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2012.11.25

 豊田佐吉記念碑保存会 創立総会挙行

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 いよいよ保存会を設立できた。
 11月23日アイプラザ半田。
 トヨタ自動車本社からも幹部が出席。トヨタ関連会社のお歴々も。
 主催者側は、半田市長ら市の幹部、商工会議所、半田ロータリークラブはじめ半田市の老舗企業、商店主。これらの方々が「佐吉翁の記念碑と佐吉の精神」を守り、活用してくださる。

 国土交通副大臣・伴野豊さん、愛知県議・近藤良三さん、堀嵜純一さんも来てくださった。また、伊藤忠彦元衆院議員も。
 半田市議は山本博信さん、久世孝宏さん。

 それと嬉しい事は、「はんだ郷土史だより」などを見て、今回初めて参加するといった方が数人。これは想定外の喜びだ。輪が広がっている。

 3時30分より、真面目な総会。
 記念碑建立世話人会の事業報告と会計報告、監査報告も済み、建立世話人会はこの日で正式解消。保存会がスタート。
 保存会の会長は加藤文雄さん。(写真)

 5時より懇親会。
 ワイワイガヤガヤと懇親。
 なんと、「六甲おろし」の大合唱が。
 ドラゴンズファンも「♪お~お~ タイガース!!♪」

 こうして保存会は世界に羽ばたくのである!

 
 *添付は11月24日、中日新聞朝刊。クリックしてお読み下さい。

2012.11.14

 豊田佐吉記念碑保存会 創立

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 この5月12日「豊田佐吉翁発明 動力織機発祥の地」記念碑が半田市乙川に建立された。
 知多信用金庫前という立地条件もよく、見学者が絶えない。

 先日、たまたま碑を見に行ったら、黒塗りのレクサスが止まり、スーツ姿の2人の紳士が降りてきた。
 記念碑の見学である。
 聞こえて来る2人の会話の内容から、トヨタグループの人だった。

 「私が…」と言いたかったが止めた。

 すると先方が「すみませんがシャッターをお願いできませんか」とカメラを出してきた。
 佐吉記念碑をバックに2人を撮った。

 「知多信の店内に佐吉のコーナーがありますよ」と教えると、2人は店内に入って行った。

 *添付写真はこの記事の時のものではありません。

      ◆
 記念碑の保存会、「佐吉記念碑保存会」を立ち上げる。
 設立総会を11月23日(金・祝)のアイプラザ半田で開催する。
 半田市長ら市の名士、トヨタさんからも幹部がご来会の予定。
 参加のご希望者は事務局にご一報を。
 案内状を急送する。

 お待ちします。

2012.04.03

 藤八家、一つの家に二つの苗字

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藤八小話②  
「現在の石川藤八家の御当主は松本さんです」と言うと、大抵の方は怪訝な顔をする。苗字が違うのであるから当然かもしれない。七代目石川藤八、本名松本市松が藤八家に養子として入った時点で、藤八家の中に石川姓と松本姓の二つの姓が同じ家の中に存在することになった。
 いくら明治の時代とはいえ、それ程あることではないだろう。七代目藤八には「たき」という一人娘がいた。この娘に西尾から婿をもらった。生まれた娘を三祢(みね)と言った。もちろん松本三祢である。しかし、婿が三年足らずで亡くなってしまった。そのため、もう一度「たき」に鷲津から婿をもらった。婿は六代目夫人きくと養子縁組して石川姓となった。生まれた娘が「八重」である。当然、石川八重である。
三祢が成人して亀崎から銀三という婿をとった。男の子一人女の子一人の3人の子供が生まれた。苗字は松本である。しかし、幼い3人の子供を残して三祢が他界してしまう。そうすると、松本銀三は三祢の妹石川八重と結婚し石川銀三となった。男の子が一人生まれた。その八重も子供を生んで一年後に亡くなってしまった。
石川藤八家の実権は九代目夫婦ということになった。十代目予定の銀三の立場は微妙なものだったと思われる。
 そして時代はくだり、三祢の長男である松本信司氏が石川藤八家を継いだ。現在の御当主は信司氏の長男宏司さんである。この下手な文章で関係性をすべて頭の中で組み立てられる人は尊敬に値します。
* 写真は藤八の娘たき、佐吉の長男喜一郎、佐吉の妻浅子の乳母である。
しかし、謎の多い写真である。たきは養子の八代目藤八に亡くなられて半年、一歳三ヶ月の娘を持つ21歳の母。写真の場所は名古屋市上茶屋町。若い娘のように見えるが丸髷を結っているので既婚者と分かる。失意の写真なのか、名古屋で気分転換なのか。

