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2018.04.18

 永平寺奮戦記

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 金沢から福井。仕事プラス野暮用である。
 以前から優子が永平寺に行きたいと言っていたので、今回、気が重いが意を決して行くことにした。というのも、ぼくは例の病気以来、歩行が辛い。本当は積極的に歩くのが何よりのリハビリなのだが、生来の怠け者。努力するのが大嫌い。だからあの大きな永平寺の中を歩くなどと考えただけでもゾッとするのだ。

 「参道の入口の蕎麦屋でビールでもチビチビやって待っているから、あなた一人でお寺には行って来てよ」
 という約束で永平寺行きとなった。

 福井駅から特急バスで30分。永平寺の参道前に到着。運転手さんに聞くと、「参道を徒歩7分上ると本堂の山門」と言う。普通の人の徒歩7分、杖をついたぼくなら15分の登山。とてもじゃないが願い下げだ。
 「約束通り、一人で行ってよね」と念をおしてバスを降りる。
 そこは、おみやげ屋さん「一休」の前だった。蕎麦や酒もある店だ。「ここに居よう」と思った瞬間、お店の女店員(主人?)がぼくに声をかけた。
 「山門まで上り道はきついですよ。車でお送りしましょう」
 杖のぼくを見て、親切に言ってくださったのだ。福井の人はやさしい。
 そう言われて断るわけにもいかない。
 さらに優子はぼくに、「永平寺の仏さんがさぼらずに上がって来い、と言っているんよ」と追い打ちをかける。
 「わかった」。

 そして山門へ。
 ここまで来れば寺院内に入らないわけにいかない。恐怖の苦行が始まったのであります。
 広大な境内。凛とした本堂。
 素晴らしい雰囲気だが、杖をついてゼイゼイ。まさに修行僧そのものである。
 そして何とか・・・・。

 帰りも山門まで「一休さん」に迎えに来ていただく。もちろん、ありがとうと言うだけではいけない。お店でゴマ豆腐、山菜の天麩羅でビールを2本。おみやげも一杯買わせていただいた。
 ヘトヘトになって福井駅に。がんばったせいで腹が減った。
 気の利いた居酒屋があった。そこでブリの刺身、イカの刺身、福井のおでん、焚き合わせなどで痛飲。優子も福井の地酒・一本義でご機嫌。帰りの列車で鯖の棒寿司でビール。

 それなのに帰ってみてみてびっくり。体重が2キロ落ちていた。
 まさに修行のたまものであった。

 *本堂へ続く階段をみてほしい。ここを昇った。(いばるほどでもないか)

2018.04.17

 亀三郎まつり挙行

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4月8日 亀三郎まつり挙行。
紹介が遅きに失したので、中日新聞の記事を添付してこれに代える。ごめんなさい。

2018.03.23

 榊原弱者救済所保存会総会

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 榊原弱者救済所保存会ができて4年目となる。
 半田の鴉根の丘に、30年に亘り1万5千人もの社会的弱者を救済、保護した施設があった。日本初、日本最大の民営の弱者救済所である。
 こんな劇的ともいえる事業が現代社会では知られることも、賞賛されることもなく眠っていた。
 不思議なことだ。

 まあ、それは良いとして、今はこうして保存会もある。
 半田市、半田保護司会、はんだ郷土史研究会、鴉根区。その四位一体となって運営する会はようやく2回目の総会を迎えた。

  ぼちぼちでもいい、地道に続けていきたい。

 *写真は総会の模様。壇上で挨拶するはんだ郷土史研究会・会長の蟹江正行。

2018.03.14

 中島飛行機半田製作所の「戦後」が終わった日

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 中島飛行機半田製作所の昭和39年の写真を8枚入手した。ご提供くださったのは日比恆明氏。貴重な8枚である。

 昭和39年と言えば終戦から19年も後、それなのに戦時中の昭和20年7月に米軍により爆撃されて廃墟となった同製作所の「5号棟」がそのまま残っている。それがこの写真である。
 他の多くの工場棟も爆撃され壊滅状態になったのだが、この時代までに整理され空き地になっている。
 廃墟の5号棟の周辺がそれである。
 おっと、写真をもう一度見てほしい。手前の農地に人が、牛が写っている。

 この5号棟だけ解体ができなかったのは、ここだけが戦後賠償の処理が出来ていなかったからだ。さらにこの建物の側で賠償機械なども保管していたからだ。
 分かりやすくいえば、この5号棟(一万坪)はまだ正式に日本のものではなく戦勝国の管理下にあったのかもしれない。

