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2018.07.16

 知多半島は天領だった

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 半田市民憲章講演会に呼んでいただき「知多半島はふしぎな国だった」を講演した。150席が満席。立ち見が出た。嬉しい、ありがたいことだ。
 「知多郡は地理的には尾張国だが行政的には違う。尾張藩札も使えない幕府直轄地。つまり家康の国なのだ」
 と再々、あちこちで話してきた。
 どこで話しても、どうも反応が悪かった。つまり知多半島の人(半田の人は特に)は、「ここは尾張名古屋の支配下にある」と思い込んでいたようだ。だから、ぼくの論説には冷たかった。
 相当に物的証拠を示しても信用したくない、ようだった。

 ぼくは知多半島が尾張国だろうが三河国だろうが、幕府直轄地だろうが構わない。どうぞお好きに、と言いたいとさえ思っていた。

 ところが今回の講演会は反応が違った。ご聴衆の多くが頷いている。頷いているのだ。
 どうもぼくは良い気持ちになって、ノっていたようだ。
 妻の優子は「今日の講演はここ数年で一番良かったよ」と言う。
 ともかくぼくの主張(調査)が通用してよかった。
 「知多半島は家康の国、つまり天領なのである~っ!」。

2018.06.12

 社会を明るくする運動 半田市講演会

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 社会を明るくする運動(社明運動)は昭和24年(1949)に東京の銀座で始まったという。
 当時の銀座は終戦後の混乱で治安が悪く、無法な者が街にたむろして市民に害を及ぼしていた。それに困った銀座の商店街の人達が立ち上がり、地域のチカラで犯罪や非行をなくし、健全で明るい街をつくろうとしのだ。すばらしい民間人のチカラである。この運動が「社明運動」と名付けられて各地に伝わり、今年で第68回を迎えたという。
 
 ところで、「犯罪や非行を防止し、刑期を終えて出所した人たちを支えて立ち直りさせる」という活動はどこかでもあったよね。そう、榊原亀三郎の救済所の活動そのものだ。亀三郎がこれを行ったのは明治32年(1899)、銀座より50年も前のことだ。別に本家争いをするつもりはないが、もっと地元では誇るべきではないのか、と力説したい・・・・・、
 この講演会に演者として呼ばれた西まさるがそう沫を飛ばして話したのである。

 演題は、「半田で生まれた日本最大の民営救済所 ー地元民が支えた榊原弱者救済所ー」とした。
 会場には120名を超える方々が来場。補助席が設けられる盛況だった。

 写真①は、内閣総理大臣からのメッセージの伝達風景。伝達するのは、法務省名古屋保護観察所・酒井宏課長。受け取るのは榊原純夫半田市長。 写真②は、講演中の西まさる。

2018.05.28

 「ふるさと講座」5月例会 「清水次郎長と知多半島」西まさる

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 当会「ふるさと講座」5月の例会を開催。通算154回。よく続いているものだ。
 思えば、平成15年の秋、ぼくが知多半島をウロウロしている際、ふとしたことから清水次郎長が知多半島でヤクザ稼業を始めたことを知った。「次郎長は清水の男じゃないのか」てな、どうでもいい疑問から次郎長探索が始まったのだ。それが「はんだ郷土史研究会」の始まりに繋がっていった。
 と言っても、ぼくが同会を創ったわけでない。「やろうよ、やろうよ、やりたいよ」と言った人が6人。その6人が創立者だ。
 ぼくは他所者、ついでに言えば彼らのような強い郷土愛もない。だが何となく事務局次長のようなことをさせられていた。まぁ、それも嫌いでないから、お手伝いをしていた。

そしてその6人が次々とリタイヤ、誰もいなくなった。

 でも毎回、例会に熱心に参加する人が6~70人も残っている。毎月第3日曜には休まず例会も参加して来る。嬉しいやら困ったやら。
 会長がいなくっても会員はいるのだ。(但し、会費制をとっていない。そんな会だから、それも会員かな?)
 そんな会員たちに押されて、何となく続けて14年、昨日は154回目。出席は80名。

 そんな14年前の思いもあって、「次郎長と知多半島」を話した。意外に知られてはいないが次郎長の女房も養女も今の半田市乙川村の人だ。大政も鶴吉も鬼吉も勝五郎も知多の人。次郎長の第二の故郷は知多半島なのだ。

 もう1コマは「成岩城と城主・榎本了圓」。赤江清功さんが資料を集めてくれた。さらに「成岩城の攻防」の民話を朗読してくれた。
 そして了圓の居た常滑・金蓮寺を森下高行さんが丁寧に調べてくれた。現地に度々通ってくれたことが分かる。
 森下講座はとても彼なりの仮説・結論まで論が及び、とてもよかった。
 さらに新美昇さんが自らが信徒である時宗(了圓は時宗の僧)について丁寧に説明してくれた。
 また、小林勇さんが「成岩城」をイメージして大きな絵を描いて来て、みなさんにご披露してくれた。
 こんな手作りの講座をみんなの力で続けていきたいのだ。

