「わが家のお宝展」。入場者は150名少々(スタッフ除く)。昨年の半分ほど。今までのワースト1だった。
地元で大きな行事が2つ3つあったことが原因かな? でも出品された物は今までで間違いなくナンバー1。博物館の展示品クラスの物がぞろぞろだった。たった2日間では勿体ない。勿体ない。
写真は地元ケーブルテレビのインタビューを受ける伊藤正治会長。最近はなかなか堂に入って来たようだ。
「お宝展」の出展品は以降、ぼちぼち紹介する。
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豊田章男社長に期待を
ここ一ヶ月程、トヨタのニュースが流れない日はない。しかし、それは全てトヨタにとって悪いものである。現在の自動車は一台パソコンを積んで制御しているようなものである。かつてのように油にまみれて修理するものとは違ってきている。特にハイブリッド車においては新技術ということもあり、複雑な制御が必要である。
だが、今のトヨタの苦境は必然であったと思われる。出る杭は打たれるということかもしれないが、最大の間違いは世界一になることをあわてた結果であろう。技術的にも、販売環境においても、しっかりと足元を造り上げてから、目標の達成に努めるべきであった。
豊田佐吉は「発明私記」の中で次のように述べている。『此ノ如キ創造的ナモノハ、先ヅ自ラ之ガ製作ニ従事シ、深甚ノ注意ヲ払ヒ、幾多ノ実験ヲ重ネタル後ニ非レバ、到底完成セシムル能ハズ。之ガ製作ヲ他ヘ託スルガ如キハ、決シテ為スベカラザル処ニシテ、必ズ蹉跌ノ基ヲナシ、噛臍ノ悔ヲ残スベク、大イニ戒ムベキコトナリ』佐吉が井桁商会の失敗後の言葉として残したものである。
トヨタが置かれている情況は当時とは全く違うであろう。しかし、一人間として決断しなければいけない情況としては同じである。ジャストインタイムやカンバン方式の前になすべきことがあるのではないだろうか。お客様の視点に立った「もの造り」であり、その「もの造り」をする人間をつくることではないかと思う。
豊田章男氏はその手腕を買われて社長に就任したであろうが、同時に佐吉、喜一郎、章一郎と続く、豊田家本家の人間としても期待されて、その任に就いたのであろう。結果として、この逆境には幸いと言おうか、最も適任の人選となったのである。果断な行動を大いに期待したい。
*写真は豊田佐吉・喜一郎・章一郎・章男 (敬称は略)
- 2010年02月16日(火)19時38分 この記事のURL
- [郷土史研究::豊田佐吉]
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- 小栗照夫
神も仏もない話
榊原亀三郎の鴉根弱者救済所に稲荷神社がある。神社はあるが参拝する人はない。
それは閉鎖されているのだから当たり前なのだが、12月に行った同所の公開見学会の際、神社に畏敬を表する意味でも神官にお祓いをしてもらうことにした。
乙川八幡神社の宮司とは親しいので、遠路の出張になるが「安くお願い」と泣き付いた。喜んでか、しぶしぶかは分からないが承諾してくれた。酒もお供えも用意した。
当会の伊藤正治会長が、「貧乏人の西にだけ祈祷料を出させるのはかわいそうだ」と半分出してくれた。
ところが見学会の数日前、亀三郎の子が亡くなった。生存する最後の子である。ご親族から連絡があり「喪があけるまで祈祷は遠慮してくれ」。神への祈祷はお祭に通じるのでいけない、ということだ。
宮司に中止を連絡したのだが、ぼくの手許に祈祷料が残った。
「伊藤さんよ、いっぺん神様に出した金を引き上げると罰があたるよ」
とぼく。ここまでは立派な人の台詞だ。立派な人なら、こう続ける。「亀三郎のように慈善事業に寄付しよう」。
ところが、ぼくはこう言った。
「これで宝くじを買おう。3億円やで、3億や。明日から竜宮城のような暮らしが出来るデ。なあ、伊藤さん!」
伊藤さんは、もともと長い鼻の下をさらに長くして、
「竜宮城か~、乙姫さまか~、ええなぁ~。ええよ。一緒に行こ!」
そして祈祷料が宝くじに変身したのでありました。
結果は? 聞くまでもない。神様はそんなに甘くない。仏様だってそう。「神仏に寄与すべき金を、何たる不埒な! 喝!」。
竜宮の夢は、玉手箱の煙のように消えたのであります。
史料ぞくぞくお宝展
すっかり恒例となった『わが家のお宝展』。昨年あたりから半田の旧家が史料を出してくれるようになった。
今年は乙川の旧家・竹内惣九郎家が蔵を開けてくれた。江戸期より庄屋、組頭などを務めた家だけに公文書に準じるようなものも続々と出てきた。
まだ整理中だが乙川村、亀崎村の江戸期、明治期の新発見がありそうだ。(すでにあった!)