 翌40年、ここは中島飛行機(富士産業→輸送機工業)に返還(売却)された。
 ようやく中島飛行機半田製作所の「戦後」が終わったのである。

  *詳しくは「はんだ郷土史だより」3月号に。

2018.03.05

 矢勝川の環境を守る活動

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 2月の例会は「矢勝川の環境を守る活動について」を守る会の代表・榊原幸宏さんをお招きしてお話を願った。
 もうすっかり半田名物、半田名所になった「彼岸花の矢勝川」。南吉の里と相まって季節になると早朝から夕刻まで見物客で広い川岸、堤防に人が溢れている。

 この彼岸花は現在、阿久比側のものも含めると300万本とのこと。凄い数だ。この活動、現在は半田市など「官」の協力もあるが、もともとはまったくのボランティア。小栗大造さんという方が一人でボチボチ始めたのが初めである。

 そう言えば、ぼくが半田市民になった10数年前、この矢勝川と彼岸花について、悪口がいっぱい聞こえていた。
 「彼岸花は葬式の花。縁起が悪い」、「南吉は葬列の描写で彼岸花を書いている。知らないのか!」という正論的な攻撃!
 「彼岸花には毒がある。子どもが口に入れたらどうする!」、「あんなものを堤防に植えたら堤防が弱体化する!」というチンプンカンプンな攻撃。
 「小栗大造は自己顕示欲でこの活動をしている。公共の堤防を利用するな!」という嫉妬とも嫉みいえる言葉。
 そんなものが耳に入っていた。

 そんな悪口、陰口を小栗さん、榊原幸宏さんが知らないわけではないだろうが、ここまでコツコツと進めて来られ、今はもうこの活動の悪口を言う人はいない。

 幸宏さんが講座でこう言った。痛快だった。
「さんざん悪口を言われていることは知っていた。でも数年前からその連中と力関係が逆転した」。

 それを聞いて、ぼくは「はんだ郷土史研究会」のことを連想した。当会はまだ悪口・陰口の対象だ。いつか力関係が逆転する日が来るのだろうか……。来ないだろうな。

 ちなみに小栗大造さんは昨年11月にご逝去。遺言により誰にも知らせず、葬式もしなかった。そして、ご遺体は名古屋大学に献体された。それをみても自己顕示欲などまったくない人だったことが分かる。

 ぼくもそうしようかな。できるかな。と思っている。

2018.02.01

 陰陽師の墓 鬼崎海苔

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 陰陽師の里に陰陽師だけの神道墓所がある。知多市八幡(寺本村)である。
 南岸低気圧に負けず突撃した。朝はマイナス1度、昼でも4度というが伊勢湾には伊吹颪がビュンビュンと吹く。体感温度は0度に近いだろう。
 写真は陰陽師7家の墓所である。伊達、高橋、永井、森岡、吉田、久野、松田の7家の代々の墓標が立っている。中には墓碑に辞世の歌を刻んであるものもあった。
 新しい花も供えられていたから今も墓参が絶えないのだろう。
 ここが陰陽師の里。尾張万歳の里、黒鍬衆の里である。感慨深い時間であった。

 帰りは鬼崎漁港に寄り、鬼崎海苔を買うことにしていた。
 鬼崎海苔は超一級品。地元ではほとんど流通せず主に東京の高級寿司店に出荷しているそうだ。
 漁協に電話して在庫を確かめると「あります。3700円から4500円です」。
 「はい、分かりました」と言ったが、側で女房が角を出している。「うちはいつもいくらの海苔を買っているのか知ってる? せいぜい2000円よ!」。
 しばし沈黙。

 しかし漁港へ。伊吹颪にうねる海。この風に乗った木曾三川の栄養分がここ鬼崎にちょうどぶつかり、こくのある上等な海苔を育てるようだ。
 海苔の味? それはまた今度ね。

2018.01.23

 全国で三番目に古い万葉の歌碑を建てのは陰陽師

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秀吉に追われた陰陽師の一族が少なくとも600人以上(記録にあるのは127人)が木曾三川の沿岸部(清洲が拠点)に来て、秀吉の指示で護岸工事などに従事していた。
その後、木曾三川沿岸から今の名古屋市港区、知多市、東海市、安城市の周辺に移住して根付き、村落を形成して栄えていった。
陰陽師は「博士」。相当に優秀な頭脳をもち、天文、土木などあらゆる知識や経験も豊富だったことは知られていることだ。
その証拠ともいえる一つが写真の歌碑だ。
 東海市高横須賀町諏訪神社にこの万葉の歌碑を建立したのは陰陽師・吉田定興である。