2018.04.17

 亀三郎まつり挙行

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4月8日 亀三郎まつり挙行。
紹介が遅きに失したので、中日新聞の記事を添付してこれに代える。ごめんなさい。

2018.03.23

 榊原弱者救済所保存会総会

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 榊原弱者救済所保存会ができて4年目となる。
 半田の鴉根の丘に、30年に亘り1万5千人もの社会的弱者を救済、保護した施設があった。日本初、日本最大の民営の弱者救済所である。
 こんな劇的ともいえる事業が現代社会では知られることも、賞賛されることもなく眠っていた。
 不思議なことだ。

 まあ、それは良いとして、今はこうして保存会もある。
 半田市、半田保護司会、はんだ郷土史研究会、鴉根区。その四位一体となって運営する会はようやく2回目の総会を迎えた。

  ぼちぼちでもいい、地道に続けていきたい。

 *写真は総会の模様。壇上で挨拶するはんだ郷土史研究会・会長の蟹江正行。

2018.03.05

 矢勝川の環境を守る活動

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 2月の例会は「矢勝川の環境を守る活動について」を守る会の代表・榊原幸宏さんをお招きしてお話を願った。
 もうすっかり半田名物、半田名所になった「彼岸花の矢勝川」。南吉の里と相まって季節になると早朝から夕刻まで見物客で広い川岸、堤防に人が溢れている。

 この彼岸花は現在、阿久比側のものも含めると300万本とのこと。凄い数だ。この活動、現在は半田市など「官」の協力もあるが、もともとはまったくのボランティア。小栗大造さんという方が一人でボチボチ始めたのが初めである。

 そう言えば、ぼくが半田市民になった10数年前、この矢勝川と彼岸花について、悪口がいっぱい聞こえていた。
 「彼岸花は葬式の花。縁起が悪い」、「南吉は葬列の描写で彼岸花を書いている。知らないのか!」という正論的な攻撃!
 「彼岸花には毒がある。子どもが口に入れたらどうする!」、「あんなものを堤防に植えたら堤防が弱体化する!」というチンプンカンプンな攻撃。
 「小栗大造は自己顕示欲でこの活動をしている。公共の堤防を利用するな!」という嫉妬とも嫉みいえる言葉。
 そんなものが耳に入っていた。

 そんな悪口、陰口を小栗さん、榊原幸宏さんが知らないわけではないだろうが、ここまでコツコツと進めて来られ、今はもうこの活動の悪口を言う人はいない。

 幸宏さんが講座でこう言った。痛快だった。
「さんざん悪口を言われていることは知っていた。でも数年前からその連中と力関係が逆転した」。

 それを聞いて、ぼくは「はんだ郷土史研究会」のことを連想した。当会はまだ悪口・陰口の対象だ。いつか力関係が逆転する日が来るのだろうか……。来ないだろうな。

 ちなみに小栗大造さんは昨年11月にご逝去。遺言により誰にも知らせず、葬式もしなかった。そして、ご遺体は名古屋大学に献体された。それをみても自己顕示欲などまったくない人だったことが分かる。

 ぼくもそうしようかな。できるかな。と思っている。

2018.01.23

 全国で三番目に古い万葉の歌碑を建てのは陰陽師

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秀吉に追われた陰陽師の一族が少なくとも600人以上(記録にあるのは127人)が木曾三川の沿岸部(清洲が拠点)に来て、秀吉の指示で護岸工事などに従事していた。
その後、木曾三川沿岸から今の名古屋市港区、知多市、東海市、安城市の周辺に移住して根付き、村落を形成して栄えていった。
陰陽師は「博士」。相当に優秀な頭脳をもち、天文、土木などあらゆる知識や経験も豊富だったことは知られていることだ。
その証拠ともいえる一つが写真の歌碑だ。
 東海市高横須賀町諏訪神社にこの万葉の歌碑を建立したのは陰陽師・吉田定興である。

   「年魚市潟 塩干家良思 知多乃浦」
    年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ
 
 文化15年(1818)の建立のものだ。
 碑の裏面に「文化十五歳春吉田定興建之并書」とある。この吉田定興とは、「この近くに住んでいた陰陽師(=東海市史)」というが、よく調べると諏訪神社の境内に、諏訪神社と吉田家の境界を示す石盤があった。それから考えれば神社と彼は一体だったとも思える。
 もっと驚くべきは、この万葉の歌碑としては全国で3番目に古いものである。まだポピュラーでなかった万葉集の中から「年魚市潟=知多の浦」をピックアップして歌碑を建てたのだ。
陰陽師の教養の深さが偲ばれる。

