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2018.05.28

 「ふるさと講座」5月例会 「清水次郎長と知多半島」西まさる

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 当会「ふるさと講座」5月の例会を開催。通算154回。よく続いているものだ。
 思えば、平成15年の秋、ぼくが知多半島をウロウロしている際、ふとしたことから清水次郎長が知多半島でヤクザ稼業を始めたことを知った。「次郎長は清水の男じゃないのか」てな、どうでもいい疑問から次郎長探索が始まったのだ。それが「はんだ郷土史研究会」の始まりに繋がっていった。
 と言っても、ぼくが同会を創ったわけでない。「やろうよ、やろうよ、やりたいよ」と言った人が6人。その6人が創立者だ。
 ぼくは他所者、ついでに言えば彼らのような強い郷土愛もない。だが何となく事務局次長のようなことをさせられていた。まぁ、それも嫌いでないから、お手伝いをしていた。

そしてその6人が次々とリタイヤ、誰もいなくなった。

 でも毎回、例会に熱心に参加する人が6~70人も残っている。毎月第3日曜には休まず例会も参加して来る。嬉しいやら困ったやら。
 会長がいなくっても会員はいるのだ。(但し、会費制をとっていない。そんな会だから、それも会員かな?)
 そんな会員たちに押されて、何となく続けて14年、昨日は154回目。出席は80名。

 そんな14年前の思いもあって、「次郎長と知多半島」を話した。意外に知られてはいないが次郎長の女房も養女も今の半田市乙川村の人だ。大政も鶴吉も鬼吉も勝五郎も知多の人。次郎長の第二の故郷は知多半島なのだ。

 もう1コマは「成岩城と城主・榎本了圓」。赤江清功さんが資料を集めてくれた。さらに「成岩城の攻防」の民話を朗読してくれた。
 そして了圓の居た常滑・金蓮寺を森下高行さんが丁寧に調べてくれた。現地に度々通ってくれたことが分かる。
 森下講座はとても彼なりの仮説・結論まで論が及び、とてもよかった。
 さらに新美昇さんが自らが信徒である時宗(了圓は時宗の僧)について丁寧に説明してくれた。
 また、小林勇さんが「成岩城」をイメージして大きな絵を描いて来て、みなさんにご披露してくれた。
 こんな手作りの講座をみんなの力で続けていきたいのだ。

2018.05.17

 『吉原はこうしてつくられた』 ようやく出版

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 「新吉原遊郭をつくったのが南知多の人」、を知ったのが平成15年。それをまとめ『知多半島郷土史往来』などで論文発表できたのが平成26年。ここで少し話題になり、単行本にすべく調査を重ねていると、とんでもないものが飛び込んで来た。「陰陽師」である。

 吉原遊郭は陰陽師により、陰陽五行の原則にそって造られていたのだ。
 町の造りもそう。「見返り柳」もそう。「五十間道」もそう。なんと、あの花魁道中の花魁の歩行法もそうだったのだ。
 それを突き止めた。そしてこれは江戸吉原の定説を覆すものだから相当慎重に裏をとった。エビデンスを求めた。

 それに3年かかった。
 ようやく刊行する。『吉原はこうしてつくられた』(新葉館出版)西まさる著である。

 江戸吉原の新しい歴史がここから始まった! と大見得を切っておきたい。
 さて、さて。

 全国配本は5月23日という。定価1,500円+税

2018.05.07

 芦原温泉の「べにや」が燃えてしまった

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 辛いニュースが入ってきた。芦原温泉の老舗旅館「べにや」が全焼した。ニュース番組で見た。You Tubuでも見た。赤い炎が大きな屋根を破って燃え上がっていた。

