記事一覧

2018.09.19

 小栗風葉あれこれ 9月例会

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 9月例会は小栗忠彦氏をお招きし「小栗風葉」を語っていただいた。
 彼を紹介する際、ぼくは少々感情が高ぶって言葉がかなり走ってしまった。と言うのは、この地方の人にとって文学者の認知度(リスペクト度)があまりにも低いと常々感じていたからだ。
 「半田生まれの小栗風葉という作家は日本を代表するレベルの文豪なのだ! 夏目漱石、徳冨蘆花らと肩を並べる人なのだ! それなのに地元の人は風葉をあまりにも知らない!」と言いたかった。
 今日の講師、小栗忠彦氏を会場で紹介する時もあえてこう言った。
 「小栗さんは風葉の弟のお孫さん。その親戚には梅原猛や小中陽太郎がいる。梅原先生は日本を代表する作家で哲学者。小中先生は作家で人気のある言論人ですよ」
 そしてぼくは、こう毒舌を吐いた。
 「普通ね、都会ならね、小栗風葉の孫で梅原猛と小中陽太郎の従兄弟の人なら、みんなから一目置かれるよ。しかしこの地方ではね……」。
 ぼくも文学者の端くれだから、ちょっとしたジェラシーがあったのかもしれない。ちょと言い過ぎた。

 講座「風葉あれこれ」は良かった。身内ならではの秘話も聴けて貴重だった。また、機会を持ちたい。

 *写真は講演する小栗忠彦氏と風葉関係書籍。

2018.08.20

 8月例会

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 お盆明け。酷暑。良い条件ではないので心配していたが、満席に近い例会だった。
 「大紡績顛末記 その2」は、山口孝司氏。(写真㊨=7月例時のもの)
 「明治38年 内海尋常・高等小学校高等科女子の生活の様子 ー同年盆三日の日誌をもとにー」は、松下孜氏。(写真㊧)
 さらに、小島保幸氏が小島家文書をまとめた「幕末異国船渡来に関する文書」を60冊もお持ちいただき、先着60名に無料配布。その内容などをご説明願った。

 実に中味の濃い8月例会であった。

 松下氏のご発表「明治38年の女子生徒の生活」は実に興味深い。日誌の女子生徒は今でいえば小学5、6年から中学1年生の年齢の子。彼女たちの一日をおおよそ正確に知ることができた。
 この子たちの起床時間はほぼ朝5時。就寝は夜10時だった。ランプの時代なのに夜更かしだ。朝は暗いうちに起きている。
 この子たちの遊び。そして家事の手伝いの様子。日誌だから衒いもなく書いている。掃除や子守ばかりでなく、機織り、桑の刈り取りなども長時間している。遊びは「駆けっこ」「海水浴」。
 ごく普通に感じるが、実に貴重な記録である。
 このような何でもない町屋の記録が後世に残る。そして数百年の後、目を丸くしてこれを読む人がいる。そんなことを思っている。

 大信紡顛末記は7月に続いて山口氏のご発表。淡々と、かつ熱の籠もった弁舌には大信紡愛が迸っていた。
 

2018.07.16

 知多半島は天領だった

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 半田市民憲章講演会に呼んでいただき「知多半島はふしぎな国だった」を講演した。150席が満席。立ち見が出た。嬉しい、ありがたいことだ。
 「知多郡は地理的には尾張国だが行政的には違う。尾張藩札も使えない幕府直轄地。つまり家康の国なのだ」
 と再々、あちこちで話してきた。
 どこで話しても、どうも反応が悪かった。つまり知多半島の人(半田の人は特に)は、「ここは尾張名古屋の支配下にある」と思い込んでいたようだ。だから、ぼくの論説には冷たかった。
 相当に物的証拠を示しても信用したくない、ようだった。

 ぼくは知多半島が尾張国だろうが三河国だろうが、幕府直轄地だろうが構わない。どうぞお好きに、と言いたいとさえ思っていた。

 ところが今回の講演会は反応が違った。ご聴衆の多くが頷いている。頷いているのだ。
 どうもぼくは良い気持ちになって、ノっていたようだ。
 妻の優子は「今日の講演はここ数年で一番良かったよ」と言う。
 ともかくぼくの主張(調査)が通用してよかった。
 「知多半島は家康の国、つまり天領なのである~っ!」。

2018.06.12

 社会を明るくする運動 半田市講演会

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 社会を明るくする運動(社明運動)は昭和24年(1949)に東京の銀座で始まったという。
 当時の銀座は終戦後の混乱で治安が悪く、無法な者が街にたむろして市民に害を及ぼしていた。それに困った銀座の商店街の人達が立ち上がり、地域のチカラで犯罪や非行をなくし、健全で明るい街をつくろうとしのだ。すばらしい民間人のチカラである。この運動が「社明運動」と名付けられて各地に伝わり、今年で第68回を迎えたという。
 