   「年魚市潟 塩干家良思 知多乃浦」
    年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ
 
 文化15年(1818)の建立のものだ。
 碑の裏面に「文化十五歳春吉田定興建之并書」とある。この吉田定興とは、「この近くに住んでいた陰陽師(=東海市史)」というが、よく調べると諏訪神社の境内に、諏訪神社と吉田家の境界を示す石盤があった。それから考えれば神社と彼は一体だったとも思える。
 もっと驚くべきは、この万葉の歌碑としては全国で3番目に古いものである。まだポピュラーでなかった万葉集の中から「年魚市潟=知多の浦」をピックアップして歌碑を建てたのだ。
陰陽師の教養の深さが偲ばれる。

 知多半島の幾つもの村の村長や庄屋を務めている陰陽師。彼らが豊かで勉学も好む知多半島の文化を創ったのかもしれない。そう思っている。

*写真左は新しい万葉の歌碑。その右に文化16年に建立した古い碑がある。写真右はその全体。

2018.01.12

 友清歓真全集

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どうしても調べたいことがあって鶴舞図書館に出かけた。
杖を片手にカバンを肩にトボトボと行った。
天気には恵まれて、寒いが快晴。(ぼくは脳梗塞の後遺症で感覚障害、暑い寒いが余り分からない。だからみなさんほど寒さは感じない。その点、ぼくの身体は優秀だ。…かな?)

公園の入口。鶴舞公園だから鶴が舞っている。当たり前! ちょっとは工夫しろよ、と言いたくなるのはぼくのやぶにらみ。悪い癖。

図書館に到着。どうしても調べたいのは「烏八臼(うはっきゅう)」・「千賀志摩」・「陰陽師」の関係。そのヒントが友清歓真(ともきよ・よしさね)にあるかもしれないと思い、彼の全集を読みに来たのだ。

閉架から出してもらった。
手押し車に載った分厚い本が8冊、ドン~!
おっ~、と唾を飲み込んだ。
 ここで杖の威力。
 ぼくの杖を見た図書館員が「机までお持ちしましょうか」
 ぼくは「結構です」と見栄をはって手押し車で席まで行った。

それから4時間、全集読破! とは言えない、長年鍛えた編集者流の斜め読みである。

閑話休題
昔、出版社に新人が入社すると毎日3冊から5冊の本をあてがわれ書評を書かされる。2~300ページの本を3冊読み、その内容と要旨をまとめる。むろん仕事であるから手抜きは出来ない。
これを何年もやっていると1ページを10秒くらいで読めるようになる…、というか読みたい文言だけ読めるようになる。
まあ、いい加減だけどね。

 そしてベテラン編集者だったぼくは、友清歓真全集全八巻、5000ページを3時間少々で読破したのであ~るっ!

 内容? 成果? あまりなし。少しだけあり。

 図書館の帰り、鶴舞駅前に焼き鳥店がオープンしていた。
  「生ビール、何杯呑んでも1杯100円」の看板。
 後ろ髪を引かれる思いだったが立ち寄る元気なし。
 情けない身体になってしまったものだ。

2018.01.01

 謹賀新年

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新年明けましておめでとうございます。
あっという間に一年が経ったという感じです。
みなさまは良いお正月をお過ごしですか。
今年もよろしくお願いいたします。

さて、平成30年の抱負を申し上げます・・・・、といきたところですが、そんな立派なものは見当たりません。

でも、そうも言ってばかりはいられませんので、これより、一杯飲んで考えることといたします。

では、今年もよろしくお付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。

2017.12.28

 成岩城の戦い

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『はんだ郷土史だより』1月号で成岩城と成岩城(ならわ・じょう)の戦いを紹介した。
この記事を書くため取材をしていて、ちょっと驚いた。地域の重要な歴史で誇りでもあるべき城の存在を意外なほど地元の人が知らなかったからだ。それも一般の人なら分かる。でも地域の名士や元教師も知らなかったのだ。
 特に隠すことでもない。城跡には立派な「成岩城址」の石碑も建っている。これが地元に人に知られていないことのほうが不思議だ。
 天文年間(1520~)は戦国時代の最中。成岩の村民は村を守るために城を建てた。しかし、城は建ったが城主はいない。そこで村民は他の地方から城主を呼んで来た。いわば城主を雇ったのだ。

 これも面白い。まるで「七人の侍」の発想だ。

 そしていよいよ戦である。
 緒川の水野氏が半島制覇を狙い南下。砦を築き成岩村を攻めんとする。成岩村民は成岩城を築き籠城。両軍は神戸川を挟み一触即発の状態となった。

 さあお立ち合い! 
 その結末は『はんだ郷土史だより』でどうぞ。

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