 知多半島の幾つもの村の村長や庄屋を務めている陰陽師。彼らが豊かで勉学も好む知多半島の文化を創ったのかもしれない。そう思っている。

*写真左は新しい万葉の歌碑。その右に文化16年に建立した古い碑がある。写真右はその全体。

2017.12.28

 成岩城の戦い

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『はんだ郷土史だより』1月号で成岩城と成岩城(ならわ・じょう)の戦いを紹介した。
この記事を書くため取材をしていて、ちょっと驚いた。地域の重要な歴史で誇りでもあるべき城の存在を意外なほど地元の人が知らなかったからだ。それも一般の人なら分かる。でも地域の名士や元教師も知らなかったのだ。
 特に隠すことでもない。城跡には立派な「成岩城址」の石碑も建っている。これが地元に人に知られていないことのほうが不思議だ。
 天文年間(1520~)は戦国時代の最中。成岩の村民は村を守るために城を建てた。しかし、城は建ったが城主はいない。そこで村民は他の地方から城主を呼んで来た。いわば城主を雇ったのだ。

 これも面白い。まるで「七人の侍」の発想だ。

 そしていよいよ戦である。
 緒川の水野氏が半島制覇を狙い南下。砦を築き成岩村を攻めんとする。成岩村民は成岩城を築き籠城。両軍は神戸川を挟み一触即発の状態となった。

 さあお立ち合い! 
 その結末は『はんだ郷土史だより』でどうぞ。

2017.12.21

 400年続く旧家・小島家

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12月の例会は新舞子(旧松原村)の旧家・小島家の当主・小島保幸氏を招き「小島家の歴史」をお話願った。
小島家について特筆すべきは、慶長年間から一つの村(松原村)の庄屋を一貫して同家が務めていたということである。これは他の村々ではそう例のないことだろう。
普通は一つの村に数名の有力者がいて、その有力者たちが交代で庄屋や名主を務めている。だから交代の度に村の史料や記録が各家に移動する。その度に紛失も起こる。だが、松原村は小島家から庄屋が動いていない。だから村の史料や記録は動いていない。慶長15年の検地表も江戸後期の検地表も同家にそのまま保管されているのだ。

先日、小島家を訪問、江戸時代の蔵の中を見せてもらった。江戸前期の記録がそのままあるのに感動した。

同家の蔵に古い食器や茶器などが仕舞われていた。どこの蔵にもみる光景だ。しかし、その並べられた食器の下に敷かれているのが国芳や歌麿の浮世絵だったから驚いた。
それを発見した小島さんは浮世絵を回収し、色の褪せていないものは表装。色褪せや破れのあるものつなぎ合わせて壁に貼っていた。
それらを今回の例会にお持ちいただいた。
写真がそれである。

古い史料も面白いが、食器の下敷きの浮世絵も面白い。
これらも400年以上も続く旧家ならではの面白さなのだ。

2017.12.17

 マイナス7度の茅野市。プラス3度の半田市

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榊原弱者救済所跡の視察に遠く長野の茅野市からおいでいただいた。12月13日のことである。

当日、半田市はこの年一番の寒さ。朝の気温は3度ほどだった。「お~さぶっ」と茅野市のみなさんを待った。きょうは半田市更生保護女性会の菊岡小代子事務局長も来てくださっている。吹きさらしの史跡公園は寒い。

菊岡さんも「寒い~」とぶるぶる。マフラーぐるぐるで茅野市のみなさんを待った。

観光バスが到着。37名が降りて来られた。

「寒いでしょ」と榊原弱者救済所保存会の田中清朗会長。

「暖かいですよ。ここは」と茅野市の方。

「えっ! 暖かい?」

「今朝、私たちの茅野市はマイナス7度でした。真冬になるとマイナス10度が普通ですよ。それに比べると知多半島は南国ですね」。

参った! マイナス7度の地からプラス3度の場所の来れば、そりゃぁ暖かいわけだ。しみじみと日本の広さ、同時に文化の違いも感じたのである。

茅野市はスピードスケートの小平奈選手の地元。町では世界新記録更新の度に湧き上がっているという。だからあまり寒くない? まさか!

確かに、こんなことがあった。
史跡公園で現地を見学の後、鴉根区民館に移動して、西が「亀三郎と救済事業」をミニ講演するのがお決まりのコースなのだが、その講演中、茅野市の方々にエアコンの暖房が強いと言われて風を弱める一幕があった。
こちら半田の面々は「寒いのに~」という顔だった。

きょうはちょっと珍しいご報告まで。

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