記事一覧

2018.11.29

 榊原救済所に車椅子用の歩道が

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 救済所跡地公園(史跡公園)の清掃を保存会の方々がするというので出かけていった。と言っても、ぼくは清掃をお手伝いする体力もないので、せめてもの罪滅ぼしに缶コーヒーを差入に行っただけだ。
 行ってみて驚いた。史跡公園の最深部に歩道を造っているのだ。それも木製の橋のような歩道をだ。

 近隣の小中学校の遠足のコースにこの史跡公園を入れてもらい、多くの児童、生徒に「亀三郎の偉業」を知ってもらいたい、という働きかけを数年間からしていた。学校はなかなか許可をしなかった。それは公園に来る県道に歩道がなく児童の遠足路としては危険。そんな理由からだった。
 それならば県道を迂回して車の少ない安全な道を通って史跡公園の裏側から来てもらおうという交渉をした。そして、それが認められ、ようやく学校から許可が出た。
 だが、その為には問題が2つ。公園に裏から入るには隣接する上中建築さんの敷地を通り、さらに竹藪の中に歩道を造らねばならない。
 上中建築さんは快く承諾してくれた。そして竹藪の中の細道。こんなものはお茶の子さいさいだろう。たった1メートル幅、長さも10メートルもない。竹を伐ってバラスで足元を固めれば素人でも簡単だ。
 そう思っていた。

 ぼくが公園に着くと、その歩道に板を張っているではないか。まるで小さな細長い橋のようなものを造っている。
 「何をしているのですか」
 「板で足元を固定している」
 「なぜ、そんなことを」
 「児童の中に車椅子の子が1人いるんだそうだ。その子のためだよ」。
 あっぱれ! その子1人のために車椅子でも通れる道を造っているのだ。 あっぱれ! これでこそ弱者救済所・史跡公園だ。これぞ亀三郎の心だ。

 目頭が熱くなる思いだった。

2018.11.23

 11月例会

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 11月例会は「中島飛行機はなぜ半田に進出したのか」を小松文五先生。「日間賀島の黒姫伝説・師崎の玉姫伝説」を西まさるがお話をした。
 小松先生の「中島飛行機・・」は、「なぜ半田に」というより戦前、戦後の軍用機事情とその軍用機の特長や性能を説明するという講座だった。先生は美術の教師だったこともあり、数十機の戦闘機や爆撃機のイラストはさすが、という出来映え。それを見ているだけでも楽しいほどだ。

 「なぜ半田に・・」の論説を小松先生はあえて回避したようだ。
 考えてもみれば戦中の半田市は中島飛行機半田製作所そのものといえる町。当時の人口7万人のうち3万人が半田製作所に働く人。半田市周辺の中小工場の大部分は同社の下請け。商店だって中島抜きでは成り立たない。今でも半田市民の何割かは中島所縁の人のはずだ。

 ちなみに、当11月講座の会場、アイプラザ半田は中島・山方工場のあったど真ん中。その目の前にある半田病院の前身は中島の病院。病院の中庭に中島時代の院長の石像が今も建っている。

 そんな場所で、半田にまるで所縁のない小松先生が半田製作所を語ることを躊躇されたのだろう。
 とは言え、軍用機の話も面白かった。会場の諸氏もそんな雰囲気だった。だれもが平和を願っているはずだが(自分が前線で危ない目をみない)戦争の勇ましい話は大好きなようだ。

 「日間賀島の黒姫・師崎の玉姫」は今度書く。

2018.10.08

 榊原弱者救済所も台風被害

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 10月2日、名古屋市天白区の更生保護女性会のみなさまが36名、榊原弱者救済所跡の見学に来られた。
 先月から3件・3団体がみえている。こうして少しでも榊原亀三郎と救済所の意義が伝わっていくことが嬉しい。

 現地での説明は保存会の前田理事や田中会長。それから鴉根区民館に移動して西が小1時間卓話をさせていただく。これがいつものパターンである。

 この日、現地に行ってびっくり、数日前の大型台風で史跡公園の竹が根元からひん曲がり、すでに赤茶けて枯れそうになっている。
 あの強い竹でも耐えられないほどの強風だったのだ。
 ご覧いただきたい。これでは廃墟だ。竹は丈夫だから蘇生する?
 どうしよう…。 悩みが増えた。

