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2018.09.02

 一大事! 玄関に蜂の巣だ!

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 わが事務所の玄関には2つのシャッターがある。一つは入口の扉。もう一つは窓。その窓の方のシャッターを開けると、何と! 蜂の巣があった。
 まだ巣は小さいが、蜂は大きい。10匹は見える。
 怖い。怖い…、

 テレビで時々観る凶暴な熊ん蜂だったらどうしよう。
 テレビで観るような、ハンター業者を頼まなければならないのだろうか。
 一晩考えた。

 まだ蜂の巣も小さいから病弱な俺でも戦える! やるぞ! と言ったらわが女房は「私、大阪の家で雨戸にあった蜂の巣に近づき、蜂に攻撃されて顔が腫れ上がったことがある。私は嫌!」と不戦を宣言する。
 ちょと困ったが、親爺としては引き下がるわけにいかない。

 9月2日朝、敢然と宣戦布告。長袖シャツに帽子、軍手で武装。武器はアースジェット。そして蜂の巣を確保するためのアオキスーパーのレジ袋2枚。
 午前9時30分、天気晴朗さらに風もなし。
 戦闘開始! 
 まずはアースジョットの砲撃! 敵は不意を突かれ数匹は悶絶。しかし2匹はわれに向かい戦闘機のように突進してくるっ!
 さっと避けて、ジェットを噴射!
 そしてわが右手軍はレジ袋で敵の巣を包囲。そして確保。

 わが軍の圧倒的な勝利であった。
 この奮闘は金足農高と同等の感激であると明日の朝刊1面を飾ることだろう。

 以上、大本営発表。

2018.08.31

 ピアノ

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 ちょっと珍しい写真があったのでご披露する。
 ピアノのコンサートの写真だが演奏中を真上から撮ったものだ。この5月の「えすぷりコンサート」。会場は白川ホール。
 演奏者は向かって左が斉藤優子、その右が藤本逸子氏(東海学園大学教授)。ピアノの連弾である。
 その右手のスーツの女性が「めくり」と通称される人。つまり楽譜を演奏者に代わりめくる人。これだってちゃんと楽譜が読めないとできないには言うまでもない。

 曲はモーツアルトの何とか、だったが、なかなか良かった。

 優子さんのコンサートは結構多く、今年だけでこのえすぷりの他、豊橋市と岡崎市に出かけていた。
 11月4日は一宮音楽家協会の定期演奏会が一宮市の尾西信金ホールである。ご希望の方にはチケットを差し上げると言っている。よろしければ。

 

2018.08.10

 酷暑お見舞い申し上げます

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 連日の体温を超える暑さ。尋常ではありません。
 公園の蝉も「アジィー、アジィー」と鳴いています。

 そこで暑気払いに小さなプレゼント。
 挿絵を見て、少しはゾッとしてください。

 では、・・・・・。

2018.07.10

 豪雨災害・被災お見舞い そして雑感

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 西日本の豪雨災害により被災された皆さまに謹んでお見舞い申し上げます。
 一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。

 西日本の豪雨災害のテレビのニュースを見ていて「広島県三原市も被災、死者も出た」を耳にした。三原市はぼくが東海近世文学会でお世話になっている島田大助先生(豊橋創造大学教授)のご実家のあるところ。島田先生には当会の3月例会にもおいでいただきご講義を願ってもいる関係だ。
 メールを送り、ご実家の安否を訊いた。大災害だから無事ということはないのだが、特段の被害はなかったという。一安心であった。

