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2015.10.01

 月並み

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 中秋の名月。気持ちの良い月だ。
 半田の老舗料亭「望洲楼」は、「亀崎の月」がウリ。この中秋の月の期間は例年の月見の客で賑わっている。
 望洲楼の月の間では、月見団子にススキを飾り、ハゼ料理で銘酒をちびり。
   村雲もなし今日の満月・・ てな具合だろうか。いいなぁ。

 ぼくはお月さんを見るといつも思い出すことがある。
 昔々、アララギの歌人だったころのことだ。若いぼくは盛んに月を詠っていた。月を題材にすると、どれもそこそこの歌が出来るような気がしていた。
 その時、近藤芳美師がぼくの歌をみて、「それを月並みと言うのだよ」。

 太古から詠い詠われた月の歌は、数え切れないほどある。
 万葉集も、古今集も、新古今集も月だらけだ。
 そこで、西行の月の歌がピリオドを打って、月はおしまい。
 あとは、月並みが残るだけなのだろう。

2015.09.25

 南吉の彼岸花

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 新美南吉の里に彼岸花の季節が来た。
 200万本という。
 どこまでも続く、一面の真っ赤な絨毯である。

 南吉童話のごん狐が見たのは、この真っ赤な絨毯の上を進む、兵十のおっかさんの葬列。
 葬列の中にいる、いつも赤いサツマイモのような顔をしている兵十が、青い顔をしていた。
 それを見て、ごん狐は兵十を慰めようとして・・・

 の物語である。

 結末は、兵十の鉄砲でごん狐は撃ち殺される。銃の先から青い煙が上がり、ごんは死ぬ。…そんな悲しい物語なのだ。

 このように南吉のこの物語の表現は、赤と青で構成されている。
 そのどの赤も、どの青も、悲しい色である。

 しかし、平成の今、矢勝川沿いに咲く真っ赤な彼岸花の絨毯は悲しさを見せない。
 なぜだろうと思う。

 それは見る人の心の目の違いに他なるまい。

 あなたの今日見た彼岸花は、美しかった? 悲しかった?
 個々の持つ心象風景でその色への感受性が変わる。

 ・・・矢勝川の一面の彼岸花を見ながらの感想である。

 

2015.09.11

 七本木池開墾記念碑

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 明治20年代の半田地方一帯は、養蚕業が盛んだった。蚕(カイコ)を飼い、蚕の繭(まゆ)から生糸を作る作業である。
 養蚕は、この地方の農家の格好の副業だった。農家の天井裏や中二階では蚕を飼う棚が造られていた。今もこの地方の古い家屋には天井の低い中二階があるのは、この名残りという。

 蚕は生き物である。この飼育はなかなか大変な仕事だったようだ。
 特に蚕は桑の葉しか食べない。だから、たくさんの蚕を飼うためには、大量の桑がいる。
 半田近辺の桑は採りつくされて困っていた。

 「桑が足らない」。
 そこで乙川村の有志が立ち上がり、桑の木を増やそうとした。当時は地域のため、みんなのため、損得抜きで頑張る人が乙川村にはいたのだ。当会に文書が残るが、全費用は入口喜太郎を中心にした個人の持ち出しだった。
 ちなみに入口喜太郎のご子孫は、現在、乙川で「入口屋」という青果店を営んでいる。

 さて明治期。半田のはずれに、七本木池という広大なため池があり、その周辺は一面の雑木林だった。その一面の雑木林を開墾して、桑畑にしようというのだ。

 乙川村の有志たちは2年の歳月をかけ、手弁当で開墾作業に従事した。
 そして見事! 明治30年、広大な開墾地が出来た。桑の木を植えた。そこに記念のため、みんなのご苦労を労うため、その顛末を刻んだ開墾碑を建てた。

 しかし、時代が移り、蚕は必要なくなる。そして開墾の汗への感謝も忘れられ、開墾碑も雑木林の中に放置されていた(写真①)。

 戦中、戦後。80年も忘れられていた開墾碑が発見された。  
 というか、はんだ郷土史研究会の有志が探しに行って発見。(写真②)それは平成18年秋。
 そして平成19年春。雑木林から人の目に触れることのできる「はえみ街園」に移築(写真③)。
 その4月2日、お披露目会を挙行。バンザイ! 写真中央、濃紺のスーツ姿は当時の半田市長・榊原伊三氏(写真④)。その左の茶色の服が蟹江正行・当会会長。
 それから8年。今度は忘れられないように、毎月1回、はんだ郷土史研究会の幹部が当番制で清掃に行っている(写真⑤)。一度も欠かさず行っている(はず)。