2018.09.19

 小栗風葉あれこれ 9月例会

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 9月例会は小栗忠彦氏をお招きし「小栗風葉」を語っていただいた。
 彼を紹介する際、ぼくは少々感情が高ぶって言葉がかなり走ってしまった。と言うのは、この地方の人にとって文学者の認知度(リスペクト度)があまりにも低いと常々感じていたからだ。
 「半田生まれの小栗風葉という作家は日本を代表するレベルの文豪なのだ! 夏目漱石、徳冨蘆花らと肩を並べる人なのだ! それなのに地元の人は風葉をあまりにも知らない!」と言いたかった。
 今日の講師、小栗忠彦氏を会場で紹介する時もあえてこう言った。
 「小栗さんは風葉の弟のお孫さん。その親戚には梅原猛や小中陽太郎がいる。梅原先生は日本を代表する作家で哲学者。小中先生は作家で人気のある言論人ですよ」
 そしてぼくは、こう毒舌を吐いた。
 「普通ね、都会ならね、小栗風葉の孫で梅原猛と小中陽太郎の従兄弟の人なら、みんなから一目置かれるよ。しかしこの地方ではね……」。
 ぼくも文学者の端くれだから、ちょっとしたジェラシーがあったのかもしれない。ちょと言い過ぎた。

 講座「風葉あれこれ」は良かった。身内ならではの秘話も聴けて貴重だった。また、機会を持ちたい。

 *写真は講演する小栗忠彦氏と風葉関係書籍。

2018.08.20

 8月例会

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 お盆明け。酷暑。良い条件ではないので心配していたが、満席に近い例会だった。
 「大紡績顛末記 その2」は、山口孝司氏。(写真㊨=7月例時のもの)
 「明治38年 内海尋常・高等小学校高等科女子の生活の様子 ー同年盆三日の日誌をもとにー」は、松下孜氏。(写真㊧)
 さらに、小島保幸氏が小島家文書をまとめた「幕末異国船渡来に関する文書」を60冊もお持ちいただき、先着60名に無料配布。その内容などをご説明願った。

 実に中味の濃い8月例会であった。

 松下氏のご発表「明治38年の女子生徒の生活」は実に興味深い。日誌の女子生徒は今でいえば小学5、6年から中学1年生の年齢の子。彼女たちの一日をおおよそ正確に知ることができた。
 この子たちの起床時間はほぼ朝5時。就寝は夜10時だった。ランプの時代なのに夜更かしだ。朝は暗いうちに起きている。
 この子たちの遊び。そして家事の手伝いの様子。日誌だから衒いもなく書いている。掃除や子守ばかりでなく、機織り、桑の刈り取りなども長時間している。遊びは「駆けっこ」「海水浴」。
 ごく普通に感じるが、実に貴重な記録である。
 このような何でもない町屋の記録が後世に残る。そして数百年の後、目を丸くしてこれを読む人がいる。そんなことを思っている。

 大信紡顛末記は7月に続いて山口氏のご発表。淡々と、かつ熱の籠もった弁舌には大信紡愛が迸っていた。
 

2018.07.16

 知多半島は天領だった

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 半田市民憲章講演会に呼んでいただき「知多半島はふしぎな国だった」を講演した。150席が満席。立ち見が出た。嬉しい、ありがたいことだ。
 「知多郡は地理的には尾張国だが行政的には違う。尾張藩札も使えない幕府直轄地。つまり家康の国なのだ」
 と再々、あちこちで話してきた。
 どこで話しても、どうも反応が悪かった。つまり知多半島の人(半田の人は特に)は、「ここは尾張名古屋の支配下にある」と思い込んでいたようだ。だから、ぼくの論説には冷たかった。
 相当に物的証拠を示しても信用したくない、ようだった。

 ぼくは知多半島が尾張国だろうが三河国だろうが、幕府直轄地だろうが構わない。どうぞお好きに、と言いたいとさえ思っていた。

 ところが今回の講演会は反応が違った。ご聴衆の多くが頷いている。頷いているのだ。
 どうもぼくは良い気持ちになって、ノっていたようだ。
 妻の優子は「今日の講演はここ数年で一番良かったよ」と言う。
 ともかくぼくの主張(調査)が通用してよかった。
 「知多半島は家康の国、つまり天領なのである~っ!」。

2018.06.12

 社会を明るくする運動 半田市講演会

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 社会を明るくする運動(社明運動)は昭和24年(1949)に東京の銀座で始まったという。
 当時の銀座は終戦後の混乱で治安が悪く、無法な者が街にたむろして市民に害を及ぼしていた。それに困った銀座の商店街の人達が立ち上がり、地域のチカラで犯罪や非行をなくし、健全で明るい街をつくろうとしのだ。すばらしい民間人のチカラである。この運動が「社明運動」と名付けられて各地に伝わり、今年で第68回を迎えたという。
 
