記事一覧

2018.04.17

 亀三郎まつり挙行

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4月8日 亀三郎まつり挙行。
紹介が遅きに失したので、中日新聞の記事を添付してこれに代える。ごめんなさい。

2018.03.23

 榊原弱者救済所保存会総会

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 榊原弱者救済所保存会ができて4年目となる。
 半田の鴉根の丘に、30年に亘り1万5千人もの社会的弱者を救済、保護した施設があった。日本初、日本最大の民営の弱者救済所である。
 こんな劇的ともいえる事業が現代社会では知られることも、賞賛されることもなく眠っていた。
 不思議なことだ。

 まあ、それは良いとして、今はこうして保存会もある。
 半田市、半田保護司会、はんだ郷土史研究会、鴉根区。その四位一体となって運営する会はようやく2回目の総会を迎えた。

  ぼちぼちでもいい、地道に続けていきたい。

 *写真は総会の模様。壇上で挨拶するはんだ郷土史研究会・会長の蟹江正行。

2018.03.05

 矢勝川の環境を守る活動

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 2月の例会は「矢勝川の環境を守る活動について」を守る会の代表・榊原幸宏さんをお招きしてお話を願った。
 もうすっかり半田名物、半田名所になった「彼岸花の矢勝川」。南吉の里と相まって季節になると早朝から夕刻まで見物客で広い川岸、堤防に人が溢れている。

 この彼岸花は現在、阿久比側のものも含めると300万本とのこと。凄い数だ。この活動、現在は半田市など「官」の協力もあるが、もともとはまったくのボランティア。小栗大造さんという方が一人でボチボチ始めたのが初めである。

 そう言えば、ぼくが半田市民になった10数年前、この矢勝川と彼岸花について、悪口がいっぱい聞こえていた。
 「彼岸花は葬式の花。縁起が悪い」、「南吉は葬列の描写で彼岸花を書いている。知らないのか!」という正論的な攻撃!
 「彼岸花には毒がある。子どもが口に入れたらどうする!」、「あんなものを堤防に植えたら堤防が弱体化する!」というチンプンカンプンな攻撃。
 「小栗大造は自己顕示欲でこの活動をしている。公共の堤防を利用するな!」という嫉妬とも嫉みいえる言葉。
 そんなものが耳に入っていた。

 そんな悪口、陰口を小栗さん、榊原幸宏さんが知らないわけではないだろうが、ここまでコツコツと進めて来られ、今はもうこの活動の悪口を言う人はいない。

 幸宏さんが講座でこう言った。痛快だった。
「さんざん悪口を言われていることは知っていた。でも数年前からその連中と力関係が逆転した」。

 それを聞いて、ぼくは「はんだ郷土史研究会」のことを連想した。当会はまだ悪口・陰口の対象だ。いつか力関係が逆転する日が来るのだろうか……。来ないだろうな。

 ちなみに小栗大造さんは昨年11月にご逝去。遺言により誰にも知らせず、葬式もしなかった。そして、ご遺体は名古屋大学に献体された。それをみても自己顕示欲などまったくない人だったことが分かる。

 ぼくもそうしようかな。できるかな。と思っている。

2018.01.23

 全国で三番目に古い万葉の歌碑を建てのは陰陽師

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秀吉に追われた陰陽師の一族が少なくとも600人以上(記録にあるのは127人)が木曾三川の沿岸部(清洲が拠点)に来て、秀吉の指示で護岸工事などに従事していた。
その後、木曾三川沿岸から今の名古屋市港区、知多市、東海市、安城市の周辺に移住して根付き、村落を形成して栄えていった。
陰陽師は「博士」。相当に優秀な頭脳をもち、天文、土木などあらゆる知識や経験も豊富だったことは知られていることだ。
その証拠ともいえる一つが写真の歌碑だ。
 東海市高横須賀町諏訪神社にこの万葉の歌碑を建立したのは陰陽師・吉田定興である。

   「年魚市潟 塩干家良思 知多乃浦」
    年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ
 
 文化15年(1818)の建立のものだ。
 碑の裏面に「文化十五歳春吉田定興建之并書」とある。この吉田定興とは、「この近くに住んでいた陰陽師(=東海市史)」というが、よく調べると諏訪神社の境内に、諏訪神社と吉田家の境界を示す石盤があった。それから考えれば神社と彼は一体だったとも思える。
 もっと驚くべきは、この万葉の歌碑としては全国で3番目に古いものである。まだポピュラーでなかった万葉集の中から「年魚市潟=知多の浦」をピックアップして歌碑を建てたのだ。
陰陽師の教養の深さが偲ばれる。

