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2018.07.09

 知多半島は全国有数の陰陽師の郷

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 拙書『吉原はこうしてつくられた』(新葉館出版)で新吉原遊郭をつくった主導者の一人が陰陽師・土御門家だと書いた。そして、知多半島は全国有数の陰陽師の郷だと書いた。
 言うまでもなく、私が思い込みで書いたものではなく、ちゃんとした資料や史実に基づいたものだ。その点は自信を持っている。

 しかし、これを読んだ知多半島の多くの人は拒否反応を示しているようだ。あるいは反応をあえて表さず無関心を装っている・・・ように見える。
 なぜだろう。
 陰陽師は優秀な頭脳をもち、代々続く経験値に培われた学識と分析力により「博士」と呼ばれる人たちだ。秀でた天文学、地理学。高い建築土木技術もある。
 そんな陰陽師たちが秀吉によって京や畿内から追われ、木曾三川の下流域に。そして知多半島北部一帯に住むようになったのだ。
 そこで集落をつくった陰陽師たちは、いつか周辺の土着の村々と一緒になり、やがて指導的な立場になっていったのは当然の流れであろう。新田開発、尾張万歳、黒鍬衆。そこにははっきりと陰陽師の顔が見える。影ではない顔である。
 そして陰陽師は各村々、多くの村人と共生し、地域に革新的な知識や技術を伝え、知多半島繁栄の一端を担ったのである。

 妙に小難しく書いてしまったが、「陰陽師は凄い知識人なのだ」「陰陽師は知多の村々に貢献したのだ」「陰陽師は怖い人ではない」。
 そう力説したいのだ。

○写真は尾張国の陰陽師組織。知多郡北部に集中。
○今も知多市にある陰陽師だけの神道墓所。広い墓所だ。

2018.05.17

 『吉原はこうしてつくられた』 ようやく出版

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 「新吉原遊郭をつくったのが南知多の人」、を知ったのが平成15年。それをまとめ『知多半島郷土史往来』などで論文発表できたのが平成26年。ここで少し話題になり、単行本にすべく調査を重ねていると、とんでもないものが飛び込んで来た。「陰陽師」である。

 吉原遊郭は陰陽師により、陰陽五行の原則にそって造られていたのだ。
 町の造りもそう。「見返り柳」もそう。「五十間道」もそう。なんと、あの花魁道中の花魁の歩行法もそうだったのだ。
 それを突き止めた。そしてこれは江戸吉原の定説を覆すものだから相当慎重に裏をとった。エビデンスを求めた。

 それに3年かかった。
 ようやく刊行する。『吉原はこうしてつくられた』(新葉館出版)西まさる著である。

 江戸吉原の新しい歴史がここから始まった! と大見得を切っておきたい。
 さて、さて。

 全国配本は5月23日という。定価1,500円+税

2016.12.07

 吉原遊郭の揚屋 尾張屋清十郎の生家?

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 新吉原遊郭を支配した張本人、尾張屋清十郎。彼は尾張国知多郡須佐村の神職・禰宜左衛門の子であることが分かった。禰宜左衛門の神社は須佐村高浜の「土御前社」である。つまり清十郎の実家はここだったといえる。但し、清十郎がここに暮らしていた時の神社は写真の場所でなく、もっと山頂近くだった。

 この土御前社は知多最古の寺「極楽寺」に隣接していて、ともに「求聞持山(ぐもんじ)」の山腹にある。
 求聞持山の山頂には、昔、修験者が修行していた「五文敷」という聖地のような場所にあったことは『極楽寺の歴史』などで分かっていた。多くの修験者たちがここで心身を鍛えていたのだろう。

 土御前社は切り立った山の上の社というから、小さな祠があるだけとの先入観をぼくは持っていた。だからわざわざ訪ねる気にもならないでいた。
 『新吉原遊郭と尾張・南知多衆(仮題)』をいよいよ上梓する段階になって、一度行ってみるか、と重い腰を上げた。行ってびっくり、こんな立派な神社だった。
 写真をみてほしい。
 写真㊧の長い階段をどんどんと登るのだが、上部の左に小さくみえるのがかつての五文敷への登り口。鳥居がたっている。
 写真㊥ 明治のものだが、「吉原」「松本」「家田」との家名。思いが巡る名前だ。
 写真㊨ ここから数百歩上に「五文敷」があった。修験者の高下駄と法螺貝の音が聞こえそうだ。ついでに書くが写真の男はぼくである。杖もなしでスタスタ… ではないが元気なものだ。

 尾張屋清十郎こと松本清十郎の生家はここかもしれない。生家でないとして、この地が彼の実家である可能性は極めて高い。
 ここに何かの物的資料(エビデンス)が眠っている。そして、それがぼくに「おいで、おいで」をしているのである。

 