 「べにや」は、ぼくの金沢の実家の祖父が贔屓にしていた旅館。子どもの頃のぼくも連れてきてもらったことが何回もある。
 それからぼくが社会人になり東京や大阪に勤めていた頃、帰省の際に何度か泊まっていた。家内とも何度か泊まった。
 小学校低学年の頃の娘を連れて行ったことがある。子どもはお子様料理である。ところが娘、自分に出された料理はそっちのけで、ぼくたちの料理を食べること食べること。余程美味かったのだろう。呆れるほどだった。娘が生まれた初めて食べた本格的な会席料理がこれだった。
 そんな思い出がいっぱい詰まった旅館である。

 半田の住人となって一度、家内と泊まりに行った。その時の実感。「こんな高い店だったのか…」。もう貧乏したぼくには行ける店ではなくなっていた。それはそうだ、天皇陛下や石原裕次郎が泊まる店。ぼくらのクラスでも二人で10万円近くはいる高級旅館なのだ。もう高嶺の花だ。

 でもどこかに、「ぼくのべにや」があったようだ。
 昨年、榊原弱者救済所をあわら市の保護司会さんが視察に来られた。いつものようにぼくがミニ講演をしたのだが、その際、「祖父の代から、べにやが常宿」と言うと、あわらの方々から、ホウーという声が漏れた。ちょっと自慢だった。
 昨月、芦原温泉に一泊した。べにやには行けないのでリーズナブルな店にした。その晩、仲居さんが「お客様は芦原は初めてですか」と言うので、「いやいや祖父の代からべにやの客だよ」と言うと、仲居さんの態度が変わった。「べにやの馴染みの上客」に見えたのだろうか。
 そんなブランド力があの老舗旅館にはあったようだ。

 そんなべにやが燃えちゃった。
 追悼の思いを込めてここに書いておく。

2018.04.28

 『吉原はこうしてつくられた』

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 拙著『吉原遊郭をつくった男たち』の出版が大幅に遅れている。
 それは世の女性たちにストップ! をかけられたからである。
 女子は怖い! 
 「西まさるさん! この本はいけないよ。セクハラを連想するよ。こんな本を出したら、あなたの作家生命は終わりだよ」と言われたのと同然の現象がまさに起こっているのである。

 本は1月に脱稿。2月中旬には製本され下旬には書店の店頭に並ぶはずだった。
 商業出版だから出版社は印刷する前に主な書店や書籍取次会社にこの本の売り込みに廻る。書店員さんの反応をみて印刷部数を判断するのだ。
 出版社の人が書店員さんに本の題名と内容を伝える。今、書店の現場の実権を持っているのは女性が多い。女性社員はこう言う。
 「吉原遊郭の男って、遊女をこき使って儲ける悪い男でしょう。どんな本なの! そんな本、女子は表紙を見るのも嫌だよ!」
 と吐き捨てるのだ。

 出版社の編集部でも女性編集者の中からそんな意見が多く出たという。但し、編集者は中味もしっかり読むから、そんな悪い男の本ではないと分かる・・。でも首を傾げていたという。

 ともかく、大手書店の店員さんに総スカンを喰っては、本屋大賞どころではない。店頭に並ぶのも難しい。
 そこで急遽、題名を『吉原はこうしてつくられた』に大変更。大慌てで版下も作り直し、バタバタの数週間となった。
 ぼくも当初は「本を読んでくれば分かるのに・・。題名だけで判断できるのかい」とブツブツ言っていたのだが、そこに降って湧いたのが財務省福田次官のセクハラ問題。「そうかセクハラはいかん。女子を敵にしては勝ち目はない」と妙に納得した。

 出版は5月10日。配本は20日頃。さてさてどうなることやら・・・。
 乞うご期待と言うしかない。
 

2018.04.18

 永平寺奮戦記

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 金沢から福井。仕事プラス野暮用である。
 以前から優子が永平寺に行きたいと言っていたので、今回、気が重いが意を決して行くことにした。というのも、ぼくは例の病気以来、歩行が辛い。本当は積極的に歩くのが何よりのリハビリなのだが、生来の怠け者。努力するのが大嫌い。だからあの大きな永平寺の中を歩くなどと考えただけでもゾッとするのだ。

