記事一覧

2018.04.17

 亀三郎まつり挙行

ファイル 398-1.jpg

4月8日 亀三郎まつり挙行。
紹介が遅きに失したので、中日新聞の記事を添付してこれに代える。ごめんなさい。

2018.03.23

 榊原弱者救済所保存会総会

ファイル 397-1.jpg

 榊原弱者救済所保存会ができて4年目となる。
 半田の鴉根の丘に、30年に亘り1万5千人もの社会的弱者を救済、保護した施設があった。日本初、日本最大の民営の弱者救済所である。
 こんな劇的ともいえる事業が現代社会では知られることも、賞賛されることもなく眠っていた。
 不思議なことだ。

 まあ、それは良いとして、今はこうして保存会もある。
 半田市、半田保護司会、はんだ郷土史研究会、鴉根区。その四位一体となって運営する会はようやく2回目の総会を迎えた。

  ぼちぼちでもいい、地道に続けていきたい。

 *写真は総会の模様。壇上で挨拶するはんだ郷土史研究会・会長の蟹江正行。

2017.12.17

 マイナス7度の茅野市。プラス3度の半田市

ファイル 388-1.jpgファイル 388-2.jpg

榊原弱者救済所跡の視察に遠く長野の茅野市からおいでいただいた。12月13日のことである。

当日、半田市はこの年一番の寒さ。朝の気温は3度ほどだった。「お~さぶっ」と茅野市のみなさんを待った。きょうは半田市更生保護女性会の菊岡小代子事務局長も来てくださっている。吹きさらしの史跡公園は寒い。

菊岡さんも「寒い~」とぶるぶる。マフラーぐるぐるで茅野市のみなさんを待った。

観光バスが到着。37名が降りて来られた。

「寒いでしょ」と榊原弱者救済所保存会の田中清朗会長。

「暖かいですよ。ここは」と茅野市の方。

「えっ! 暖かい?」

「今朝、私たちの茅野市はマイナス7度でした。真冬になるとマイナス10度が普通ですよ。それに比べると知多半島は南国ですね」。

参った! マイナス7度の地からプラス3度の場所の来れば、そりゃぁ暖かいわけだ。しみじみと日本の広さ、同時に文化の違いも感じたのである。

茅野市はスピードスケートの小平奈選手の地元。町では世界新記録更新の度に湧き上がっているという。だからあまり寒くない? まさか!

確かに、こんなことがあった。
史跡公園で現地を見学の後、鴉根区民館に移動して、西が「亀三郎と救済事業」をミニ講演するのがお決まりのコースなのだが、その講演中、茅野市の方々にエアコンの暖房が強いと言われて風を弱める一幕があった。
こちら半田の面々は「寒いのに~」という顔だった。

きょうはちょっと珍しいご報告まで。

2017.12.09

 『幸せの風を求めて 榊原弱者救済所』重版

ファイル 387-1.jpg

 弱者救済所を書いた『幸せの風を求めて』(新葉館出版)が重版できた。ありがたいことです。
初版が平成22年5月、改訂版が平成25年3月、そして平成29年11月に重版、7年越しの快挙?! です。
 物書きとして自分の本が増刷できるのは本当に嬉しいもの。しかしこれはぼくの力ではなく、榊原亀三郎翁の偉業にみなさまの心が動かされているのだ。それを忘れてはいけない。

 重版は多少の加筆はあるがほぼ前篇のもの。但し、「追章」は書き下ろし。
 さらに増刷になれば嬉しいが、あと何年先かな。

2017.07.27

 『塀の中の中学校』

ファイル 377-1.jpg

 半田保護司会が「社会を明るくする運動」の一環として、映画『塀の中の中学校』上映会を開いた。更生保護活動に理解を求めるための企画だ。アイププラザ半田で行われ300人ほどがご来場。
 ぼくは先日「社明運動」の講師に呼ばれた際に誘われたこともあるが、もとよりこの作品を観たかったから喜んで参加した。