2016.11.21

 吉原遊郭 尾張屋清十郎こと松本清十郎

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 ここ数回、当会の『ふるさと講座』では、「新吉原遊郭と尾張・南知多衆」と題して、新吉原遊郭を〝建設し〟〝遊郭を支配した〟のは松本清十郎を筆頭にする知多半島の須佐村の男たちだった、という講座を続けている。
 思えば、この件を発見したのは10年ほど前、以来、各地の講演などを含め、何十回もこの発表をしている。
 但し、ぼくの話が既存の伝承とは違う、いわば新発見であることからだろう、皆さんは、なかなか素直に受け入れてはくれていないようだ。
 そして再々、松本清十郎について「実在の人物だったのか」などの質問が来るので、ここで少しだけ書いておきたい。
 今回は清十郎のプロフィールと当時、江戸で彼がどのようなものであったかのかを文献からみてみる。

★松本清十郎(尾張屋清十郎)
 揚屋清十郎と呼ばれることもある。(不明~元禄5年(1692))
 尾張国知多郡須佐村高浜の出身、神官、禰宜左ヱ門の子。小佐村に寺院を寄進しているので、小佐村の出かもしれない。禰宜左ヱ門は土御前社など須佐村、小佐村、中須村などの神社を複数掛け持ちする宮司だろう。
 明暦2年(1655)の新吉原遊郭誕生と同時に、揚屋「尾張屋」に主人となり、他の須佐村出身者(分かっているだけで14軒)のリーダとして存在した。揚屋は宝暦の頃には吉原ではなくなる。最後の揚屋は「尾張屋」で、この時の主人松本清十郎は3代目だろう。

★吉原遊郭の中の清十郎
①、『吉原大全』に下記の記述。

 寛文七年の犬枕に、ふかきものゝ部に、「あげや清十郎」と見ゆ。その住家の大なるも思ふべし。

②、尾張屋清十郎の庭に、「通う神」の道祖神(地蔵堂?)があり、吉原の遊女たちの信仰を集めていた。遊女たちが客に手紙を送る時、綴じ目に「かよふかみ かわんじゃう」(=通ふ神 勧請)と書くと、手紙が無事に客の許に届き、願いが叶うとされ、それがひろく遊里の倣いとなっていた。

③、吉原には井戸がなかったが、最初に井戸が掘られたのは尾張屋の前だった。
 『吉原大全』から。

 元禄宝永の比。紀伊国屋文左ヱ門といゝし人。あげや丁・尾張屋 清十郎かたにて。はじめてほりぬき井戸をほらせしに。水おびたゞしく湧き出。ことさら名水なりければ。皆々この水をよび井戸して遣ひけり。中の丁のすへ。呼戸樋(よびとい)のとまりなれば。水戸尻といふ。紀文此井をほらせし時。祝義として。舛にて金銀を斗(はか)り。まきちらしけると。今にかたり伝へ侍る。

④、井原西鶴が『好色一代男』の中で次のように清十郎を書いている。つまり当時のベストセラー作家がモデルにするほど有名だった。

 まづは吉原の咄聞きたし 新板の紋尽し 紅葉は三浦の(高尾)太夫と 評判記なるものを読むが早いか 心ときめき 花の散らない先に さあ 出かけよう と吉原をめざして 一目散 大門口の茶屋 揚屋尾張屋清十郎方にいけば  さすが 御名は 予てより 受け給わっておれば 八畳敷きの小座敷に案内するのでありました

⑤、江戸の毒婦を代表する「妲己(たっき)のお百」。歌舞伎・浄瑠璃・怪談で有名。世にもまれなる美貌だったという「お百(於百)」は、清十郎の後妻になっている。そして数年後、お百は佐竹藩の重臣の妾に譲り渡された。(=秋田騒動になる)

 等々、明暦から元禄にかけて松本清十郎はスーパースターだったことがよく分かる。この清十郎を掘り下げていけば「新吉原遊郭誕生の謎」も解けてくる。
 さて、この続きはまた。

2016.03.26

 新吉原遊郭の謎/雑誌『東京人』に掲載

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「新吉原遊郭を支配した南知多衆」は、ほぼ10年ほど前から調査に入り、その実体のおおかたが判明している。いわゆるエビデンス(証拠)も入手している。

 それは数年前から『知多半島郷土史往来』などで発表しているのだが、
 明暦4年に元吉原遊郭が浅草田圃の今の場所に移転した時に、「それまでは、まるでいなかった尾張の人が一気に吉原に現れ、揚屋、妓楼、茶屋ばかりでなく、一般の小売商店にまで進出した」ことが明らかになっただけで、
 問題は、「なぜ尾張衆が・・」はまだ、推測の域を出ていない。

 今回は雑誌『東京人』に発表の機会をもらった。とはいえ紙幅が限られた月刊雑誌だから、言いたいことの半分も書けないが、「南知多衆が新吉原に進出した事実とエビデンス」は伝わったはずだ。

 『東京人』は、ぼくの他、渡辺憲司氏ほか吉原遊郭研究者のオンパレード、読み応えのある特集だ。

 ところで、庄司甚右衛門が開基したとされる元吉原遊郭が幕府の都合で浅草に移転された。その際、既得権益を持っていたであろう甚内ら既存の有力者を押しのけて、尾張・南知多衆が新吉原遊郭の中心に座った。
 なぜ、そんなことができたのだろう。
 ぼくと一緒に考えてみる気のある方はご連絡願いたい。
「吉原遊郭史」に残る研究ができる。

2014.07.20

 内田佐七と花魁・代々山

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 絵入本学会の先生方と南知多に吉原遊郭を尋ねて行ったことは前回の通り。

 その日のこと。一連のお寺を廻り、内田佐七邸に行った。
 実は、実はだが、内田佐七邸の滞在時間も30分ほどしかとれず、また、今回のエクスカーションの狙いから外れる訪問地でもあったのだが、今回、南知多観光協会の日比桂子さんにさんざんお世話になったこともあり、ほとんど義理で立ち寄ったのだ。(内緒!)