 「参道の入口の蕎麦屋でビールでもチビチビやって待っているから、あなた一人でお寺には行って来てよ」
 という約束で永平寺行きとなった。

 福井駅から特急バスで30分。永平寺の参道前に到着。運転手さんに聞くと、「参道を徒歩7分上ると本堂の山門」と言う。普通の人の徒歩7分、杖をついたぼくなら15分の登山。とてもじゃないが願い下げだ。
 「約束通り、一人で行ってよね」と念をおしてバスを降りる。
 そこは、おみやげ屋さん「一休」の前だった。蕎麦や酒もある店だ。「ここに居よう」と思った瞬間、お店の女店員(主人?)がぼくに声をかけた。
 「山門まで上り道はきついですよ。車でお送りしましょう」
 杖のぼくを見て、親切に言ってくださったのだ。福井の人はやさしい。
 そう言われて断るわけにもいかない。
 さらに優子はぼくに、「永平寺の仏さんがさぼらずに上がって来い、と言っているんよ」と追い打ちをかける。
 「わかった」。

 そして山門へ。
 ここまで来れば寺院内に入らないわけにいかない。恐怖の苦行が始まったのであります。
 広大な境内。凛とした本堂。
 素晴らしい雰囲気だが、杖をついてゼイゼイ。まさに修行僧そのものである。
 そして何とか・・・・。

 帰りも山門まで「一休さん」に迎えに来ていただく。もちろん、ありがとうと言うだけではいけない。お店でゴマ豆腐、山菜の天麩羅でビールを2本。おみやげも一杯買わせていただいた。
 ヘトヘトになって福井駅に。がんばったせいで腹が減った。
 気の利いた居酒屋があった。そこでブリの刺身、イカの刺身、福井のおでん、焚き合わせなどで痛飲。優子も福井の地酒・一本義でご機嫌。帰りの列車で鯖の棒寿司でビール。

 それなのに帰ってみてみてびっくり。体重が2キロ落ちていた。
 まさに修行のたまものであった。

 *本堂へ続く階段をみてほしい。ここを昇った。(いばるほどでもないか)

2018.04.17

 亀三郎まつり挙行

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4月8日 亀三郎まつり挙行。
紹介が遅きに失したので、中日新聞の記事を添付してこれに代える。ごめんなさい。

2018.03.23

 榊原弱者救済所保存会総会

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 榊原弱者救済所保存会ができて4年目となる。
 半田の鴉根の丘に、30年に亘り1万5千人もの社会的弱者を救済、保護した施設があった。日本初、日本最大の民営の弱者救済所である。
 こんな劇的ともいえる事業が現代社会では知られることも、賞賛されることもなく眠っていた。
 不思議なことだ。

 まあ、それは良いとして、今はこうして保存会もある。
 半田市、半田保護司会、はんだ郷土史研究会、鴉根区。その四位一体となって運営する会はようやく2回目の総会を迎えた。

  ぼちぼちでもいい、地道に続けていきたい。

 *写真は総会の模様。壇上で挨拶するはんだ郷土史研究会・会長の蟹江正行。

2018.03.14

 中島飛行機半田製作所の「戦後」が終わった日

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 中島飛行機半田製作所の昭和39年の写真を8枚入手した。ご提供くださったのは日比恆明氏。貴重な8枚である。

 昭和39年と言えば終戦から19年も後、それなのに戦時中の昭和20年7月に米軍により爆撃されて廃墟となった同製作所の「5号棟」がそのまま残っている。それがこの写真である。
 他の多くの工場棟も爆撃され壊滅状態になったのだが、この時代までに整理され空き地になっている。
 廃墟の5号棟の周辺がそれである。
 おっと、写真をもう一度見てほしい。手前の農地に人が、牛が写っている。

 この5号棟だけ解体ができなかったのは、ここだけが戦後賠償の処理が出来ていなかったからだ。さらにこの建物の側で賠償機械なども保管していたからだ。
 分かりやすくいえば、この5号棟(一万坪)はまだ正式に日本のものではなく戦勝国の管理下にあったのかもしれない。