 受刑者の中には何万人も義務教育を卒業していない人がいる。
 「卒業していない人」でなく、「卒業できなかった人」や「中学にも通えなかった人」がいるということだ。
 そんな人のために「塀の中の中学校」がある。
 長野県松本市にある「松本少年刑務所」の中に実在する、公立中学校「松本市立旭町中学校桐分校」である。
 映画はその「桐分校」を舞台にした「生徒(受刑者)」と先生との交流を描いたもの。脚本はフィクションだろうが受刑者の実態や舞台はノンフィクション。心に迫るものがあった。

 罪を犯した者に多額の税金を費やして中学教育を受けさせることの賛否が以前、議論されたことは覚えている。
 それは税金のムダ使いだ。それが更生に繋がると思えない。犯罪を犯すから中学も出られないのだ。
 ー反対派の意見は概ねそれだ。
 ー賛成派は「教育の機会均等」「犯罪者にも人権はある」「義務教育は国民の義務だ」。

 難しい問題だが、犯罪はすべて自己責任か否かで変わってくるだろう。
 
 最近、食えなくなった老人がわざと罪を犯し、刑務所に入るということがニュースなっていた。刑務所では野宿もないし、3度のめしは保証されるからだ。
 ガンを患った男が犯罪を犯し、刑務所に。医療刑務所で治療をしてもらうという事件! もあった。

 考えさせたられる事案だ。
 これを聞いて「日本はいいな」と言った人がいたが、日本はいいのだろうか、それとも塀の外は暮らしにくい日本になったのだろうか。

 『塀の中の中学校』を観ながらそんなことを考えていた。

 上映中、会場からすすり泣きの声が何度も聞こえた。笑い声も何度もあった。スクリーンの中は塀の中。この笑いや涙が更生保護や社会病理の理解に繋がれば、と、ぼくは偉そうにも思ってしまった。
 それはどうしてもこの手のドラマなどを観ると榊原亀三郎を思ってしまうからだ。
 
 それにしても大滝秀治の演技は凄い。オダギリジョーや渡辺謙もよかった。

2017.07.07

 社会を明るくする運動

ファイル 375-1.jpgファイル 375-2.jpgファイル 375-3.jpgファイル 375-4.jpg

 67回「社会を明るくする運動」の第3回半田市推進委員会に呼んでいただいた。
 半田市保護司会や更生女性会、協力雇用主会などが中心で半田の公官庁、政経済界が参加する大きな会である。この日は120名のご参加とのこと。会場を見渡すとこの地方の名士の顔もある。

 「社会を明るくする運動」とは犯罪や非行を防止し、罪を犯した人の立ち直りを支えるのが目的の会だ。
 もとは戦後の荒廃した中の昭和24年に孤児や犯罪者が溢れる東京・銀座の商店街の人たちが、明るい街を取り戻すため、犯罪のない銀座をつくるために始めた運動「銀座ファエ」が始まりという。その民間活動が公的に引き継がれ、今年67回という。半田は3回というからかなり後発だ。
 
 半田委員会の講演。
 ぼくが講師に呼ばれた。
 絶対に言ってやろうと思っていた。
 「社会を明るくする運動は昭和24年に始まったのではない。その50年も前に半田で始まっていたのだっ!。榊原亀三郎という人が明治32年に半田で始めていたのだっ! みなさん! ご自覚召されッ!」。
 
 るる言うまでもなく、今の半田市鴉根の丘に亀三郎が造った弱者救済所は、街に棄てられた幼い子どもたち。赤貧ゆえ家を追われた老人、身障者。出獄したが帰る家のない刑余者。そんな人たちを私費で救済・保護した民間施設だ。
 「半田の誇るべき史実なんですよ!」。「みなさん、もっとこの救済所保存活動に協力してください」と言いたかったのだ。

 45分、熱演したつもりだ。
 会場に120人の方がいた。どなたも半田市では社会的地位の高い人たちである。
 「鴉根の弱者救済所跡に行かれたことのある方、挙手をお願いします」と訊いてみた。
 贔屓目に見て20人ほどが手を挙げた。保護司さんを含んでこの数だ。さびしい限りだが、これが現実なのだ。
 がんばっていくしかないが・・・。

