて自己責任か否かで変わってくるだろう。
 
 最近、食えなくなった老人がわざと罪を犯し、刑務所に入るということがニュースなっていた。刑務所では野宿もないし、3度のめしは保証されるからだ。
 ガンを患った男が犯罪を犯し、刑務所に。医療刑務所で治療をしてもらうという事件! もあった。

 考えさせたられる事案だ。
 これを聞いて「日本はいいな」と言った人がいたが、日本はいいのだろうか、それとも塀の外は暮らしにくい日本になったのだろうか。

 『塀の中の中学校』を観ながらそんなことを考えていた。

 上映中、会場からすすり泣きの声が何度も聞こえた。笑い声も何度もあった。スクリーンの中は塀の中。この笑いや涙が更生保護や社会病理の理解に繋がれば、と、ぼくは偉そうにも思ってしまった。
 それはどうしてもこの手のドラマなどを観ると榊原亀三郎を思ってしまうからだ。
 
 それにしても大滝秀治の演技は凄い。オダギリジョーや渡辺謙もよかった。

2017.07.18

 『中島飛行機の終戦』がベストセラーになる日

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 『中島飛行機の終戦』がぼちぼち売れているようで嬉しい。
 出版社の方が言うには、「アマゾンや楽天で毎日1冊は動いている(売れているの業界用語)。これは凄いよ。ノンフィクションではとても良い現象ですよ」。
 ぼくは嬉しくなった。
 毎日1冊なら月に30冊、一年で360冊・・・、
 多いのか、少ないのか、凄いのか、凄くないのか。

 例の芸人さん、又吉直樹さんの書いた『火花』は220万部とも言うから、ぼくの本も間もなくそれに近づくのだろうか。
 計算してみた。
 1年に360部だから、10年で3600部、100年で3万6千部・・・、だからぼくが又吉さんに追いつくには7000年ほどかかるということだ。
 待ってろ! もうすぐだ!

 ではみなさま、ご機嫌よう。

2017.07.07

 社会を明るくする運動

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 67回「社会を明るくする運動」の第3回半田市推進委員会に呼んでいただいた。
 半田市保護司会や更生女性会、協力雇用主会などが中心で半田の公官庁、政経済界が参加する大きな会である。この日は120名のご参加とのこと。会場を見渡すとこの地方の名士の顔もある。

 「社会を明るくする運動」とは犯罪や非行を防止し、罪を犯した人の立ち直りを支えるのが目的の会だ。
 もとは戦後の荒廃した中の昭和24年に孤児や犯罪者が溢れる東京・銀座の商店街の人たちが、明るい街を取り戻すため、犯罪のない銀座をつくるために始めた運動「銀座ファエ」が始まりという。その民間活動が公的に引き継がれ、今年67回という。半田は3回というからかなり後発だ。
 
 半田委員会の講演。
 ぼくが講師に呼ばれた。
 絶対に言ってやろうと思っていた。
 「社会を明るくする運動は昭和24年に始まったのではない。その50年も前に半田で始まっていたのだっ!。榊原亀三郎という人が明治32年に半田で始めていたのだっ! みなさん! ご自覚召されッ!」。
 
 るる言うまでもなく、今の半田市鴉根の丘に亀三郎が造った弱者救済所は、街に棄てられた幼い子どもたち。赤貧ゆえ家を追われた老人、身障者。出獄したが帰る家のない刑余者。そんな人たちを私費で救済・保護した民間施設だ。
 「半田の誇るべき史実なんですよ!」。「みなさん、もっとこの救済所保存活動に協力してください」と言いたかったのだ。

 45分、熱演したつもりだ。
 会場に120人の方がいた。どなたも半田市では社会的地位の高い人たちである。
 「鴉根の弱者救済所跡に行かれたことのある方、挙手をお願いします」と訊いてみた。
 贔屓目に見て20人ほどが手を挙げた。保護司さんを含んでこの数だ。さびしい限りだが、これが現実なのだ。
 がんばっていくしかないが・・・。

 ともあれ「社会を明るくする運動」の嚆矢は半田・鴉根にあり、と自画自賛しておくしかなかろうか。

*写真の右端は当日のレジュメ。半田が発祥と見栄を張った。

2017.06.27

 『中島飛行機の終戦』のあとがき

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 発売して丸2年、ボチボチ売れている(読まれている)のが、拙書『中島飛行機の終戦』(新葉館出版)である。嬉しいことに品薄の書店さんもあるようで版元は重版を決めて、その時期を待っているようだ。
 嬉しい手紙が来た。意外にも「あとがきに感動して、時々、あとがきを読み返している」というものだ。本文を褒められたり貶されたりすることは再々あるが、「あとがき」は初めて。早速、著者のぼくも忘れている「あとがき」を読み返してみた。我ながら力一杯書いていて熱意をかんじる。
 コピペするので読んでほしい。

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 戦争は、狂気を正当化する。そして戦争は科学技術を発達させ、優秀な技術者を生む。本書に関わり、それを実感した。
 日本も米英諸国も、正義の名の下、軍用機という武器を造り続け、その生産量が戦争の勝敗を決めた。
 技術者は、軍用機という武器の性能向上と生産に命を懸けた。戦闘機乗りは、軍用機という武器を命を懸けて操った。それは美しくも悲しい人間ドラマであった。
 狂気の時代にもプライドを捨てなかった技術者もいた。「離陸はできるが着陸ができない飛行機は飛行機でない」と、木製の特攻専門機「キ115」を、ついに軍に渡さなかった人たちだ。この機は百二十機あった。技術者のプライドが百二十人の若い命を救ったとみるか、武器の出荷を拒んだ非国民とみるかは、読み手次第だ。

 中島対興銀の経済戦争。日米の戦争。戦争に思いやりという精神はないのだろうが、せめて、ぎりぎりの人間性(ヒューマニティー)だけは保ってほしい。戦争を調べながら、そう思った。

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 以上である。
 写真は拙書と不時着し部品を略奪された「彩雲」。この「彩雲」中島飛行機半田製作所で造られていたもの。