 ところで、「犯罪や非行を防止し、刑期を終えて出所した人たちを支えて立ち直りさせる」という活動はどこかでもあったよね。そう、榊原亀三郎の救済所の活動そのものだ。亀三郎がこれを行ったのは明治32年(1899)、銀座より50年も前のことだ。別に本家争いをするつもりはないが、もっと地元では誇るべきではないのか、と力説したい・・・・・、
 この講演会に演者として呼ばれた西まさるがそう沫を飛ばして話したのである。

 演題は、「半田で生まれた日本最大の民営救済所 ー地元民が支えた榊原弱者救済所ー」とした。
 会場には120名を超える方々が来場。補助席が設けられる盛況だった。

 写真①は、内閣総理大臣からのメッセージの伝達風景。伝達するのは、法務省名古屋保護観察所・酒井宏課長。受け取るのは榊原純夫半田市長。 写真②は、講演中の西まさる。

2018.05.28

 「ふるさと講座」5月例会 「清水次郎長と知多半島」西まさる

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 当会「ふるさと講座」5月の例会を開催。通算154回。よく続いているものだ。
 思えば、平成15年の秋、ぼくが知多半島をウロウロしている際、ふとしたことから清水次郎長が知多半島でヤクザ稼業を始めたことを知った。「次郎長は清水の男じゃないのか」てな、どうでもいい疑問から次郎長探索が始まったのだ。それが「はんだ郷土史研究会」の始まりに繋がっていった。
 と言っても、ぼくが同会を創ったわけでない。「やろうよ、やろうよ、やりたいよ」と言った人が6人。その6人が創立者だ。
 ぼくは他所者、ついでに言えば彼らのような強い郷土愛もない。だが何となく事務局次長のようなことをさせられていた。まぁ、それも嫌いでないから、お手伝いをしていた。

そしてその6人が次々とリタイヤ、誰もいなくなった。

 でも毎回、例会に熱心に参加する人が6~70人も残っている。毎月第3日曜には休まず例会も参加して来る。嬉しいやら困ったやら。
 会長がいなくっても会員はいるのだ。(但し、会費制をとっていない。そんな会だから、それも会員かな?)
 そんな会員たちに押されて、何となく続けて14年、昨日は154回目。出席は80名。

 そんな14年前の思いもあって、「次郎長と知多半島」を話した。意外に知られてはいないが次郎長の女房も養女も今の半田市乙川村の人だ。大政も鶴吉も鬼吉も勝五郎も知多の人。次郎長の第二の故郷は知多半島なのだ。

 もう1コマは「成岩城と城主・榎本了圓」。赤江清功さんが資料を集めてくれた。さらに「成岩城の攻防」の民話を朗読してくれた。
 そして了圓の居た常滑・金蓮寺を森下高行さんが丁寧に調べてくれた。現地に度々通ってくれたことが分かる。
 森下講座はとても彼なりの仮説・結論まで論が及び、とてもよかった。
 さらに新美昇さんが自らが信徒である時宗(了圓は時宗の僧)について丁寧に説明してくれた。
 また、小林勇さんが「成岩城」をイメージして大きな絵を描いて来て、みなさんにご披露してくれた。
 こんな手作りの講座をみんなの力で続けていきたいのだ。

2018.04.17

 亀三郎まつり挙行

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4月8日 亀三郎まつり挙行。
紹介が遅きに失したので、中日新聞の記事を添付してこれに代える。ごめんなさい。

2018.03.23

 榊原弱者救済所保存会総会

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 榊原弱者救済所保存会ができて4年目となる。
 半田の鴉根の丘に、30年に亘り1万5千人もの社会的弱者を救済、保護した施設があった。日本初、日本最大の民営の弱者救済所である。
 こんな劇的ともいえる事業が現代社会では知られることも、賞賛されることもなく眠っていた。
 不思議なことだ。

 まあ、それは良いとして、今はこうして保存会もある。
 半田市、半田保護司会、はんだ郷土史研究会、鴉根区。その四位一体となって運営する会はようやく2回目の総会を迎えた。

  ぼちぼちでもいい、地道に続けていきたい。

 *写真は総会の模様。壇上で挨拶するはんだ郷土史研究会・会長の蟹江正行。

2018.03.05

 矢勝川の環境を守る活動

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 2月の例会は「矢勝川の環境を守る活動について」を守る会の代表・榊原幸宏さんをお招きしてお話を願った。
 もうすっかり半田名物、半田名所になった「彼岸花の矢勝川」。南吉の里と相まって季節になると早朝から夕刻まで見物客で広い川岸、堤防に人が溢れている。