 ともあれ「社会を明るくする運動」の嚆矢は半田・鴉根にあり、と自画自賛しておくしかなかろうか。

*写真の右端は当日のレジュメ。半田が発祥と見栄を張った。

2017.05.20

 弱者救済所跡・史跡公園に89名

ファイル 370-1.jpg

 名古屋市千種区の民生委員・児童委員のみなさんが榊原弱者救済所跡を視察に来られた。なんと89名の団体である。史跡公園の視察団としてはこの人数は新記録。保存会のスタッフの慌てること慌てること。
 というのは事前の申し込みは80名だった。一同は史跡公園を見学の後、鴉根区民館で西まさるのミニ講演を聴いていただく流れだ。その区民館のホールは机を並べると72席がいっぱいなのだが、何とか詰め込んで82席を作っていた。そこに一報、「委員が89名、市の担当者が数名です」。
 大慌てで90数席を用意した。

 満員のホールは熱気もあった。また、今回は保護司会ではなく民生委員の会であったことも嬉しい。
 こうして榊原亀三郎の偉業が全国に知られてゆくことは意義のあること。がんばっていく。

2017.05.16

 日本福祉大学が弱者救済所跡を学びに

ファイル 369-1.jpg

 日本福祉大学社会福祉学科の学生28人が鴉根の榊原弱者救済所跡史跡公園へ。フィールドワークである。
 愛フルタウン見学、救済所跡地見学の後、鴉根区民館で「榊原亀三郎と救済所の意義と実際」を60分。西まさるが話した。

 学生は大学生というものの1年生。ちゃんと聴いてくれるのかという心配があった。と言うのも3年ほど前にぼくは、福祉大の付属高校に呼ばれ、同じテーマで話したことがある。2年生がたしか150名ほど。その日の体験は思い出しても逃げ出したくなるものだった。
 まず先生がぼくを紹介してくれた。その時間は凡そ5分ほど。そして「西まさる先生どうぞ」と言われ、ぼくが壇上に上がる。
 目を疑った。前列、2列目、3列目。ほとんどの生徒が眠っている。机に顔をうつぶせて眠っている。誰も壇上のぼくを見ていないような雰囲気だ。
 まだ、ぼくが話を始める前でこれだ。ああ~、どうすればいいのだ。
 先生方が席を廻り、生徒を揺すって起こそうとするが熟睡する子は起きようともしない。
 それからぼくの魔の50分が始まったのであった。

 そんなトラウマがあったので、この日も怖かった。
 しかし、さすが福祉を志して福祉学部に入った学生たちだ。28名のうち25名はしっかりと話を聴いていた。あっぱれ!
 中の数名は目が光っていた。学ぼうとする目だった。熱心にノートもとっている。ぼくが緊張したほどだった。
 55分の講義を終え、質疑応答の時間を持った。
 4人の学生の質問を受けた。どれも鋭い。福祉問題の核心を突く質問だった。
 「福祉と保護の境界線はどこか?」。
 「児童虐待としつけの区別はどう見分けるのか?」。
 「差別する心についての見解は?」。

 おいおい、ぼくにそんな難しいことを訊くなよ・・、と思わず言いたくなる時間だった。逆に勉強になった。
 福祉大福祉学科1年生。鉄は熱いうちに打て、じゃないが、福祉に対する意欲のある今こそ、大いに学んでほしい。心底、そう思った。

2017.01.26

 法務省局長が榊原弱者救済所跡を視察に。久々の賑わい。

ファイル 360-1.jpgファイル 360-2.jpg

久しぶりに半田市鴉根の丘が賑わった。
なぜ賑わった?
亀三郎の偉業に触れようと、人々が集まった?
ちゅうちゃう、違う。
霞ヶ関から偉いさんが来たから、それを目当てに人が来た。

こんなことでもないと弱者救済所跡などに人は来ない。
更生保護やら福祉やら、そんな金にもならんことには関わりになりたくない。それが多くの人の心のようだ。まことに淋しいことだが、それは理解もできるし、同情もできる。残念だけどね。

さて、
霞ヶ関の偉いさんって誰れ?
法務省保護局長、畝本直美氏。更生保護行政のトップ。検事正。怖くて偉い人なのである。しかし嬉しいことに、この人がなんと、若くて美しい女性なのだ。