2012.03.22

 謎の多い尾鷲からやって来た藤八

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藤八小話①
 藤八坊ちゃまは謎だらけの子供である。わずか13歳で石川藤八家に養子として入ると同時に、七代目藤八を直ちに相続しました。藤八の養父は稲生さん。養母は松本さん。出身は尾鷲。本当のお父さん、お母さんの名前は分からない。何なんだこれは。謎に満ちた生い立ちである。そして、終生、本名は松本市松のままなのである。彼の顔は海の男の顔だろうか、それとも高貴な人の落とし胤の顔をしているだろうか。
 早くから家を継いだのだから、後継者を期待して早く結婚したかというと、この時代としては晩婚の32歳。しかも嫁さんは一歳年上の33歳。それも六代目の妻、すなわち義母の姪である。七代目藤八は運が良い生涯だったのか、周りの大人に振り回された生涯だったのか、さっぱり分からない。
 藤八の結婚は明治29年である。それは佐吉が後妻の浅子と暮らし始めてしばらくの時期である。藤八は佐吉に刺激を受けたのだろうか。うらやましく思った藤八に義母は渡りに船と行き遅れの姪を押し付けた。うーん、ありうるかも。これは我ながら面白い発想だ。
* 写真は七代目石川藤八こと松本市松

2012.03.11

 佐吉先生は引っ越し魔?

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佐吉小伝⑩ 
佐吉青年は遅く来た反抗期なのか、二十歳頃に山口村の実家を飛び出して東京へ行ったり、横須賀へ行ったりしました。まだ飽き足りなくて豊橋の叔父さんち、尾張、知多の機屋(はたや)さんちでの居候も経験しました。東京浅草外千束での結婚生活は長続きせず破綻。その後は豊橋、名古屋、知多郡乙川村と次々と住む所を移しました。
 発明家としてデビューした後の佐吉先生は、名古屋市内を分かっているだけで11回も転居しました。その中には今の名古屋駅前、ミッドランドビルのある場所に工場兼住居を建てたこともあったのです。
 これで落ち着くかと思えた佐吉大将は本気でアメリカに住むことを考え渡米しました。その考えも一段落したように思えた佐吉大将は全員の反対を押し切り「障子を開けてみよ、外は広いぞ」と言って中国大陸は上海へと行ったのです。佐吉青年から、佐吉先生、佐吉大将まで生涯で30回を越す引っ越しをしました。ちなみに、佐吉の後半生はみんなから「大将」とか「大大将」とか呼ばれていました。
 葛飾北斎は93回、ベートーヴェンは80回の引越しをしたそうである。それと較べると佐吉大将、回数は負けています。だが、片や芸術のため、片や発明のためには住居などはどこでもいいということなのでしょうか。
* 写真は、今はそのなごりもない佐吉大将の名古屋長塀町の邸宅

2012.03.07

 佐吉先生は何度でもだまされる人

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佐吉小伝⑨
従兄弟の森米治郎と親戚の伊藤久八が企てた鉄道の枕木を陶製でつくるというトンデモ話に佐吉先生は乗ってしまいます。糸繰返機での儲けが淡雪のごとく消えました。そんな伊藤久八に、豊田代理店伊藤商店というおかしな名をつけた店をまかせました。結果は久八の使い込みというものでした。
藤八の援助で発明家としてデビューした佐吉を三井物産は井桁商会の技師長として招きました。はっきり言えば利用でしょうか。そして、発明至上主義の佐吉先生は利益優先の三井とは全然合わなくて、怒って止めてしまいました。
次に、三井は豊田の名前を入れた国内最大級の「豊田式織機株式会社」をつくり、またしても佐吉先生の勧誘にまんまと成功。だが、発明だけが命の佐吉先生は、再び三井の思惑とぶつかってしまいました。今度は、三井の方が佐吉先生の首を切ってしまいました。
ところが、佐吉先生は懲りないのです。長年の夢である中国大陸への進出に対して、またも三井のバックアップ(陰の声、そそのかされて)で上海へ進出。だが、これがなんと大成功。人間というものは幾つになっても懲りないものであるが、夢を追い掛けることも大事なのでしょう。天才には。
* 写真は豊田佐吉先生の上海のお宅です。この大邸宅が大成功の証拠です。