 知多半島の幾つもの村の村長や庄屋を務めている陰陽師。彼らが豊かで勉学も好む知多半島の文化を創ったのかもしれない。そう思っている。

*写真左は新しい万葉の歌碑。その右に文化16年に建立した古い碑がある。写真右はその全体。

2017.12.28

 成岩城の戦い

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『はんだ郷土史だより』1月号で成岩城と成岩城(ならわ・じょう)の戦いを紹介した。
この記事を書くため取材をしていて、ちょっと驚いた。地域の重要な歴史で誇りでもあるべき城の存在を意外なほど地元の人が知らなかったからだ。それも一般の人なら分かる。でも地域の名士や元教師も知らなかったのだ。
 特に隠すことでもない。城跡には立派な「成岩城址」の石碑も建っている。これが地元に人に知られていないことのほうが不思議だ。
 天文年間(1520~)は戦国時代の最中。成岩の村民は村を守るために城を建てた。しかし、城は建ったが城主はいない。そこで村民は他の地方から城主を呼んで来た。いわば城主を雇ったのだ。

 これも面白い。まるで「七人の侍」の発想だ。

 そしていよいよ戦である。
 緒川の水野氏が半島制覇を狙い南下。砦を築き成岩村を攻めんとする。成岩村民は成岩城を築き籠城。両軍は神戸川を挟み一触即発の状態となった。

 さあお立ち合い! 
 その結末は『はんだ郷土史だより』でどうぞ。

2017.12.21

 400年続く旧家・小島家

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12月の例会は新舞子(旧松原村)の旧家・小島家の当主・小島保幸氏を招き「小島家の歴史」をお話願った。
小島家について特筆すべきは、慶長年間から一つの村(松原村)の庄屋を一貫して同家が務めていたということである。これは他の村々ではそう例のないことだろう。
普通は一つの村に数名の有力者がいて、その有力者たちが交代で庄屋や名主を務めている。だから交代の度に村の史料や記録が各家に移動する。その度に紛失も起こる。だが、松原村は小島家から庄屋が動いていない。だから村の史料や記録は動いていない。慶長15年の検地表も江戸後期の検地表も同家にそのまま保管されているのだ。

先日、小島家を訪問、江戸時代の蔵の中を見せてもらった。江戸前期の記録がそのままあるのに感動した。

同家の蔵に古い食器や茶器などが仕舞われていた。どこの蔵にもみる光景だ。しかし、その並べられた食器の下に敷かれているのが国芳や歌麿の浮世絵だったから驚いた。
それを発見した小島さんは浮世絵を回収し、色の褪せていないものは表装。色褪せや破れのあるものつなぎ合わせて壁に貼っていた。
それらを今回の例会にお持ちいただいた。
写真がそれである。

古い史料も面白いが、食器の下敷きの浮世絵も面白い。
これらも400年以上も続く旧家ならではの面白さなのだ。

2017.12.17

 マイナス7度の茅野市。プラス3度の半田市

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榊原弱者救済所跡の視察に遠く長野の茅野市からおいでいただいた。12月13日のことである。

当日、半田市はこの年一番の寒さ。朝の気温は3度ほどだった。「お~さぶっ」と茅野市のみなさんを待った。きょうは半田市更生保護女性会の菊岡小代子事務局長も来てくださっている。吹きさらしの史跡公園は寒い。

菊岡さんも「寒い~」とぶるぶる。マフラーぐるぐるで茅野市のみなさんを待った。

観光バスが到着。37名が降りて来られた。

「寒いでしょ」と榊原弱者救済所保存会の田中清朗会長。

「暖かいですよ。ここは」と茅野市の方。

「えっ! 暖かい?」

「今朝、私たちの茅野市はマイナス7度でした。真冬になるとマイナス10度が普通ですよ。それに比べると知多半島は南国ですね」。

参った! マイナス7度の地からプラス3度の場所の来れば、そりゃぁ暖かいわけだ。しみじみと日本の広さ、同時に文化の違いも感じたのである。

茅野市はスピードスケートの小平奈選手の地元。町では世界新記録更新の度に湧き上がっているという。だからあまり寒くない? まさか!

