古写真は語る①
どのくらい古いと古写真と言うかは、はっきりとした基準はないようである。小学生にとっては幼稚園の時の写真が古写真である。人それぞれ懐かしいと感じる写真は違うということでしょう。一般に江戸時代末から昭和初期までのものを一応古写真と言うようである。その中でも超貴重な江戸時代のものはもちろんであるが、明治時代の写真もかなり数が少ないので正真正銘の古写真と言えるでしょう。
我が家には明治時代の写真はない。最も古いと思われるのが上の写真である。年代は大正8年頃か。祖父が写っており、父から聞いた話から推測すると、ほぼ間違いないと思う。
この写真を始めて見たとき身内だからであろうか、おじいちゃんはすぐ分かった。右端の姉さんかぶりをしている人物である。おばさんにそっくりだからである。おじいちゃんが余興で女装をしていたのである。この時代、祖父は自転車製造工場の小僧をしていた。その仕事が一段落したお盆休みであろうか、仲間と一緒に仮装大会をした時のもののようである。まだ、小学校でたての少年も多く写っている。写真はイタミが激しいが我が家に残った大切な一枚の写真である。だが、私だけしか分からない一枚でもある。
次回も我が家の写真を取り上げ、その後は佐吉、藤八の写真について取り上げる予定。
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我が家の古写真1
藤八家、一つの家に二つの苗字
藤八小話②
「現在の石川藤八家の御当主は松本さんです」と言うと、大抵の方は怪訝な顔をする。苗字が違うのであるから当然かもしれない。七代目石川藤八、本名松本市松が藤八家に養子として入った時点で、藤八家の中に石川姓と松本姓の二つの姓が同じ家の中に存在することになった。
いくら明治の時代とはいえ、それ程あることではないだろう。七代目藤八には「たき」という一人娘がいた。この娘に西尾から婿をもらった。生まれた娘を三祢(みね)と言った。もちろん松本三祢である。しかし、婿が三年足らずで亡くなってしまった。そのため、もう一度「たき」に鷲津から婿をもらった。婿は六代目夫人きくと養子縁組して石川姓となった。生まれた娘が「八重」である。当然、石川八重である。
三祢が成人して亀崎から銀三という婿をとった。男の子一人女の子一人の3人の子供が生まれた。苗字は松本である。しかし、幼い3人の子供を残して三祢が他界してしまう。そうすると、松本銀三は三祢の妹石川八重と結婚し石川銀三となった。男の子が一人生まれた。その八重も子供を生んで一年後に亡くなってしまった。
石川藤八家の実権は九代目夫婦ということになった。十代目予定の銀三の立場は微妙なものだったと思われる。
そして時代はくだり、三祢の長男である松本信司氏が石川藤八家を継いだ。現在の御当主は信司氏の長男宏司さんである。この下手な文章で関係性をすべて頭の中で組み立てられる人は尊敬に値します。
* 写真は藤八の娘たき、佐吉の長男喜一郎、佐吉の妻浅子の乳母である。
しかし、謎の多い写真である。たきは養子の八代目藤八に亡くなられて半年、一歳三ヶ月の娘を持つ21歳の母。写真の場所は名古屋市上茶屋町。若い娘のように見えるが丸髷を結っているので既婚者と分かる。失意の写真なのか、名古屋で気分転換なのか。
- 2012年04月03日(火)22時15分 この記事のURL
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- 小栗照夫
謎の多い尾鷲からやって来た藤八
藤八小話①
藤八坊ちゃまは謎だらけの子供である。わずか13歳で石川藤八家に養子として入ると同時に、七代目藤八を直ちに相続しました。藤八の養父は稲生さん。養母は松本さん。出身は尾鷲。本当のお父さん、お母さんの名前は分からない。何なんだこれは。謎に満ちた生い立ちである。そして、終生、本名は松本市松のままなのである。彼の顔は海の男の顔だろうか、それとも高貴な人の落とし胤の顔をしているだろうか。
早くから家を継いだのだから、後継者を期待して早く結婚したかというと、この時代としては晩婚の32歳。しかも嫁さんは一歳年上の33歳。それも六代目の妻、すなわち義母の姪である。七代目藤八は運が良い生涯だったのか、周りの大人に振り回された生涯だったのか、さっぱり分からない。
藤八の結婚は明治29年である。それは佐吉が後妻の浅子と暮らし始めてしばらくの時期である。藤八は佐吉に刺激を受けたのだろうか。うらやましく思った藤八に義母は渡りに船と行き遅れの姪を押し付けた。うーん、ありうるかも。これは我ながら面白い発想だ。
* 写真は七代目石川藤八こと松本市松
- 2012年03月22日(木)22時20分 この記事のURL
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- 小栗照夫
佐吉先生は引っ越し魔?