2012.03.03

 佐吉は毎夜、錦三の常連

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佐吉小伝⑧ 
佐吉先生はお酒が大好きでした。タバコは敷島というように、好きな酒の銘柄が伝わっていないところをみると、何でも良かったんでしょうね。だが、佐吉先生の酒の量はすごい。一升飲んでも二升飲んでも形を崩しませんでした。うそではありません。「豊田佐吉傳」にちゃんと書いてあるのですから。
 佐吉先生はどうも一人ではあまり飲まなかった。いつも石川藤八、服部兼三郎という仲間といっしょだった。名古屋でいつもくり出す定宿が富澤町4丁目の「花月」。二日でも三日でも泊り込み、腰を据えて飲んだというから、三匹の「うわばみ」というところか。
 富澤町4丁目は今の三菱東京UFJ銀行名古屋店。めんどくさいね、旧東海銀行本店の東のあたり。そうです。お父さんたちが大好きな錦三です。佐吉先生、藤八だんな、服部若社長が錦三で大酒をかっくらっていたのです。しかし、お父さんたちと違って上司や女房の悪口などは決して言いません。「わが国を良くするには、立派な織機を・・・」と言いながら飲んだんですぞ。
* 写真は明治43年の広小路通り栄町、「名古屋広小路ものがたり」より(佐吉たちが飲み歩いていた頃、結構にぎやかです)

2012.02.26

 歩く歩くどんどん歩く佐吉

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佐吉小伝⑥ 
佐吉少年はとにかく歩いた。12歳の時は故郷の山口村から岡崎の岩津天満宮まで、丈夫な体になるようにと祈願のため歩いた。直線で約50km、往復では徒歩で150km以上はあるだろう。こんなに歩けられれば健康は太鼓判である。19歳の時には、これは江戸時代じゃないかと思うような話がある。東京まで徒歩で往復している。その時は東海道線がまだ全線開通していなかった。だが、もし開通していたとしても、そんなお金がなかったので歩くしかなかっただろう。
尾張各地に残る話も、青年佐吉がふらっと歩いてやってきて、しばらく滞在した後に歩いて名古屋方面に帰っていったというものである。稲沢には青年佐吉が北の方から歩いてやって来て、四辻の角の石に腰を掛け一服したというものまである。
もちろん、青年佐吉の財布には充分なお金が入っていなかったので歩くしかなかったのが事実に近い。佐吉は、ともかく歩くことが好きだったのだろうか。発明が好きだったように。
* イラストはポプラ社「豊田佐吉」より、佐吉が友達の佐原五郎作と東京へ行った時のイメージ

2012.02.15

 佐吉のおじいちゃん

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佐吉小伝④ 
佐吉のお父さんが佐原姓であったことに、疑問を持たれている方がおられるようです。ぜひ、そういう方は「はんだ郷土史往来2号」に詳しい系図を載せてありますので、お買い上げをお願いします。
佐吉のお父さんの伊吉は次男、長男は佐六、三男は伊平と言う。この兄弟の父、すなわち佐吉のおじいちゃんは佐原佐平、その上のひいじいちゃんは佐原兵蔵と言い、代々佐原姓です。
伊吉の兄の佐六が佐原本家を継ぎ、三男の伊平は市場地区の佐原兵衛家へ養子に行き、やはり佐原姓を名乗ります。佐吉の父の伊吉のみが豊田吾吉家の新家を引き継ぐ形で豊田姓を名乗ります。
佐平じいちゃんの職業までは分かりません。だが、佐吉のお父さん伊吉が大工を始めたことは確かであるので、おじいちゃんはおそらくお百姓さんだと思います。このおじいちゃんで唯一分かっているのが、生年と没年である。1811年(文化8年)生まれで亡くなったのが1897年(明治30年)、実に満86歳である。
 ということは、佐吉が乙川で力織機を発明したころまで、健在だったということです。残念ながら、この長命の佐平じいちゃんについて書いた書物は全くないようです。
* 画像が悪いですが、この人が佐平じいちゃんです。

2012.02.12

 佐吉の妹はかわいいおばあちゃん

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佐吉小伝③ 
佐吉には“はん”という妹が一人いる。十九で嫁ついだため、佐吉の伝記で取り上げられることはほとんどない。だが、嫁つぎ先の牧野家に伝わっている話がある。「佐吉は先妻たみに愛想をつかされて、出て行かれてしまった。そのため、残された実子喜一郎と実母たみは会うことができなくなった。この時、牧野家が二人を内緒で会うことができるように手配した」と伝えられている。妹“はん”と牧野家の人達のこころねのやさしさが伝わってくる。
“はん”についてのエピソードがもうひとつある。「ある時、“はん”は田舎の鷲津からはるばる名古屋の佐吉の工場を訪ねてやって来た。だが、門番はこんな田舎のばあさんが、大きな工場に用があるとは思わなかったので、追い返そうとした。すると、この田舎のばあさんが社長の妹さんだと知ると、途端に恐縮して案内をした」という話である。
添付した写真をみればご納得いただけると思う。日当たりの良い縁側にちょきんと座ったおばあさんが、“はん”さんである。昔はこんな可愛らしいおばあちゃんがどこにでも居たと思うのですが。

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