 今は、こうしてがんばっているけど、こんな地道なことは永久に続かないだろう…、と情けないことを考えている。まぁ、弱気にならず淡々と続けるさ。「功名また誰か論ぜん」だ。

 *開墾碑は七本木池の北の県道沿い。日本福祉大学へ向かう道の上池側の小さな「はえみ街園」の一角にある。車は停められない。
 一度、見てほしい。

2015.09.03

 西まさる編集事務所

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 先日、NHKの番組で、わがオンボロ事務所が舞台になった。
 西まさる事務所に記者が来て、玄関で「こんにちわ」、「ようこそ。どうぞお入りください」との脚本だ。そして、書棚の前で、ぼくが、分かったような、うん蓄を語る・・ という流れである。

 こんな出来レースようなシナリオだが、これが一番、掴みがいいらしい。
 ところが、さすがNHK。守備範囲が広く、意外なところから電話やメールが来た。
 その中で、「西まさるの事務所に興味あり…」、「物書きの事務所とは、こんな感じなのか」が数件あった。ちなみに、「西の論説には感心・・」は1件もなし。

 興味は、まるでゴミ屋敷のような、わが事務所なのだ。そのどこが面白いの? と言いたいのだが、たぶん、珍しいもの見たさ、怖いもの見たさなのだろう。

 ならば、ご披露しよう。
 と言っても人様にお見せするようなものではない。どこからか覗き見しているおつもりでどうぞ。
 あまりの汚さに気分が悪くなっても、それは自己責任で。
 そして、ちょっとだけ見栄を張る意味で、少し前の「胡蝶蘭が飾ってあった時」の写真も出す。但し、この立派な蘭の花はわが事務所にて、間もなくドライフラワーになったのであります。
 わが事務所への贈り物は、間違っても生花はいけません。水の補給は一度もなく枯れてしまう。花がかわいそうだから。

2015.08.28

 榊原弱者救済所

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 ここでは、明治32年から30年間、世間から白い目で見られながら、孤児・捨て子、身障者、出獄人、家出女性、極貧者などを救済した。その数、実に1万5千人。主宰者は榊原亀三郎。元ヤクザの民間人。この施設は、日本初、日本最大の民間人による弱者救済施設である。
 ようやく世間に認知された大正末期、亀三郎は事故死。
 そして戦争。
 社会的弱者、身体的弱者など日本国民と見なさない、嫌な世相となった。
 終戦。戦後、この榊原弱者救済所は忘れられていた。人は弱者救済どころか、自分が食うのにいっぱいだったから仕方がない。
 救済所は雑木林となっていく。

 写真は、大正元年の尾三新聞。救済所を訪問した主な人の名だ。錚々たる顔ぶれが半田の山の中まで来ている。それも全国各地からだ。この時代のビックネームは「弱いものに目が向いていた」のだ。
 ちなみに鉄道の駅(名鉄の成岩、国鉄の半田)から鴉根の救済所までは、よい道がなかった当時、徒歩で小一時間、人力車でも同じくらいはかかったろう。

 今、ようやく、榊原弱者救済所跡保存会が出来、保存事業は進んでいるが、「更生保護」とか「福祉」という地味なもの。人気のあり事業ではない。建前は全員が頷くが、さて実質的な協力といえば、みなさん控え目。昔のビックネームのようなことはない。
 ただ、保護司関係者が、時々、視察に見えているのだけが救いだ。

 さて、10年後はどうなっているのだろうか。

 写真は新聞と移築前の芳名碑。芳名碑は大正9年建立。この救済所を支援してくれた91名の名がある。

2015.08.20

 お盆の東名高速で、沼津史談会へ

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 沼津史談会さんからお声がかかった。
 「はんだ郷土史研究会と、その活動」を紹介せよ、とのことだ。
 沼津史談会さんは30年もの実績があり、きちっとした組織、計画された行事。会計報告なども聞かせていただいたが、はんだ郷土史研究会とは比較にならない「正規」の会だ。

 その会が、わが会に興味を持ったのは、「会員制もとらず、会費も集めず、行き当たりばったりだが、何とか10年も運営している不思議」に違いない。
 正規で高禄の武士が、喰うや喰わずの浪人の暮らしに興味を持つようなものと、ぼくは理解している。

 しかし、お呼びはありがたい。
 ありがたいが、来いという日は8月15日! おいおい、道は大丈夫か!
 鉄道を使うのが安全だが、ぼくの講演は「本の行商」でもある。段ボール箱を抱えて新幹線も無理だ。仕方ない車だ。幸い、当会の吉田さんが高級車を持っている。突撃!

