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2018.05.07

 芦原温泉の「べにや」が燃えてしまった

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 辛いニュースが入ってきた。芦原温泉の老舗旅館「べにや」が全焼した。ニュース番組で見た。You Tubuでも見た。赤い炎が大きな屋根を破って燃え上がっていた。

 「べにや」は、ぼくの金沢の実家の祖父が贔屓にしていた旅館。子どもの頃のぼくも連れてきてもらったことが何回もある。
 それからぼくが社会人になり東京や大阪に勤めていた頃、帰省の際に何度か泊まっていた。家内とも何度か泊まった。
 小学校低学年の頃の娘を連れて行ったことがある。子どもはお子様料理である。ところが娘、自分に出された料理はそっちのけで、ぼくたちの料理を食べること食べること。余程美味かったのだろう。呆れるほどだった。娘が生まれた初めて食べた本格的な会席料理がこれだった。
 そんな思い出がいっぱい詰まった旅館である。

 半田の住人となって一度、家内と泊まりに行った。その時の実感。「こんな高い店だったのか…」。もう貧乏したぼくには行ける店ではなくなっていた。それはそうだ、天皇陛下や石原裕次郎が泊まる店。ぼくらのクラスでも二人で10万円近くはいる高級旅館なのだ。もう高嶺の花だ。

 でもどこかに、「ぼくのべにや」があったようだ。
 昨年、榊原弱者救済所をあわら市の保護司会さんが視察に来られた。いつものようにぼくがミニ講演をしたのだが、その際、「祖父の代から、べにやが常宿」と言うと、あわらの方々から、ホウーという声が漏れた。ちょっと自慢だった。
 昨月、芦原温泉に一泊した。べにやには行けないのでリーズナブルな店にした。その晩、仲居さんが「お客様は芦原は初めてですか」と言うので、「いやいや祖父の代からべにやの客だよ」と言うと、仲居さんの態度が変わった。「べにやの馴染みの上客」に見えたのだろうか。
 そんなブランド力があの老舗旅館にはあったようだ。

 そんなべにやが燃えちゃった。
 追悼の思いを込めてここに書いておく。

2018.04.18

 永平寺奮戦記

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 金沢から福井。仕事プラス野暮用である。
 以前から優子が永平寺に行きたいと言っていたので、今回、気が重いが意を決して行くことにした。というのも、ぼくは例の病気以来、歩行が辛い。本当は積極的に歩くのが何よりのリハビリなのだが、生来の怠け者。努力するのが大嫌い。だからあの大きな永平寺の中を歩くなどと考えただけでもゾッとするのだ。

 「参道の入口の蕎麦屋でビールでもチビチビやって待っているから、あなた一人でお寺には行って来てよ」
 という約束で永平寺行きとなった。

 福井駅から特急バスで30分。永平寺の参道前に到着。運転手さんに聞くと、「参道を徒歩7分上ると本堂の山門」と言う。普通の人の徒歩7分、杖をついたぼくなら15分の登山。とてもじゃないが願い下げだ。
 「約束通り、一人で行ってよね」と念をおしてバスを降りる。
 そこは、おみやげ屋さん「一休」の前だった。蕎麦や酒もある店だ。「ここに居よう」と思った瞬間、お店の女店員(主人?)がぼくに声をかけた。
 「山門まで上り道はきついですよ。車でお送りしましょう」
 杖のぼくを見て、親切に言ってくださったのだ。福井の人はやさしい。
 そう言われて断るわけにもいかない。
 さらに優子はぼくに、「永平寺の仏さんがさぼらずに上がって来い、と言っているんよ」と追い打ちをかける。
 「わかった」。

 そして山門へ。
 ここまで来れば寺院内に入らないわけにいかない。恐怖の苦行が始まったのであります。
 広大な境内。凛とした本堂。
 素晴らしい雰囲気だが、杖をついてゼイゼイ。まさに修行僧そのものである。
 そして何とか・・・・。