 この彼岸花は現在、阿久比側のものも含めると300万本とのこと。凄い数だ。この活動、現在は半田市など「官」の協力もあるが、もともとはまったくのボランティア。小栗大造さんという方が一人でボチボチ始めたのが初めである。

 そう言えば、ぼくが半田市民になった10数年前、この矢勝川と彼岸花について、悪口がいっぱい聞こえていた。
 「彼岸花は葬式の花。縁起が悪い」、「南吉は葬列の描写で彼岸花を書いている。知らないのか!」という正論的な攻撃!
 「彼岸花には毒がある。子どもが口に入れたらどうする!」、「あんなものを堤防に植えたら堤防が弱体化する!」というチンプンカンプンな攻撃。
 「小栗大造は自己顕示欲でこの活動をしている。公共の堤防を利用するな!」という嫉妬とも嫉みいえる言葉。
 そんなものが耳に入っていた。

 そんな悪口、陰口を小栗さん、榊原幸宏さんが知らないわけではないだろうが、ここまでコツコツと進めて来られ、今はもうこの活動の悪口を言う人はいない。

 幸宏さんが講座でこう言った。痛快だった。
「さんざん悪口を言われていることは知っていた。でも数年前からその連中と力関係が逆転した」。

 それを聞いて、ぼくは「はんだ郷土史研究会」のことを連想した。当会はまだ悪口・陰口の対象だ。いつか力関係が逆転する日が来るのだろうか……。来ないだろうな。

 ちなみに小栗大造さんは昨年11月にご逝去。遺言により誰にも知らせず、葬式もしなかった。そして、ご遺体は名古屋大学に献体された。それをみても自己顕示欲などまったくない人だったことが分かる。

 ぼくもそうしようかな。できるかな。と思っている。

2018.01.23

 全国で三番目に古い万葉の歌碑を建てのは陰陽師

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秀吉に追われた陰陽師の一族が少なくとも600人以上(記録にあるのは127人)が木曾三川の沿岸部(清洲が拠点)に来て、秀吉の指示で護岸工事などに従事していた。
その後、木曾三川沿岸から今の名古屋市港区、知多市、東海市、安城市の周辺に移住して根付き、村落を形成して栄えていった。
陰陽師は「博士」。相当に優秀な頭脳をもち、天文、土木などあらゆる知識や経験も豊富だったことは知られていることだ。
その証拠ともいえる一つが写真の歌碑だ。
 東海市高横須賀町諏訪神社にこの万葉の歌碑を建立したのは陰陽師・吉田定興である。

   「年魚市潟 塩干家良思 知多乃浦」
    年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ
 
 文化15年(1818)の建立のものだ。
 碑の裏面に「文化十五歳春吉田定興建之并書」とある。この吉田定興とは、「この近くに住んでいた陰陽師(=東海市史)」というが、よく調べると諏訪神社の境内に、諏訪神社と吉田家の境界を示す石盤があった。それから考えれば神社と彼は一体だったとも思える。
 もっと驚くべきは、この万葉の歌碑としては全国で3番目に古いものである。まだポピュラーでなかった万葉集の中から「年魚市潟=知多の浦」をピックアップして歌碑を建てたのだ。
陰陽師の教養の深さが偲ばれる。

 知多半島の幾つもの村の村長や庄屋を務めている陰陽師。彼らが豊かで勉学も好む知多半島の文化を創ったのかもしれない。そう思っている。

*写真左は新しい万葉の歌碑。その右に文化16年に建立した古い碑がある。写真右はその全体。

2017.12.28

 成岩城の戦い

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『はんだ郷土史だより』1月号で成岩城と成岩城(ならわ・じょう)の戦いを紹介した。
この記事を書くため取材をしていて、ちょっと驚いた。地域の重要な歴史で誇りでもあるべき城の存在を意外なほど地元の人が知らなかったからだ。それも一般の人なら分かる。でも地域の名士や元教師も知らなかったのだ。
 特に隠すことでもない。城跡には立派な「成岩城址」の石碑も建っている。これが地元に人に知られていないことのほうが不思議だ。
 天文年間(1520~)は戦国時代の最中。成岩の村民は村を守るために城を建てた。しかし、城は建ったが城主はいない。そこで村民は他の地方から城主を呼んで来た。いわば城主を雇ったのだ。

 これも面白い。まるで「七人の侍」の発想だ。

 そしていよいよ戦である。
 緒川の水野氏が半島制覇を狙い南下。砦を築き成岩村を攻めんとする。成岩村民は成岩城を築き籠城。両軍は神戸川を挟み一触即発の状態となった。

 さあお立ち合い! 
 その結末は『はんだ郷土史だより』でどうぞ。

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