 人に聞けば、8月15、16日は、「一年で一番渋滞する日だよ。うまくいって、半田から沼津まで5時間。6時間は覚悟した方がいいよ」てな調子だった。
 口の悪いやつは、「尿瓶を忘れるなよ」。おいおい。

 現地12時集合とのこと。ならばと朝、6時30分に半田を出発。ところが、衣浦トンネルをくぐってから、ぼくがバックを忘れたのに気づき、Uターン。実質、7時を過ぎてからの出発だった。

 これはいかん。
 祈るように東名高速へ!
 ところが・・・・、何だこれは!【写真】

 ガラガラ。からがら。気合が抜けるほどガラガラ。
 高速道路では120㌔くらいで、びゅんびゅん。何と10時前に沼津に着いてしまった。

 ノンストップで3時間以内ということだ。
 アテが外れた思いというと、バチが当る。
 無事、講演会が開かれた。

 「はんだ郷土史研究会の紹介」を吉田政文が30分
 「榊原弱者救済所」を西まさるが90分。
 意見交換会が30分ほど。
 充実の会だった。

 

2015.08.09

 極楽へ行った

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 あまり暑いので極楽へ行ってきた。
 極楽は、中央線の恵那から明知鉄道に乗り替えて20分ほど。そうは遠くない。ほんとうの極楽もこれくらいお手軽に行けるのなら、まこと、ありがたいのだが…。

 このところ極楽に縁がある。
 今、懸命に書いている原稿が「吉原遊郭」。言わずと知れた「昼は極楽のごとく、夜は竜宮のごとし」の街。
 それに、新吉原遊郭の開基に関わったとぼくが睨んでいる松本清十郎は、知多半島は須佐村の人。出自は須佐村の「極楽寺」に隣接する神社の神主の子である。
 極楽、極楽の関係であるとしたい。

 思えば、ぼくは子どもの頃、おばあちゃんから「おまえは極楽トンボやなぁ」と、年じゅう言われていた。何の心配もせず、苦労もせず、ふぅらふら、ふぅらふらと遊びまわっているさまを、そう形容するらしい。
 まさに言い当てて妙。今現在も極楽トンボで女房に苦労をかけている。

 おばあちゃんはよく働いた。昔の女性はみなそうだったが、朝から晩まで働きづめだった。
 夜、床に入ると、おばあちゃん。
 「世の中に 寝るほど楽は なかりけり、浮世のバカは 起きて働く。あぁ、極楽、極楽…」
 と、口癖のように、呪文のように、その台詞を2、3回、口にすると寝息を立てていたものだ。
 極楽、極楽。

 きょうの極楽は暑かった。
 温度計は41度を過ぎ、42度に達しようとしている。
 ちょっと見にくいが、42度、すなわち、シニそうなどで極楽を後にした。

 さて、極楽から戻ったぼくの行き先は、やはり、地獄のようだ。
 お後がよろしいようで。

2015.08.06

 ヒロシマの限界

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 8月6日である。広島に原爆が投下された日だ。
 きのうからテレビの特集が続く。
 きのうのNHK、きょうの昼の朝日系で、どちらも、「被爆体験者が少なくなり、また、被爆体験を聞く人が少なくなった。学校などでも被爆者の話を聞く場を設けなくなった。被爆体験を聞きたくない人も増えた」と報じる。

 戦争を知らない人に、戦争の悲惨さを話しても他人事なのだろう。

 ある教師は、「被爆して全身が焼け爛れた人間の写真を子どもに見せて、子どもたちの心が傷つく方が心配」と言う。
 教師の思いも分からないではない。
 だが、実際に起こった史実を子どもたちに隠す方が罪は重くないだろうか。何事もなかったことにして、やり過ごす方が無難だという考えには賛成できない。
 彼は、自分の教室の「いじめ」も見て見ぬふりでやり過ごすのだろうかと思ってしまう。 

 「被爆体験の語り部の減少」の番組を観ていて感じた。自分の思いを押し付けても他人はついて来ない。「こんなに悲惨なのだ」と叫んでも、悲惨な目に遭った人以外は共感できないのだ。
 そう思った。

 昔の話だが、丸木俊さんの絵本(写真)を、何十冊も買って、人に差し上げた。
 貰ってくれた人は読んでくれただろうか。
 「ありがとう」と持って帰ったが、どうしたのだろう。たぶん、そこらにポイ、が大方だったろう。
 しかし、ぼくは良い事をした、と満足していた。こんなことで平和に貢献していたと誤解していたわけだ。被爆者でもない、戦争も知らない、ぼくが、何を語っても共感を呼べるわけはないのにね。
 若気の至り。

 今ごろ、気がついてどないするねん!