 その後、ぼくがこんなメールを送った。
  ○
 天変地異の猛威への恐怖は直面したものしか分かりませんね。テレビで見る被災現場も凄いですが、所詮、他人事です。ぼくは阪神淡路大震災の被災者ですので(軽度ですが)他の災害を見るたびにあの猛烈な揺れの恐怖を思い出します。
 ついでに思い出すのがこれ。
 震災は平成7年1月17日。その週末の22日に博多で講演の仕事が入っていました。
 先方の主催者は再々連絡をとろうとしたようですが、2、3日は電話は不通。数日後、ようやく電話が通じた。だが先方の心配はぼくが来るのか、講演が予定通りできるかどうかばかり。「こんな大震災も案外、他人事なのだな」と痛感。
 そして当日、大阪から博多まで山陽新幹線は不通。山陰線廻りはあったのですが乗り換え、乗り換えで気の遠くなるような時間がかかりそう。そこで名古屋まで戻り、小牧から飛行機で博多へ行きました。
 指定のホテルに着くと先方の担当さん。「関西は大変ですね・・」と儀礼的なお見舞いのあと、「博多は水不足で大変なのです。このホテルも夜の11時以降はお風呂に入れません。不自由です。不自由です。」と嘆くことしばし。
 風呂ぐらいなんだい、ぺちゃんこの神戸の街を見せてやりたい、と思いました。
  ○
 このぼくのメールに島田先生から返信。(これは島田先生に無許可での掲載です。多少は人の災害意識の啓発になるものと強引に思い・・、叱られないことを祈る)
  ○
 私(島田)も同じような経験をしました。
 阪神淡路大震災後の2月に友人の結婚式に参加するために三原から東京へ行きました。飛行機は満席、結局、神戸の市内を一部、バスと徒歩で移動し、東京へ行きました。9時間くらいかかったと思います。
 結婚式に参加し、移動が大変だったと話したところ、友人の新郎から、何かあったっけという返事が返ってきました。別の国にきた感じでした。

 どんな大震災も他人事なら痛みはない。対岸の火事。
 別に教訓めいたことを言うつもりはないが、他人の痛みを己の痛みと思えるようになりたいものだ。これは、ぼく自身へのメッセージでもある。
    *写真はぺちゃんこの当時の神戸

2018.06.27

 半田市民憲章講演会「知多半島はふしぎな国」

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 ありがたいことに6月に「社会を明るくする運動」で榊原弱者救済所の話をしろと呼んでいただいた。今度は7月7日の半田市民憲章講演会に招いていただいた。
 半田や知多半島の郷土史の話がいいというので「知多半島はふしぎな国だ」を話すことにした。
 あっと驚いた。こんな立派なチラシを作っていただき、各所の配られていたのだ。講演や卓話には随分と行っているが、ぼくの写真がこんに大きく入るチラシを撒かれたのは今まであっただろうか。恥ずかしい限りだ。いつもは写真は入っても小さな顔写真。こんなに大きいのなら髪を黒く修整してほしかった(笑)。

 知多半島は半田の方々が思い込んでいるような尾張藩内の国ではないのだ。実は家康の国、つまり三河国なのだ。
 この件、はんだ郷土史研究会の講座で話した時にも反発に近い反応があった。そして丁寧に丁寧に説明を続けても、「しょうがない…、そうなのかもしれない…」程度の納得だ。いわば身内といえる当会の会員でさえそうなのだから、不特定多数の半田市民がどう反応するか…、実は明白なのだ。
 
 知多半島はふしぎな国だ。こんな小さな半島から全国的な偉人を多く、多く輩出している。
 経済人が凄い。画期的な改革思想が凄い。あの江戸・新吉原遊郭だって知多の人が造った。
 そんな不思議を丁寧に話すつもりだが、ボコボコに叩かれるか、冷たい目で見られるか、覚悟はしている。
 先着150名。入場無料。お暇があれば冷やかしに来てほしい。

2018.05.07

 芦原温泉の「べにや」が燃えてしまった

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 辛いニュースが入ってきた。芦原温泉の老舗旅館「べにや」が全焼した。ニュース番組で見た。You Tubuでも見た。赤い炎が大きな屋根を破って燃え上がっていた。

 「べにや」は、ぼくの金沢の実家の祖父が贔屓にしていた旅館。子どもの頃のぼくも連れてきてもらったことが何回もある。
 それからぼくが社会人になり東京や大阪に勤めていた頃、帰省の際に何度か泊まっていた。家内とも何度か泊まった。
 小学校低学年の頃の娘を連れて行ったことがある。子どもはお子様料理である。ところが娘、自分に出された料理はそっちのけで、ぼくたちの料理を食べること食べること。余程美味かったのだろう。呆れるほどだった。娘が生まれた初めて食べた本格的な会席料理がこれだった。
 そんな思い出がいっぱい詰まった旅館である。