佐吉小伝⑩
佐吉青年は遅く来た反抗期なのか、二十歳頃に山口村の実家を飛び出して東京へ行ったり、横須賀へ行ったりしました。まだ飽き足りなくて豊橋の叔父さんち、尾張、知多の機屋(はたや)さんちでの居候も経験しました。東京浅草外千束での結婚生活は長続きせず破綻。その後は豊橋、名古屋、知多郡乙川村と次々と住む所を移しました。
発明家としてデビューした後の佐吉先生は、名古屋市内を分かっているだけで11回も転居しました。その中には今の名古屋駅前、ミッドランドビルのある場所に工場兼住居を建てたこともあったのです。
これで落ち着くかと思えた佐吉大将は本気でアメリカに住むことを考え渡米しました。その考えも一段落したように思えた佐吉大将は全員の反対を押し切り「障子を開けてみよ、外は広いぞ」と言って中国大陸は上海へと行ったのです。佐吉青年から、佐吉先生、佐吉大将まで生涯で30回を越す引っ越しをしました。ちなみに、佐吉の後半生はみんなから「大将」とか「大大将」とか呼ばれていました。
葛飾北斎は93回、ベートーヴェンは80回の引越しをしたそうである。それと較べると佐吉大将、回数は負けています。だが、片や芸術のため、片や発明のためには住居などはどこでもいいということなのでしょうか。
* 写真は、今はそのなごりもない佐吉大将の名古屋長塀町の邸宅
- 2012年03月11日(日)13時44分 この記事のURL
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- 小栗照夫
佐吉先生は何度でもだまされる人
佐吉小伝⑨
従兄弟の森米治郎と親戚の伊藤久八が企てた鉄道の枕木を陶製でつくるというトンデモ話に佐吉先生は乗ってしまいます。糸繰返機での儲けが淡雪のごとく消えました。そんな伊藤久八に、豊田代理店伊藤商店というおかしな名をつけた店をまかせました。結果は久八の使い込みというものでした。
藤八の援助で発明家としてデビューした佐吉を三井物産は井桁商会の技師長として招きました。はっきり言えば利用でしょうか。そして、発明至上主義の佐吉先生は利益優先の三井とは全然合わなくて、怒って止めてしまいました。
次に、三井は豊田の名前を入れた国内最大級の「豊田式織機株式会社」をつくり、またしても佐吉先生の勧誘にまんまと成功。だが、発明だけが命の佐吉先生は、再び三井の思惑とぶつかってしまいました。今度は、三井の方が佐吉先生の首を切ってしまいました。
ところが、佐吉先生は懲りないのです。長年の夢である中国大陸への進出に対して、またも三井のバックアップ(陰の声、そそのかされて)で上海へ進出。だが、これがなんと大成功。人間というものは幾つになっても懲りないものであるが、夢を追い掛けることも大事なのでしょう。天才には。
* 写真は豊田佐吉先生の上海のお宅です。この大邸宅が大成功の証拠です。
- 2012年03月07日(水)20時15分 この記事のURL
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- 小栗照夫
佐吉は毎夜、錦三の常連
佐吉小伝⑧
佐吉先生はお酒が大好きでした。タバコは敷島というように、好きな酒の銘柄が伝わっていないところをみると、何でも良かったんでしょうね。だが、佐吉先生の酒の量はすごい。一升飲んでも二升飲んでも形を崩しませんでした。うそではありません。「豊田佐吉傳」にちゃんと書いてあるのですから。
佐吉先生はどうも一人ではあまり飲まなかった。いつも石川藤八、服部兼三郎という仲間といっしょだった。名古屋でいつもくり出す定宿が富澤町4丁目の「花月」。二日でも三日でも泊り込み、腰を据えて飲んだというから、三匹の「うわばみ」というところか。
富澤町4丁目は今の三菱東京UFJ銀行名古屋店。めんどくさいね、旧東海銀行本店の東のあたり。そうです。お父さんたちが大好きな錦三です。佐吉先生、藤八だんな、服部若社長が錦三で大酒をかっくらっていたのです。しかし、お父さんたちと違って上司や女房の悪口などは決して言いません。「わが国を良くするには、立派な織機を・・・」と言いながら飲んだんですぞ。
* 写真は明治43年の広小路通り栄町、「名古屋広小路ものがたり」より(佐吉たちが飲み歩いていた頃、結構にぎやかです)
- 2012年03月03日(土)23時42分 この記事のURL
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- 小栗照夫
佐吉が好きなタバコは敷島
佐吉小伝⑦
15~16歳まで従順な明るい少年であった佐吉はタバコなど口にしなかった。絶対しなかった。多分してない。おそらくしていない。かな。その後の山口夜学会の勉強会では、大人のマネして勉強の合間に、ちょっとだけよ。が、あったかも。何時の時代も若者は大人ぶってみたいものである。満二十歳の春に、軍隊へ志願して徴兵検査に行ったが、幸か不幸か「抽選のがれ」になってしまった。もしかすると、その時に煙草をもらっちゃったかな。軍隊ちゅうところは、兵隊にタバコを支給して「タバコ吸い」を増やして、そこから税金を吸い上げるのだ。