 昔々、8月6日に広島に行った。式典に出席するためだった。

   「ヒロシマね」「そうヒロシマだ」
                 灼熱の蒼天見上げ駅頭にいる

 その時、こんな短歌を作ったことを思い出した。
 歌は悪くない。ここに30歳代のぼくが見える。ナルシズムに満ちたぼくが見える。

 そして今、ナルシズムの欠片もないぼくが、ここにいる。

2015.07.30

 鶴見俊輔を追悼する

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 鶴見俊輔が死んだ。
 死亡記事を新聞で読みながら、何かひと時代が終ったような気がした。
 鶴見俊輔に影響を受けた世代は少なくなっている。新聞記事だって3面のベタ記事。そんなクラスの人ではなかったのだが、もう、存在感すらなくなっているようだ。
 確か、平成になってすぐの頃、ぼくは初めて鶴見氏に会った。某雑誌の対談で、ぼくが司会役だった。ぼくにとって氏は学生時代から影響を受けた(納得もし、敵性も感じた)一種のカリスマだった。
 早口で、自説を曲げず、時々司会のぼくにも食って掛かる、そんな人だった。
 それから数年後、京都で会う機会があった。
 酒を飲みながら、
  「老人は 死んでください 国のため」
 という時事川柳の話をした。鶴見氏は、この川柳をベタ褒めした。

 鶴見氏の紹介で多田道太郎を知った。
 多田氏とも京都で飲むことになった。待ち合わせは京大前の古書店。料理屋を予約しているのに、なかなか古書店を出ようとしなかった。古書店の棚がよく似合っていた。
 良い酒だった。「酒は控えている」と言いながら飲んでいた。鶴見氏とは対照的な温厚な人だった。
 「酒は控えているがもう一杯 ウフフ」てな感じで、フランス文学と日本文学の共通性などという話をしていた。

 もう一人、思い出した。
 小田実だ。
 小田氏の西宮の事務所へお邪魔した時のことだ。
 ぼくは、駅前で「赤い羽根」を勧められたので、募金をして、胸に赤い羽根をつけてもらっていた。
 「募金をしたのか」と小田氏。
 「はい」とぼく。
 「いくら出したんや」
 「100円です」
 「それは募金やない。偽善や。募金をするのなら、自分が痛いと思うほどの金を出して初めて募金や。助け合いをするのなら、そんな覚悟がいる」。

 滔々と説教というか、教訓というか、いい言葉をもらった。今でも募金箱を見ると小田氏の言葉を思い出す。
 痛いと思える金額はいくらだろう・・と、その後考えた。5000円くらいだろうか。
 とてもとても、そんな金を道端の募金箱に放り込む勇気はない。

 鶴見俊輔が死んだ。多田道太郎も小田実も、とうに黄泉の人。

 日本の一つのしっかりとした骨だった人たちだ。
反体制を哲学として話せる鶴見俊輔、多田道太郎。形振りかまわず実践する小田実。
 彼らとともに、日本の元気な思想家たち、リベラルな思想が死なないことを願うしかない。

 日本を代表する思想家の死を追悼する。

2015.07.28

 NHKで放映

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 終戦の特集番組に一つが、きょう28日夕方6時NHK名古屋の「ほっとイブニング」で放映される。
 西まさると、はんだ郷土史研究会がお手伝いした番組。

 内容は、中島飛行機半田製作所の組立工場長をされていた芦澤俊一さんを中心に「戦争と技術者」を考えるもの。
 数々の資料とともに、はんだ郷土史研究会の例会の模様、戦災慰霊碑、ついでに西まさる編集事務所も映る・・はず。

 西は制作に関わり、出演もしているが編集には関わっていないので、どんな番組に仕上がっているか分からない。

 お時間があればご覧いただきたい。