 半田の住人となって一度、家内と泊まりに行った。その時の実感。「こんな高い店だったのか…」。もう貧乏したぼくには行ける店ではなくなっていた。それはそうだ、天皇陛下や石原裕次郎が泊まる店。ぼくらのクラスでも二人で10万円近くはいる高級旅館なのだ。もう高嶺の花だ。

 でもどこかに、「ぼくのべにや」があったようだ。
 昨年、榊原弱者救済所をあわら市の保護司会さんが視察に来られた。いつものようにぼくがミニ講演をしたのだが、その際、「祖父の代から、べにやが常宿」と言うと、あわらの方々から、ホウーという声が漏れた。ちょっと自慢だった。
 昨月、芦原温泉に一泊した。べにやには行けないのでリーズナブルな店にした。その晩、仲居さんが「お客様は芦原は初めてですか」と言うので、「いやいや祖父の代からべにやの客だよ」と言うと、仲居さんの態度が変わった。「べにやの馴染みの上客」に見えたのだろうか。
 そんなブランド力があの老舗旅館にはあったようだ。

 そんなべにやが燃えちゃった。
 追悼の思いを込めてここに書いておく。

2018.04.18

 永平寺奮戦記

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 金沢から福井。仕事プラス野暮用である。
 以前から優子が永平寺に行きたいと言っていたので、今回、気が重いが意を決して行くことにした。というのも、ぼくは例の病気以来、歩行が辛い。本当は積極的に歩くのが何よりのリハビリなのだが、生来の怠け者。努力するのが大嫌い。だからあの大きな永平寺の中を歩くなどと考えただけでもゾッとするのだ。

 「参道の入口の蕎麦屋でビールでもチビチビやって待っているから、あなた一人でお寺には行って来てよ」
 という約束で永平寺行きとなった。

 福井駅から特急バスで30分。永平寺の参道前に到着。運転手さんに聞くと、「参道を徒歩7分上ると本堂の山門」と言う。普通の人の徒歩7分、杖をついたぼくなら15分の登山。とてもじゃないが願い下げだ。
 「約束通り、一人で行ってよね」と念をおしてバスを降りる。
 そこは、おみやげ屋さん「一休」の前だった。蕎麦や酒もある店だ。「ここに居よう」と思った瞬間、お店の女店員(主人?)がぼくに声をかけた。
 「山門まで上り道はきついですよ。車でお送りしましょう」
 杖のぼくを見て、親切に言ってくださったのだ。福井の人はやさしい。
 そう言われて断るわけにもいかない。
 さらに優子はぼくに、「永平寺の仏さんがさぼらずに上がって来い、と言っているんよ」と追い打ちをかける。
 「わかった」。

 そして山門へ。
 ここまで来れば寺院内に入らないわけにいかない。恐怖の苦行が始まったのであります。
 広大な境内。凛とした本堂。
 素晴らしい雰囲気だが、杖をついてゼイゼイ。まさに修行僧そのものである。
 そして何とか・・・・。

 帰りも山門まで「一休さん」に迎えに来ていただく。もちろん、ありがとうと言うだけではいけない。お店でゴマ豆腐、山菜の天麩羅でビールを2本。おみやげも一杯買わせていただいた。
 ヘトヘトになって福井駅に。がんばったせいで腹が減った。
 気の利いた居酒屋があった。そこでブリの刺身、イカの刺身、福井のおでん、焚き合わせなどで痛飲。優子も福井の地酒・一本義でご機嫌。帰りの列車で鯖の棒寿司でビール。

 それなのに帰ってみてみてびっくり。体重が2キロ落ちていた。
 まさに修行のたまものであった。

 *本堂へ続く階段をみてほしい。ここを昇った。(いばるほどでもないか)

2018.03.14

 中島飛行機半田製作所の「戦後」が終わった日

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 中島飛行機半田製作所の昭和39年の写真を8枚入手した。ご提供くださったのは日比恆明氏。貴重な8枚である。

 昭和39年と言えば終戦から19年も後、それなのに戦時中の昭和20年7月に米軍により爆撃されて廃墟となった同製作所の「5号棟」がそのまま残っている。それがこの写真である。
 他の多くの工場棟も爆撃され壊滅状態になったのだが、この時代までに整理され空き地になっている。
 廃墟の5号棟の周辺がそれである。
 おっと、写真をもう一度見てほしい。手前の農地に人が、牛が写っている。