 ところで、「犯罪や非行を防止し、刑期を終えて出所した人たちを支えて立ち直りさせる」という活動はどこかでもあったよね。そう、榊原亀三郎の救済所の活動そのものだ。亀三郎がこれを行ったのは明治32年(1899)、銀座より50年も前のことだ。別に本家争いをするつもりはないが、もっと地元では誇るべきではないのか、と力説したい・・・・・、
 この講演会に演者として呼ばれた西まさるがそう沫を飛ばして話したのである。

 演題は、「半田で生まれた日本最大の民営救済所 ー地元民が支えた榊原弱者救済所ー」とした。
 会場には120名を超える方々が来場。補助席が設けられる盛況だった。

 写真①は、内閣総理大臣からのメッセージの伝達風景。伝達するのは、法務省名古屋保護観察所・酒井宏課長。受け取るのは榊原純夫半田市長。 写真②は、講演中の西まさる。

2018.05.28

 「ふるさと講座」5月例会 「清水次郎長と知多半島」西まさる

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 当会「ふるさと講座」5月の例会を開催。通算154回。よく続いているものだ。
 思えば、平成15年の秋、ぼくが知多半島をウロウロしている際、ふとしたことから清水次郎長が知多半島でヤクザ稼業を始めたことを知った。「次郎長は清水の男じゃないのか」てな、どうでもいい疑問から次郎長探索が始まったのだ。それが「はんだ郷土史研究会」の始まりに繋がっていった。
 と言っても、ぼくが同会を創ったわけでない。「やろうよ、やろうよ、やりたいよ」と言った人が6人。その6人が創立者だ。
 ぼくは他所者、ついでに言えば彼らのような強い郷土愛もない。だが何となく事務局次長のようなことをさせられていた。まぁ、それも嫌いでないから、お手伝いをしていた。

そしてその6人が次々とリタイヤ、誰もいなくなった。

 でも毎回、例会に熱心に参加する人が6~70人も残っている。毎月第3日曜には休まず例会も参加して来る。嬉しいやら困ったやら。
 会長がいなくっても会員はいるのだ。(但し、会費制をとっていない。そんな会だから、それも会員かな?)
 そんな会員たちに押されて、何となく続けて14年、昨日は154回目。出席は80名。

 そんな14年前の思いもあって、「次郎長と知多半島」を話した。意外に知られてはいないが次郎長の女房も養女も今の半田市乙川村の人だ。大政も鶴吉も鬼吉も勝五郎も知多の人。次郎長の第二の故郷は知多半島なのだ。

 もう1コマは「成岩城と城主・榎本了圓」。赤江清功さんが資料を集めてくれた。さらに「成岩城の攻防」の民話を朗読してくれた。
 そして了圓の居た常滑・金蓮寺を森下高行さんが丁寧に調べてくれた。現地に度々通ってくれたことが分かる。
 森下講座はとても彼なりの仮説・結論まで論が及び、とてもよかった。
 さらに新美昇さんが自らが信徒である時宗(了圓は時宗の僧)について丁寧に説明してくれた。
 また、小林勇さんが「成岩城」をイメージして大きな絵を描いて来て、みなさんにご披露してくれた。
 こんな手作りの講座をみんなの力で続けていきたいのだ。

2018.04.17

 亀三郎まつり挙行

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4月8日 亀三郎まつり挙行。
紹介が遅きに失したので、中日新聞の記事を添付してこれに代える。ごめんなさい。

2018.03.23

 榊原弱者救済所保存会総会

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 榊原弱者救済所保存会ができて4年目となる。
 半田の鴉根の丘に、30年に亘り1万5千人もの社会的弱者を救済、保護した施設があった。日本初、日本最大の民営の弱者救済所である。
 こんな劇的ともいえる事業が現代社会では知られることも、賞賛されることもなく眠っていた。
 不思議なことだ。

 まあ、それは良いとして、今はこうして保存会もある。
 半田市、半田保護司会、はんだ郷土史研究会、鴉根区。その四位一体となって運営する会はようやく2回目の総会を迎えた。

  ぼちぼちでもいい、地道に続けていきたい。

 *写真は総会の模様。壇上で挨拶するはんだ郷土史研究会・会長の蟹江正行。

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