 翌40年、ここは中島飛行機(富士産業→輸送機工業)に返還(売却)された。
 ようやく中島飛行機半田製作所の「戦後」が終わったのである。

  *詳しくは「はんだ郷土史だより」3月号に。

2018.03.05

 矢勝川の環境を守る活動

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 2月の例会は「矢勝川の環境を守る活動について」を守る会の代表・榊原幸宏さんをお招きしてお話を願った。
 もうすっかり半田名物、半田名所になった「彼岸花の矢勝川」。南吉の里と相まって季節になると早朝から夕刻まで見物客で広い川岸、堤防に人が溢れている。

 この彼岸花は現在、阿久比側のものも含めると300万本とのこと。凄い数だ。この活動、現在は半田市など「官」の協力もあるが、もともとはまったくのボランティア。小栗大造さんという方が一人でボチボチ始めたのが初めである。

 そう言えば、ぼくが半田市民になった10数年前、この矢勝川と彼岸花について、悪口がいっぱい聞こえていた。
 「彼岸花は葬式の花。縁起が悪い」、「南吉は葬列の描写で彼岸花を書いている。知らないのか!」という正論的な攻撃!
 「彼岸花には毒がある。子どもが口に入れたらどうする!」、「あんなものを堤防に植えたら堤防が弱体化する!」というチンプンカンプンな攻撃。
 「小栗大造は自己顕示欲でこの活動をしている。公共の堤防を利用するな!」という嫉妬とも嫉みいえる言葉。
 そんなものが耳に入っていた。

 そんな悪口、陰口を小栗さん、榊原幸宏さんが知らないわけではないだろうが、ここまでコツコツと進めて来られ、今はもうこの活動の悪口を言う人はいない。

 幸宏さんが講座でこう言った。痛快だった。
「さんざん悪口を言われていることは知っていた。でも数年前からその連中と力関係が逆転した」。

 それを聞いて、ぼくは「はんだ郷土史研究会」のことを連想した。当会はまだ悪口・陰口の対象だ。いつか力関係が逆転する日が来るのだろうか……。来ないだろうな。

 ちなみに小栗大造さんは昨年11月にご逝去。遺言により誰にも知らせず、葬式もしなかった。そして、ご遺体は名古屋大学に献体された。それをみても自己顕示欲などまったくない人だったことが分かる。

 ぼくもそうしようかな。できるかな。と思っている。

2018.02.01

 陰陽師の墓 鬼崎海苔

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 陰陽師の里に陰陽師だけの神道墓所がある。知多市八幡(寺本村)である。
 南岸低気圧に負けず突撃した。朝はマイナス1度、昼でも4度というが伊勢湾には伊吹颪がビュンビュンと吹く。体感温度は0度に近いだろう。
 写真は陰陽師7家の墓所である。伊達、高橋、永井、森岡、吉田、久野、松田の7家の代々の墓標が立っている。中には墓碑に辞世の歌を刻んであるものもあった。
 新しい花も供えられていたから今も墓参が絶えないのだろう。
 ここが陰陽師の里。尾張万歳の里、黒鍬衆の里である。感慨深い時間であった。

 帰りは鬼崎漁港に寄り、鬼崎海苔を買うことにしていた。
 鬼崎海苔は超一級品。地元ではほとんど流通せず主に東京の高級寿司店に出荷しているそうだ。
 漁協に電話して在庫を確かめると「あります。3700円から4500円です」。
 「はい、分かりました」と言ったが、側で女房が角を出している。「うちはいつもいくらの海苔を買っているのか知ってる? せいぜい2000円よ!」。
 しばし沈黙。

 しかし漁港へ。伊吹颪にうねる海。この風に乗った木曾三川の栄養分がここ鬼崎にちょうどぶつかり、こくのある上等な海苔を育てるようだ。
 海苔の味? それはまた今度ね。