 この5号棟だけ解体ができなかったのは、ここだけが戦後賠償の処理が出来ていなかったからだ。さらにこの建物の側で賠償機械なども保管していたからだ。
 分かりやすくいえば、この5号棟(一万坪)はまだ正式に日本のものではなく戦勝国の管理下にあったのかもしれない。

 翌40年、ここは中島飛行機(富士産業→輸送機工業)に返還(売却)された。
 ようやく中島飛行機半田製作所の「戦後」が終わったのである。

  *詳しくは「はんだ郷土史だより」3月号に。

2018.02.01

 陰陽師の墓 鬼崎海苔

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 陰陽師の里に陰陽師だけの神道墓所がある。知多市八幡(寺本村)である。
 南岸低気圧に負けず突撃した。朝はマイナス1度、昼でも4度というが伊勢湾には伊吹颪がビュンビュンと吹く。体感温度は0度に近いだろう。
 写真は陰陽師7家の墓所である。伊達、高橋、永井、森岡、吉田、久野、松田の7家の代々の墓標が立っている。中には墓碑に辞世の歌を刻んであるものもあった。
 新しい花も供えられていたから今も墓参が絶えないのだろう。
 ここが陰陽師の里。尾張万歳の里、黒鍬衆の里である。感慨深い時間であった。

 帰りは鬼崎漁港に寄り、鬼崎海苔を買うことにしていた。
 鬼崎海苔は超一級品。地元ではほとんど流通せず主に東京の高級寿司店に出荷しているそうだ。
 漁協に電話して在庫を確かめると「あります。3700円から4500円です」。
 「はい、分かりました」と言ったが、側で女房が角を出している。「うちはいつもいくらの海苔を買っているのか知ってる? せいぜい2000円よ!」。
 しばし沈黙。

 しかし漁港へ。伊吹颪にうねる海。この風に乗った木曾三川の栄養分がここ鬼崎にちょうどぶつかり、こくのある上等な海苔を育てるようだ。
 海苔の味? それはまた今度ね。

2018.01.12

 友清歓真全集

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どうしても調べたいことがあって鶴舞図書館に出かけた。
杖を片手にカバンを肩にトボトボと行った。
天気には恵まれて、寒いが快晴。(ぼくは脳梗塞の後遺症で感覚障害、暑い寒いが余り分からない。だからみなさんほど寒さは感じない。その点、ぼくの身体は優秀だ。…かな?)

公園の入口。鶴舞公園だから鶴が舞っている。当たり前! ちょっとは工夫しろよ、と言いたくなるのはぼくのやぶにらみ。悪い癖。

図書館に到着。どうしても調べたいのは「烏八臼(うはっきゅう)」・「千賀志摩」・「陰陽師」の関係。そのヒントが友清歓真(ともきよ・よしさね)にあるかもしれないと思い、彼の全集を読みに来たのだ。

閉架から出してもらった。
手押し車に載った分厚い本が8冊、ドン~!
おっ~、と唾を飲み込んだ。
 ここで杖の威力。
 ぼくの杖を見た図書館員が「机までお持ちしましょうか」
 ぼくは「結構です」と見栄をはって手押し車で席まで行った。

それから4時間、全集読破! とは言えない、長年鍛えた編集者流の斜め読みである。

閑話休題
昔、出版社に新人が入社すると毎日3冊から5冊の本をあてがわれ書評を書かされる。2~300ページの本を3冊読み、その内容と要旨をまとめる。むろん仕事であるから手抜きは出来ない。
これを何年もやっていると1ページを10秒くらいで読めるようになる…、というか読みたい文言だけ読めるようになる。
まあ、いい加減だけどね。

 そしてベテラン編集者だったぼくは、友清歓真全集全八巻、5000ページを3時間少々で読破したのであ~るっ!

 内容? 成果? あまりなし。少しだけあり。

 図書館の帰り、鶴舞駅前に焼き鳥店がオープンしていた。
  「生ビール、何杯呑んでも1杯100円」の看板。
 後ろ髪を引かれる思いだったが立ち寄る元気なし。
 情けない身体になってしまったものだ。

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