先々代以前は庄屋(行政者)だったが、先代は教育者。新美南吉が在校当時の岩滑小学校の校長。南吉を中学に進学させることを「畳屋に学問はいらない」と嫌がった南吉の父・多蔵を担任に説得するよう指示したのがこの人だ。
日記や手紙もごっそりあった。南吉から手紙が来ていないか探したがなかった。但し、内海の豪商・内田佐七や文豪・永井路子から手紙や年賀状が来ていた。どんな交際だったのだろう。
史料に興味はつきない。
『わが家のお宝展』は、22年2月20日(土)~21日(日)
乙川公民館で開催。詳しくは本HP「当会の行催事」に。
愛光園
知多郡東浦町にある愛光園という施設を皆さんはご存知でしょうか。半田方面から大府へ抜ける農面道路を少し入るとあります。愛光園は一つの施設ではなく、障害者支援施設をはじめ介護施設、発達障害児通園施設等、10以上の施設を持つ社会福祉法人です。ここでは心身に障害を持つ人、知的障害を持つ人が生活したり、通って来て作業や療養をしています。2万3千坪という広い土地にこれらの施設が建っています。
これらの施設の土地はかつて日高牧場があった所です。愛知県議の日高昇氏が提供した土地です。最近になり、この2万3千坪という広大な土地が正式に愛光園へ譲られたと聞きました。どんなにお金持ちで広い土地を持っていたとしても、簡単にできることではありません。
「はんだ郷土史研究会」の西まさる事務局長が取り上げた「榊原亀三郎」とは少し情況は違いますが、いずれも純粋な気持ちで弱者やハンデを持っている人達を助けしようということには変わりがないと思います。
この施設の中に、「くるみ」という自然食レストランがあります。もちろん誰でも利用することができます。施設内で焼いているパンや採卵した玉子も販売しています。東浦方面を通った折に、ぜひ思い出して寄ってみてください。
*写真は障がい者活動センター愛光園の建物
中島飛行機・学徒「別れの額」
日本を代表する軍需工場・中島飛行機が半田市乙川に軍用機「天山」「彩雲」の製造工場を作ったのが昭和18年。工場には各地から徴用工、学徒動員工などが2万5千人が集められた。
人口5千人の乙川地区が一気に3万人の町になった。
都市計画は街のかたちを変え、町は軍事色に染まった。米軍の空襲もあった。死者は269名。工場は焼けたが、働く人々の心にはまだ報国意識が高かった。
空襲から1ケ月もたたないうちに敗戦。徴用された人々は失意のまま故郷へ帰ることとなる。
半田市亀崎にあった「亀崎寮」から、帰郷する学徒か徴用工が書いた、惜別の額が発見された。額というが額ではない。床の間の上部などにある「天袋」などといわれる細長い襖の裏にひそかに書いたものだ。
敗戦の無念。友と別れる無念。そんな気持が溢れるものだ。
一首がしたためられてある。
『戦負け意に如はらず友を置き 故郷に帰る秋雨の朝』
当時の学生は侍であった。
2点出て来たこの額は、「わが家のお宝展」に展示する。「お宝展」は2月20日(土)、21日(日) 乙川公民館で開催。
南無女房 乳を呑ませに化けて来い
前回の「セキレイの川柳の解釈を―」に刺激され、古川柳を題材にした以前のエッセイを思い出した。
その一部を紹介する。笑ってもらいたい。
古川柳は面白い。実に面白い。江戸の世相がわかる。庶民の暮らしがわかる。それに当時の人の教養レベルの意外な高さに驚く。
これから掲出する句にニヤリとできる人をインテリという。ゴメン!
『芭蕉翁 ぽちゃんといえば立ち止まり』
言わずとしれた芭蕉の「古池や―」の本句取りであるが、かの芭蕉さえもおもちゃにされているのだ。
『五右衛門は生煮えのとき一首詠み』
釜茹でにされる五右衛門が、「石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」と辞世を詠んだという芝居ネタを笑っている。
川柳らしい川柳を一句。
『屁をひって おもろくもなし独り者』
ただの屁の句じゃないことは解るよね。「おもろうて やがて哀しき独り者」 ですよね。
古川柳の名句の中の名句はこれだ!
『南無女房 乳を呑ませに化けて来い』
幼い子を残し、逝ってしまった女房への叫び。ちょっとウルウルしそうだ。「かあちゃ~ん!お化けになってでも出て来てくれ~」。
古川柳はいいが、現代川柳の名誉のために秀作を一句紹介する。これはどうだ!