 帰りも山門まで「一休さん」に迎えに来ていただく。もちろん、ありがとうと言うだけではいけない。お店でゴマ豆腐、山菜の天麩羅でビールを2本。おみやげも一杯買わせていただいた。
 ヘトヘトになって福井駅に。がんばったせいで腹が減った。
 気の利いた居酒屋があった。そこでブリの刺身、イカの刺身、福井のおでん、焚き合わせなどで痛飲。優子も福井の地酒・一本義でご機嫌。帰りの列車で鯖の棒寿司でビール。

 それなのに帰ってみてみてびっくり。体重が2キロ落ちていた。
 まさに修行のたまものであった。

 *本堂へ続く階段をみてほしい。ここを昇った。(いばるほどでもないか)

2018.03.14

 中島飛行機半田製作所の「戦後」が終わった日

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 中島飛行機半田製作所の昭和39年の写真を8枚入手した。ご提供くださったのは日比恆明氏。貴重な8枚である。

 昭和39年と言えば終戦から19年も後、それなのに戦時中の昭和20年7月に米軍により爆撃されて廃墟となった同製作所の「5号棟」がそのまま残っている。それがこの写真である。
 他の多くの工場棟も爆撃され壊滅状態になったのだが、この時代までに整理され空き地になっている。
 廃墟の5号棟の周辺がそれである。
 おっと、写真をもう一度見てほしい。手前の農地に人が、牛が写っている。

 この5号棟だけ解体ができなかったのは、ここだけが戦後賠償の処理が出来ていなかったからだ。さらにこの建物の側で賠償機械なども保管していたからだ。
 分かりやすくいえば、この5号棟(一万坪)はまだ正式に日本のものではなく戦勝国の管理下にあったのかもしれない。

 翌40年、ここは中島飛行機(富士産業→輸送機工業)に返還(売却)された。
 ようやく中島飛行機半田製作所の「戦後」が終わったのである。

  *詳しくは「はんだ郷土史だより」3月号に。

2018.02.01

 陰陽師の墓 鬼崎海苔

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 陰陽師の里に陰陽師だけの神道墓所がある。知多市八幡(寺本村)である。
 南岸低気圧に負けず突撃した。朝はマイナス1度、昼でも4度というが伊勢湾には伊吹颪がビュンビュンと吹く。体感温度は0度に近いだろう。
 写真は陰陽師7家の墓所である。伊達、高橋、永井、森岡、吉田、久野、松田の7家の代々の墓標が立っている。中には墓碑に辞世の歌を刻んであるものもあった。
 新しい花も供えられていたから今も墓参が絶えないのだろう。
 ここが陰陽師の里。尾張万歳の里、黒鍬衆の里である。感慨深い時間であった。

 帰りは鬼崎漁港に寄り、鬼崎海苔を買うことにしていた。
 鬼崎海苔は超一級品。地元ではほとんど流通せず主に東京の高級寿司店に出荷しているそうだ。
 漁協に電話して在庫を確かめると「あります。3700円から4500円です」。
 「はい、分かりました」と言ったが、側で女房が角を出している。「うちはいつもいくらの海苔を買っているのか知ってる? せいぜい2000円よ!」。
 しばし沈黙。

 しかし漁港へ。伊吹颪にうねる海。この風に乗った木曾三川の栄養分がここ鬼崎にちょうどぶつかり、こくのある上等な海苔を育てるようだ。
 海苔の味? それはまた今度ね。

2018.01.12

 友清歓真全集

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どうしても調べたいことがあって鶴舞図書館に出かけた。
杖を片手にカバンを肩にトボトボと行った。
天気には恵まれて、寒いが快晴。(ぼくは脳梗塞の後遺症で感覚障害、暑い寒いが余り分からない。だからみなさんほど寒さは感じない。その点、ぼくの身体は優秀だ。…かな?)