 ところが奇跡が起こった。
 内田佐七がぼくたちを呼んだのかもしれない。
 こんな奇跡だ。

 ばくは内田邸へはもう7、8回も来ている。そう珍しくない。
 先生方が2階を見学に。2階は狭いので、ぼくは一人で下の小さな部屋にいた。
 佐七さんの寝室だという六畳ほどの部屋。押入れもある部屋だ。

 何気なく汚れた襖を見ていた。ところどころ穴があいた汚れた襖だ。襖に手紙や短冊が貼ってあった。
 見ようによれば、ボロ隠し、破れ隠しの紙に見える。
 ぼんやり見ていた、ぼく。

 えっ!
 「松葉楼!?」 
 「代々山!?」
 扇面に達筆な女文字、松葉楼の名代の花魁、代々山(よよやま)の手紙だ!

 「先生!」と叫ぶぼく。
 先生がいっぱい2階から降りてきた。

 奈良文華館の浅野館長。慶応の日比谷教授。その他もいるいる、源氏物語絵巻の第一人者、俳文学の大家、浮世絵研究の第一人者、京都祇園の研究者、エトセトラ、エトセトラ!

 日本の近世文学のトップ学者が20名だ。

 代々山の書いた扇面はたちまち解読、裸になってしまった。

     風かよふ 寝覚めの袖の 花の香に
                   かほる枕の 春の夜の夢

 まあ、色っぽい和歌一首。そして色香の漂うような女文字。
 内田佐七さんはニヤニヤとこれを眺めたのでありましょう。

 真面目な話です。
 当時の吉原は花街というより江戸の粋を集めた芸能界というべき街。そこで江戸の文化は花を咲かせ、芸能は成熟していった。
 花魁はスーパースターだった。

 そんな名店で遊べるのは大旦那クラス。お忍びの大名。旗本クラス。

 その名店の中でも吉原屈指の大店・松葉楼を豪商・内田佐七は贔屓にしていたわけだ。そこの主人は地元、須佐の出身者だろう。
 そして内田の贔屓の花魁は名代の代々山だった。

  春の夜の夢~ でありますな。

  ☆写真は代々山筆の扇面と「代々山」

  

2014.07.12

 吉原遊郭を支配した南知多の男たち。

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 「吉原遊郭を支配した南知多の男たち。」
 かつて週刊誌の記者だったぼくは、思わせぶりな見出しを書く性が、今だに抜けてないようだ。
 でも標記はほんとうだ。吉原遊郭を支配したのは間違いなく南知多の男たちだった。

 7月7日。絵入本学会(絵本・絵草子・絵画・浮世絵などの学会)の野外踏査で南知多へ。いわずと知れた吉原の支配者の亡霊に会いに行くのである。
 一行は大学教授と研究者。自分の研究対象以外は興味も示さない、反面、興味のある事象に直面すると、他人のことなどほったらかしで没頭する。実にわがままな学者ばかり、合計21名。
 それを引率するぼくの気苦労、わかる?(笑い)
 
 さて、吉原と南知多の関係の証拠だが、
 元禄期の記録には、吉原遊郭に22軒の揚屋、妓楼があった。そのうち18軒の経営者が南知多の人だったことが過去帳で確認でき、そして寺社への寄進物などで裏づけも得られている。
 その多くは南知多町の須佐村と近在の人だ。
 18軒以外の残りの4軒は不明。だから、これらの店も南知多関係かもしれない。すると吉原の全部の揚屋、妓楼が南知多の人、という可能性もある。

 そんな証拠の確認に、延命寺→羽豆神社→光明寺→正衆寺→岩屋寺と回った。
 どの寺社にも「吉原の主」と言われた尾張屋清十郎や、「吉原の地頭のごとし」と言われた千賀志摩守の遺品がぞくぞくと見ることができた。
 写真の香炉は吉原在住の南知多の人が岩屋寺に寄進したもの。
 づらりと書かれた寄進者の中に、何と花魁の名も。(花魁が楼の主人と並んで、こんな寄進物に名を出すのは珍しい=某学者)

 まさに「壁と吉原 スサでもつ」の里謡の通りだ。(スサは壁の補強材の簾と須佐村を指す。)

 さて、続きは近日に。

 *写真のもう1枚は「千賀氏の墓所」20数基のお墓が並ぶ。

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