確かに、こんなことがあった。
史跡公園で現地を見学の後、鴉根区民館に移動して、西が「亀三郎と救済事業」をミニ講演するのがお決まりのコースなのだが、その講演中、茅野市の方々にエアコンの暖房が強いと言われて風を弱める一幕があった。
こちら半田の面々は「寒いのに~」という顔だった。

きょうはちょっと珍しいご報告まで。

2017.12.09

 『幸せの風を求めて 榊原弱者救済所』重版

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 弱者救済所を書いた『幸せの風を求めて』(新葉館出版)が重版できた。ありがたいことです。
初版が平成22年5月、改訂版が平成25年3月、そして平成29年11月に重版、7年越しの快挙?! です。
 物書きとして自分の本が増刷できるのは本当に嬉しいもの。しかしこれはぼくの力ではなく、榊原亀三郎翁の偉業にみなさまの心が動かされているのだ。それを忘れてはいけない。

 重版は多少の加筆はあるがほぼ前篇のもの。但し、「追章」は書き下ろし。
 さらに増刷になれば嬉しいが、あと何年先かな。

2017.09.20

 伊勢湾台風の体験談を聞く会

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 昭和34年9月26日に伊勢湾岸を中心に大被害をもたらした巨大な台風「伊勢湾台風」。死者行方不明は愛知県で3300人近く、半田市だけでも291人に及んだ。
 55年も前のことだが、人々の脳裏にこの大惨事の有り様は消えないようで、「体験を話したい。体験を聞きたい」との声が多く、この会を企画した。
 9月の例会は9月17日(日)。何と台風が九州に接近、これも記録的な大きな台風だ。困った、会は出来るのか。
 前夜、前々夜からろくに寝られない。テレビの台風情報ばかり見ていた。というのも当会はちゃんとした会員制をとっていない。連絡網もない。もし、会が中止となっても通達手段がないのだ。

 ところが、日ごろの行いの良いぼくたち。天が味方して台風を九州で足止めしてしてくれた。
 当日は曇天微風、傘もいらない天気に恵まれた。
 さすがに大阪からご参加予定の方や、蒲郡からお越しの方は帰路が心配だからとご欠席。それはやむを得なかったが60名ほどの方で「伊勢湾台風の体験」を話し合った。

 その模様は『はんだ郷土史だより』でお知らせする。

2017.08.14

 ああモンテンルパの夜は更けて

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 8月15日、終戦の日である。
 この日が近くなると新聞もテレビも「戦争」を採り上げる。 
 この日が近くならないと採り上げない・・、などと悪口を言うつもりはない。歴史は、戦争は、語り継がねば忘れられてしまう。まして日本国民の大多数が「戦争を知らない子どもたち」ばかりになった今。マスコミはぜひ、語り継いでほしい。

 先週、中日新聞の記者が取材に来た。
 そういえば昨年も来た。
 一昨年はNHKが取材に来た。
 ぼくの所に何があるわけでもないのに、戦争の生き証人が少なくなっているから、『中島飛行機の終戦』を書いたぼくは数少ないネタ元の一つなのだろう。
 取材する記者さんも戦争など知らない。取材されるぼくも同じ。観念的な質問、聞き書き、孫引きのような答。そんな繰り返しだ。でも、これでもいい。忘れら去られるより、ずっといい。

 終戦後のフィリピンのモンテンルパ刑務所に108人の死刑囚が死刑執行の日を待っていた。ほとんど全員がえん罪に近いBC級戦犯であった。
 理不尽な死を待つ刑務所に奇跡が起きた。
 歌である。
 「ああモンテンルパの夜は更けて」。
 刑務所内で作詞作曲され、当時の国民的歌手、渡辺はま子が歌った歌だ。この歌が刑務所で歌われ、日本国内でヒットし、フィリピン大統領の心も動かしたのである。

 戦争の悲惨。理不尽。しかしそれを吹き飛ばしたのは歌の力だった。
 文化も捨てたものじゃないと思える実話だ。

 この歌の作曲者が知多の人・伊藤正康さん。彼も死刑囚であった。数年前、彼の留守宅へ行きご親戚に取材し、全容を知った。秘話も聞いた。

 そんな話を8月20日の例会でする。

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