公園の入口。鶴舞公園だから鶴が舞っている。当たり前! ちょっとは工夫しろよ、と言いたくなるのはぼくのやぶにらみ。悪い癖。

図書館に到着。どうしても調べたいのは「烏八臼(うはっきゅう)」・「千賀志摩」・「陰陽師」の関係。そのヒントが友清歓真(ともきよ・よしさね)にあるかもしれないと思い、彼の全集を読みに来たのだ。

閉架から出してもらった。
手押し車に載った分厚い本が8冊、ドン~!
おっ~、と唾を飲み込んだ。
 ここで杖の威力。
 ぼくの杖を見た図書館員が「机までお持ちしましょうか」
 ぼくは「結構です」と見栄をはって手押し車で席まで行った。

それから4時間、全集読破! とは言えない、長年鍛えた編集者流の斜め読みである。

閑話休題
昔、出版社に新人が入社すると毎日3冊から5冊の本をあてがわれ書評を書かされる。2~300ページの本を3冊読み、その内容と要旨をまとめる。むろん仕事であるから手抜きは出来ない。
これを何年もやっていると1ページを10秒くらいで読めるようになる…、というか読みたい文言だけ読めるようになる。
まあ、いい加減だけどね。

 そしてベテラン編集者だったぼくは、友清歓真全集全八巻、5000ページを3時間少々で読破したのであ~るっ!

 内容? 成果? あまりなし。少しだけあり。

 図書館の帰り、鶴舞駅前に焼き鳥店がオープンしていた。
  「生ビール、何杯呑んでも1杯100円」の看板。
 後ろ髪を引かれる思いだったが立ち寄る元気なし。
 情けない身体になってしまったものだ。

2018.01.01

 謹賀新年

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新年明けましておめでとうございます。
あっという間に一年が経ったという感じです。
みなさまは良いお正月をお過ごしですか。
今年もよろしくお願いいたします。

さて、平成30年の抱負を申し上げます・・・・、といきたところですが、そんな立派なものは見当たりません。

でも、そうも言ってばかりはいられませんので、これより、一杯飲んで考えることといたします。

では、今年もよろしくお付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。

2017.11.23

 誕生日です

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 11月22日はぼくの誕生日です。この年齢になると誕生日は嬉しくもあり嬉しくもなし、ですね。
 歳だけは忘れずにとる。最近時々、斎藤茂吉のこの歌を思い出す。

  暁の薄明に死をおもふことあり 除外例なき死といへるもの

 「除外例外なき死」とうたう。確か、茂吉が65歳の時の作品。ぼくはとうにこの年齢を超えている。
 そうだよね。ぼくも例外ではないね。
 「少年老いやすく学成り難し」と粋がっているうち、学ぶ時間もなくなっていくようだ。
 さて、これから何をしよう。ぼちぼち歩くしかないか。

 何だか落ち込みそうだから今日は酒を呑もう。病気の後も毎日毎日、呑む練習をしているからずいぶん回復したよ。
 昨夜もビール2本、赤ワイン2杯。練習の成果が出て来たようだ。たゆまぬ努力! そう今夜も練習だ! 乾杯!

2017.11.08

 名鉄ローズ倶楽部が

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 名鉄ローズ倶楽部という郷土文化を学習する会がある。この6日(月)、半田の中島飛行機跡と豊田佐吉の足跡を訪ねて来た。はんだ郷土史研究会が案内することになった。
 担当したのは西まさると吉田政文。当初20数名とのことだったが変な気候のせいか病欠が多く、13名となったそうだ。
 それでも元気に「出発! 進行!」。
 まずは元の中島飛行機工場跡地を見ながら滑走路跡へ。エプロンの丸い跡しか残っていないが、思えば中島飛行機半田製作所の遺跡は本当にこれだけしかない。跡形もない。書類や図面など文書類は西まさるの所に少しあるがそれが全部だろう。
 何か複雑な気持ちになる。

 七本木池の池畔に行く。ここは半田市の外れ。半田市街地から車で15分はかかる。今は住宅地だが当時は原野だった。

 昭和20年7月24日に米軍の空襲があり、この七本木池畔で多くの婦人子どもが亡くなった。ここは一面の雑木林で何もないところなので空襲の時の避難場所になっていた。
 そしてその日、空襲警報を受けた婦人たちが子どもを抱いてここに避難して来ていた。そこに爆撃。多くの民間人が犠牲になった。
 なぜ丘陵地の雑木林を爆撃したのか。
 たまたまその8日前に20数本のガソリン入りドラム缶をここに隠していた。それがなぜかばれていたのだ。米軍はドラム缶を爆撃。その近くに婦人子どもが避難していた。木っ端みじんである。