『命まで かけた女て これかいな』
小生も身につまされるような句であります。
お後がよろしいようで。
セキレイ
最近、スズメに変わって白と黒の尾の長い鳥をよく見かける。疑問に思い調べてみたことがある。この鳥はハクセキレイというらしい。スズメ目セキレイ科の中で特に日本に多いのがこのハクセキレイであるとネットで知識を得た。疑問に思うのは私だけではなく「西まさる」先生も同じなのかと思った。セキレイと言えば、「セキレイの話」というのをどこかで聞いたことがある。確認した内容を次に紹介します。これはあくまでも、研究ですので誤解のないように。
日本書紀に載っている話です。『イザナギ、イザナミの二神が遂に合交せんとするに、その術を知らず、時に鶺鴒(にはくなふり)が飛び来たりて、その首と尾をたたく、二神見習いて即ち交道を得つ』とあるそうです。鶺鴒(セキレイ)が頭と尾を盛んに動かすのを見て、イザナギ、イザナミの二神は愛し合う方法を学んだという話です。この話に尾ひれが付き、鳥に学んだので、その時の形は後からであったというまことしやかな話も広まっているそうです。川柳に「鶺鴒は一度教えてあきれ果て」というのがあるそうです。私には何のことだか全く分からないので川柳作家「西まさる」先生に解説をお願いします。
変化する日本の常識。ぼくの常識。
ぼくの友人に東京は葛飾柴又生れの男がいる。と言っても車寅次郎ではない。名門、両国高校から東京大学へ、今は大会社の役員だ。そんな絵に描いたようなエリートの彼の趣味は、葛飾の映画館で『男はつらいよ』を観ることだという。
葛飾の映画館。
スクリーンには、寅さんとマドンナの恋の一場面が映し出されている。マドンナは寅さんに好意をもった。じっと寅さんを見つめるマドンナ。それに気付いた寅さんは、細い目を開いたり閉じたりして、どこか逃げ腰。ご存じの名場面だ。
そこで葛飾の映画館内では声が掛かる!
「寅ちゃん! 今だよ! 今言うんだよ!」と、恋を告白しろとの催促の声。声の主は葛飾のおばちゃん。スクリーンに向かっての絶叫だ。
また、別の声が。
「寅ちゃん! しっかりおし! 男だろう!」
彼もおばちゃんたちの中で手に汗握って「そうだ、今だ!」と小さく呟く……
先日、ある雑誌社の3人のお嬢さんを前に、この話をした。絶対にウケると思って話すのだが何やら雰囲気が悪い。ことに2人のお嬢さんはポカンとしている。
「ん、あなた、寅さんの映画を観たことないの?」
「ありません」
「じゃ、寅さんを知らないの?」
「知りません」。
何と、寅さんを知らない日本人がいた。それも2人、ぼくの前にいる。
ガ~ンと打ちのめされたような気になった。これをカルチャーショックというのだ。
彼女たちを責めるつもりでこれを書いているのではない。自分自身を責めるのだ。「寅さん」といえば日本人全員があの四角な顔を知っていて、リリーに恋をしていて、恋に破れて旅に出て……
昔、こんな短歌を作ったことがある。
『くれないのリリーの肩に手もやれず ああ寅さんよ飲もうじゃないか』
こんな歌、通用しないということだ。ああ、ぼくの常識はすでに日本の常識でなくなっていたのだ。
今、「べっ甲亀と半田鴉根弱者救済所」を本にすべく格闘中。3月初旬には出版のつもりだが、その原稿の中に、僕たち?には常識的な人名が注釈なしで数多く出てくる。例えば「山岡鉄舟」「渋沢榮一」。さらに「吉良仁吉」「森の石松」「唐人お吉」。これらには注釈が要る?
ちぃと頭を抱え、そして、お嬢さんの顔が浮ぶのである。
さよう、日本の常識は変化しているのである。ああ~
ここ、居酒屋ではありません
ここ、居酒屋ではありません。
さて、どこでしょう?
西まさる編集事務所、すなわち、はんだ郷土史研究会の事務局です。もう一度言います。ここ、居酒屋ではありません。
しかしここには名酒がずらり。
まずは清酒。全国レベルの賞をとった「ほしいずみ」。「純米大吟醸・櫂」。新潟の名酒「久保田・万寿」また「朝日山」。大野の石井さんが「日本一うまい」と言って譲らない「醸し人九平次」。その他、定番の「国盛」「松竹梅」。
焼酎は、十年古酒「海援隊」。薩摩焼酎「赤薩摩」。「いいちこ」は肩身が狭い。
洋酒は、「カミュ」「ヘネシー」。
事務所は頂き物の名酒に囲まれ、元旦早々、三々五々と集まった面々は、飲める者も飲めない者も、その色香に酔っていたのであります。元旦から何を? 微薫を匂わせ賢者は歴史を語り合う、に決まってるではありませんか。
さて一番人気は?。言わぬが花ですが、この写真に写っていない酒。瓶はすでに処分されたあれとあれでした。
酒ばっかり呑んでいるようですが、酒の肴は写真にみえる「郷土史」やその「古文書」であります。ただの酒飲みではありません……、福沢諭吉も坂本龍馬も大酒飲みでありました―、と申し上げておきますが、ウイ―。
今年もどうぞよろしく、ウイー。
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