凄いことを聞いた。
全国の都道府県に一つづつ検察庁がある。北海道だけは4つあり、全部で50の地方検察庁があり、そこのトップが検事正である。その50箇所の検事正のうち女性はたった3人。高知、熊本、島根とのこと。
彼女は保護局長に就任する前は、その高知県のトップ。全国で3人のうちの一人である。
検事正の仕事はよく分からないが、怖い顔で犯罪者と犯罪を吟味するのだろう。

ところが今日の畝本局長は違った。優しい顔でニコニコと榊原弱者救済所史跡公園を視察してくれた。
そして、ぼくと会った瞬間、「あなたが西まさるさん! 本を読みましたよ! DVDも観ましたよ!」と言ってくれた。

これは何より嬉しい。あっぱれ! 

ぼくが史跡公園の説明者に指名された。
冒頭、ぼくは局長に「こんなことでもなければ人々は弱者救済所や福祉施設に来てくれません。あなたは人寄せパンダになって、どんどんPRの片棒を担いでください」と嫌がられるかな、と思いながら言ってみた。
局長は少しも嫌な顔もせず、にっこりと微笑みながら大きく頷いた。

一瞬、鴉根の丘に幸せの風が吹いた。

 *青色のスーツが保護局長。写真はあえて美人の顔が見えないものを掲出した。見たければ現地においで。

2016.09.23

 能登はやさしや土までも

ファイル 345-1.jpgファイル 345-2.jpg

 9月15日、榊原弱者救済所跡を視察に訪れたのは石川県羽咋市保護司会のご一行17名。昨年来、愛知県下の各地や静岡県の数カ所からはおみえいただいたが、石川県からは初めてのご訪問である。
 羽咋(はくい)といえば能登半島の中程、まさに遠路ご苦労様ですと申し上げたい。

 ご一行は現地を視察。その後、鴉根区民館に移動。ぼくが「榊原亀三郎と弱者救済事業の苦労と実績」のような話をさせていただく。そして、拙書『幸せの風を求めて』や絵本『いばりんぼうのカメ』、DVD『榊原亀三郎物語』などをお買い上げ願うように必死に啖呵売! 
 それがいつものスタイルである。
 おっと、誤解のないように申し上げる。本の売り上げは榊原弱者救済所保存会の活動資金となる。ぼくの利益では決してない。
 弱者救済事業は辛くて金にはならないのだ。昔も今もそうなのだ。・・・それでいいのだ! 念のため。

 さて羽咋の皆さまを前に講演する時、危なくも目頭が熱くなった。
 実はぼく、石川県金沢の出身。能登の羽咋や七尾、輪島にも馴染みがある。親戚もある。ご一行の会話には懐かしい故郷訛りがいっぱいだったからだ。

 能登地方はこう言われている。
  「能登はやさしや土までも」。
 「土」は地面の土でもあるが、人間の根幹との意味だろう。裏も表も優しいということだ。つまり、他人への気遣いができて、人情味豊かな人が多いのが能登である。
 なぜ?
 昔々、妻の優子と金沢へ向かった汽車の中でのことである。冬の日だった。加賀平野は一面の雪景色。雪の平野の中に、ぽつんぽつんと家が建っている。ぼくには見慣れた故郷の光景である。
 それを車窓から見て優子は、
 「この地方の家々は近所と仲良くしていかないと暮らせないね。自分勝手な人じゃ生きていけないね」。
 こんなに深い雪に閉ざされた日々では、近所が助け合っていかないと暮らしが成り立たないだろうと、しみじみと言うのであった。
 彼女の見ているのは加賀・金沢の景色だが、能登の冬はさらに厳しい。隣の家に行くのさえも大変な日もあるし、風雪で村が陸の孤島になってしまうのも珍しくはない。

 だから、厳しい自然の中で生きるためには、他人を気遣い、また、他人と手を取り合っていなければ冬将軍には太刀打ちはできないのだ。

 「能登はやさしや土までも」。

 日本中がそうあって欲しいとつくづく思う。
 そんなことを思い出させる一日であった。
 

ページ移動