明治31年になって、国が民間業者から取り上げ、タバコを専売にしてしまった。佐吉が好きなタバコは敷島である。敷島は明治37年に日露戦争の戦費調達の目的で発売されたもの。それじゃー、佐吉はその前は何を吸ってたんだい。佐吉はキザミ煙草が旨いぞと浅子夫人に勧めたこともあった。
敷島は寺田寅彦が「恐ろしく紙くさい」と言ったとか。敷島はインテリ、朝日は労働者に好まれたようだ。だが、夏目漱石は朝日が好みだったと聞くと、好きにしてちょうだいということになる。ともかく、タバコを吸わないオイラにはどうでもいい話でした。
* 写真は明治後期発売の敷島のパッケージ
歩く歩くどんどん歩く佐吉
佐吉小伝⑥
佐吉少年はとにかく歩いた。12歳の時は故郷の山口村から岡崎の岩津天満宮まで、丈夫な体になるようにと祈願のため歩いた。直線で約50km、往復では徒歩で150km以上はあるだろう。こんなに歩けられれば健康は太鼓判である。19歳の時には、これは江戸時代じゃないかと思うような話がある。東京まで徒歩で往復している。その時は東海道線がまだ全線開通していなかった。だが、もし開通していたとしても、そんなお金がなかったので歩くしかなかっただろう。
尾張各地に残る話も、青年佐吉がふらっと歩いてやってきて、しばらく滞在した後に歩いて名古屋方面に帰っていったというものである。稲沢には青年佐吉が北の方から歩いてやって来て、四辻の角の石に腰を掛け一服したというものまである。
もちろん、青年佐吉の財布には充分なお金が入っていなかったので歩くしかなかったのが事実に近い。佐吉は、ともかく歩くことが好きだったのだろうか。発明が好きだったように。
* イラストはポプラ社「豊田佐吉」より、佐吉が友達の佐原五郎作と東京へ行った時のイメージ
- 2012年02月26日(日)00時25分 この記事のURL
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- 小栗照夫
佐吉親子は超奥手でそっくりさん!
佐吉小伝⑤
佐吉くんは子供のころ毎日、凧上げやカイボリ(カイドリ)で遊んだ。ちょっと道から取れる実を仲間とイタズラで取っただけだが、柿どろぼうをしたかもしれない。どうもお勉強が好きで、よい成績をとった話はないようですね。一方、喜一郎お坊ちゃまは小学校時代、成績があまり良くなかった。おとなしくて目立たない男の子でした。
佐吉くんは十代後半になり、突然に勉強し出した。それ以後は理解不能なくらい発明だけにのめり込んだ。その結果が発明王。日本十大発明家の第一番。喜一郎坊ちゃまの方は旧制の高校受験に失敗。だが、東京帝国大学に合格。そして、喜一郎息子さんの人生の大半は会社が傾きそうになるまで資金を使って自動車開発に没頭。その結果が大自動車メーカーをつくり上げた。
佐吉と喜一郎親子は酒が強くて、ヘビースモーカー。じいちゃん、ひいじいちゃんは大変長寿なので、長寿の遺伝子を受け継いだはずなのに。病気は高血圧。二人ともこの病気で倒れる。この親子はタバコの煙の中で発明に命の火を燃やし尽くした。
* イラストはこども伝記豊田佐吉「柿どろぼう」の場面より
佐吉のおじいちゃん
佐吉小伝④
佐吉のお父さんが佐原姓であったことに、疑問を持たれている方がおられるようです。ぜひ、そういう方は「はんだ郷土史往来2号」に詳しい系図を載せてありますので、お買い上げをお願いします。
佐吉のお父さんの伊吉は次男、長男は佐六、三男は伊平と言う。この兄弟の父、すなわち佐吉のおじいちゃんは佐原佐平、その上のひいじいちゃんは佐原兵蔵と言い、代々佐原姓です。
伊吉の兄の佐六が佐原本家を継ぎ、三男の伊平は市場地区の佐原兵衛家へ養子に行き、やはり佐原姓を名乗ります。佐吉の父の伊吉のみが豊田吾吉家の新家を引き継ぐ形で豊田姓を名乗ります。
佐平じいちゃんの職業までは分かりません。だが、佐吉のお父さん伊吉が大工を始めたことは確かであるので、おじいちゃんはおそらくお百姓さんだと思います。このおじいちゃんで唯一分かっているのが、生年と没年である。1811年(文化8年)生まれで亡くなったのが1897年(明治30年)、実に満86歳である。
ということは、佐吉が乙川で力織機を発明したころまで、健在だったということです。残念ながら、この長命の佐平じいちゃんについて書いた書物は全くないようです。
* 画像が悪いですが、この人が佐平じいちゃんです。
- 2012年02月15日(水)20時23分 この記事のURL
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- 小栗照夫
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