 終戦となってからもこの池畔に鬼火が出て、消えなかったという。犠牲になった人たちの怨念のように。
 そこで有志が大きな慰霊塔を建ててその霊を慰めたのである。写真がそれ。「空へ」と彫ってある。

 それにしても疲れた。久しぶりに30分も歩いた。杖で、足を引き、ああ、疲れた。
 3枚目の写真は「佐五銀」で昼食。そして60分ほどの座学。
 中島飛行機と豊田佐吉を話した。

2017.10.26

 あわら温泉&東尋坊

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 福井県あわら保護司会の一行が鴉根の救済所跡を見学に来られた。
 あわらは「あわら温泉」。懐かしい所だ。
 ぼくの祖父はあわら温泉が随分と気に入っていたようで年に何度も行っていた。祖父の家(ぼくの実家)は石川県金沢。石川にも全国的に有名な良い温泉が沢山あるのだが、祖父はあえてお隣の福井のあわらに通っていた。贔屓の旅館は「べにや」といった。ぼくも子どもの時分に何度か連れて行ってもらった。
 べにやで一泊、次の日は東尋坊に寄って断崖絶壁の名勝に酔い、参道の店で買い食いをする。ぼくの懐かしく楽しい少年時代の思い出である。

 大人になってからも何度もあわら温泉に行った。大阪時代、金沢に帰省する前日、あわら温泉で泊まり、東尋坊経由で金沢へ。これも常なるコースになっていた。

 半田の住人となってからも一度か二度、あわら温泉に行ったことがある。この頃は貧乏になっていたから「べにや」には泊まれない。「べにや」は同地を代表する高級旅館である。
 「べにや」の前を通り過ぎ、近くのリーズナブルな旅館に泊まった。翌日はやはり、東尋坊ー滝谷寺ー三国漁港ー三国競艇の決まったコースを辿った。

 その「あわら」の保護司会の方々と懇談。懐かしい思い。何とかもう一度、例のコースを辿る旅をしてみたい。そう思えてならなかった。

2017.10.21

 風邪を引いた

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風邪を引いた。たぶん生まれて初めてだ。

今までぼくの周辺で「風邪を引いたから休む」と言っていた人がいたが、それはずる休みだと思っていた。少々咳が出ようが、多少熱があろうが仕事をする! それが当然だと思っていた。
「風邪を引いた」は「ずる休みの口実」、風邪など根性で直ると思っていたのである~っ。

 事実、ぼくも子ども時代、何度も何度も「風邪を引いた」。
 ただ、それはすべて嘘。
 寝込むぼくに「大丈夫かいね」とやさしくおばあちゃんやお姉さんが言ってくれて、卵のかかったオジヤやバナナ。時にはカステラが出た。
 ぼくは定期的に風邪を引くことにしていた。

 だから、風邪はずる休みの口実。そうぼくは信じて疑わなかったのである。

 この10月8日(日)偉い学者ご夫妻が「はんだ山車まつり」を観るというのでご案内した。初めて桟敷席を買った。イスに座れるだけで五千円はちと高いが辛抱して観覧。壮観な山車の列を観てそれはそれで満足したが、日差しが照り放題、日陰が一切ないスタンド席。たぶんあれでやられた。
 それから一週間、ぐずぐずと調子が悪くなった。

 14日は安城博物館に陰陽師展の見学。
 15日ははんだ郷土史研究会の例会。
 17日は名鉄カルチャースクール。雨の中、神宮前へ。濡れることはないのだが何だか体調が優れない。でも講座は楽しくすませた。
 19日は鴉根の榊原弱者救済所跡に美浜町の民生委員さんが見学に52名。いつものようにミニ講座。手抜きをすると倒れそうなので気合を入れて話した。

 これくらいのスケジュールはいつもならへのかっぱ。何ということはないのだが、やはり堪えたのだろうか。

 これが終わってほっとしたのか急に体調が悪化。しんどい。動きたくない。喉が痛い。ちょっと横になりたい。これはずる休みでない。まさに行灯の油をなめるような気持ちで過ごした。
 

 そしてずる休みでない休みを2日ばかり。ようやく事務所復帰。
 こんなつまらぬブログを書いて仕事を再開する。

 「風邪は引いたなどとは、ずる休みの言い訳だ!」と二度と言わない。すまん。

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