記事一覧

2018.08.10

 酷暑お見舞い申し上げます

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 連日の体温を超える暑さ。尋常ではありません。
 公園の蝉も「アジィー、アジィー」と鳴いています。

 そこで暑気払いに小さなプレゼント。
 挿絵を見て、少しはゾッとしてください。

 では、・・・・・。

2018.07.16

 知多半島は天領だった

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 半田市民憲章講演会に呼んでいただき「知多半島はふしぎな国だった」を講演した。150席が満席。立ち見が出た。嬉しい、ありがたいことだ。
 「知多郡は地理的には尾張国だが行政的には違う。尾張藩札も使えない幕府直轄地。つまり家康の国なのだ」
 と再々、あちこちで話してきた。
 どこで話しても、どうも反応が悪かった。つまり知多半島の人(半田の人は特に)は、「ここは尾張名古屋の支配下にある」と思い込んでいたようだ。だから、ぼくの論説には冷たかった。
 相当に物的証拠を示しても信用したくない、ようだった。

 ぼくは知多半島が尾張国だろうが三河国だろうが、幕府直轄地だろうが構わない。どうぞお好きに、と言いたいとさえ思っていた。

 ところが今回の講演会は反応が違った。ご聴衆の多くが頷いている。頷いているのだ。
 どうもぼくは良い気持ちになって、ノっていたようだ。
 妻の優子は「今日の講演はここ数年で一番良かったよ」と言う。
 ともかくぼくの主張(調査)が通用してよかった。
 「知多半島は家康の国、つまり天領なのである~っ!」。

2018.07.10

 豪雨災害・被災お見舞い そして雑感

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 西日本の豪雨災害により被災された皆さまに謹んでお見舞い申し上げます。
 一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。

 西日本の豪雨災害のテレビのニュースを見ていて「広島県三原市も被災、死者も出た」を耳にした。三原市はぼくが東海近世文学会でお世話になっている島田大助先生(豊橋創造大学教授)のご実家のあるところ。島田先生には当会の3月例会にもおいでいただきご講義を願ってもいる関係だ。
 メールを送り、ご実家の安否を訊いた。大災害だから無事ということはないのだが、特段の被害はなかったという。一安心であった。

 その後、ぼくがこんなメールを送った。
  ○
 天変地異の猛威への恐怖は直面したものしか分かりませんね。テレビで見る被災現場も凄いですが、所詮、他人事です。ぼくは阪神淡路大震災の被災者ですので(軽度ですが)他の災害を見るたびにあの猛烈な揺れの恐怖を思い出します。
 ついでに思い出すのがこれ。
 震災は平成7年1月17日。その週末の22日に博多で講演の仕事が入っていました。
 先方の主催者は再々連絡をとろうとしたようですが、2、3日は電話は不通。数日後、ようやく電話が通じた。だが先方の心配はぼくが来るのか、講演が予定通りできるかどうかばかり。「こんな大震災も案外、他人事なのだな」と痛感。
 そして当日、大阪から博多まで山陽新幹線は不通。山陰線廻りはあったのですが乗り換え、乗り換えで気の遠くなるような時間がかかりそう。そこで名古屋まで戻り、小牧から飛行機で博多へ行きました。
 指定のホテルに着くと先方の担当さん。「関西は大変ですね・・」と儀礼的なお見舞いのあと、「博多は水不足で大変なのです。このホテルも夜の11時以降はお風呂に入れません。不自由です。不自由です。」と嘆くことしばし。
 風呂ぐらいなんだい、ぺちゃんこの神戸の街を見せてやりたい、と思いました。
  ○
 このぼくのメールに島田先生から返信。(これは島田先生に無許可での掲載です。多少は人の災害意識の啓発になるものと強引に思い・・、叱られないことを祈る)
  ○
 私(島田)も同じような経験をしました。
 阪神淡路大震災後の2月に友人の結婚式に参加するために三原から東京へ行きました。飛行機は満席、結局、神戸の市内を一部、バスと徒歩で移動し、東京へ行きました。9時間くらいかかったと思います。
 結婚式に参加し、移動が大変だったと話したところ、友人の新郎から、何かあったっけという返事が返ってきました。別の国にきた感じでした。

 どんな大震災も他人事なら痛みはない。対岸の火事。
 別に教訓めいたことを言うつもりはないが、他人の痛みを己の痛みと思えるようになりたいものだ。これは、ぼく自身へのメッセージでもある。
    *写真はぺちゃんこの当時の神戸

2018.07.09

 知多半島は全国有数の陰陽師の郷

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 拙書『吉原はこうしてつくられた』(新葉館出版)で新吉原遊郭をつくった主導者の一人が陰陽師・土御門家だと書いた。そして、知多半島は全国有数の陰陽師の郷だと書いた。
 言うまでもなく、私が思い込みで書いたものではなく、ちゃんとした資料や史実に基づいたものだ。その点は自信を持っている。

 しかし、これを読んだ知多半島の多くの人は拒否反応を示しているようだ。あるいは反応をあえて表さず無関心を装っている・・・ように見える。
 なぜだろう。
 陰陽師は優秀な頭脳をもち、代々続く経験値に培われた学識と分析力により「博士」と呼ばれる人たちだ。秀でた天文学、地理学。高い建築土木技術もある。
 そんな陰陽師たちが秀吉によって京や畿内から追われ、木曾三川の下流域に。そして知多半島北部一帯に住むようになったのだ。
 そこで集落をつくった陰陽師たちは、いつか周辺の土着の村々と一緒になり、やがて指導的な立場になっていったのは当然の流れであろう。新田開発、尾張万歳、黒鍬衆。そこにははっきりと陰陽師の顔が見える。影ではない顔である。
 そして陰陽師は各村々、多くの村人と共生し、地域に革新的な知識や技術を伝え、知多半島繁栄の一端を担ったのである。

 妙に小難しく書いてしまったが、「陰陽師は凄い知識人なのだ」「陰陽師は知多の村々に貢献したのだ」「陰陽師は怖い人ではない」。
 そう力説したいのだ。

○写真は尾張国の陰陽師組織。知多郡北部に集中。
○今も知多市にある陰陽師だけの神道墓所。広い墓所だ。

2018.06.27

 半田市民憲章講演会「知多半島はふしぎな国」

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 ありがたいことに6月に「社会を明るくする運動」で榊原弱者救済所の話をしろと呼んでいただいた。今度は7月7日の半田市民憲章講演会に招いていただいた。
 半田や知多半島の郷土史の話がいいというので「知多半島はふしぎな国だ」を話すことにした。
 あっと驚いた。こんな立派なチラシを作っていただき、各所の配られていたのだ。講演や卓話には随分と行っているが、ぼくの写真がこんに大きく入るチラシを撒かれたのは今まであっただろうか。恥ずかしい限りだ。いつもは写真は入っても小さな顔写真。こんなに大きいのなら髪を黒く修整してほしかった(笑)。

 知多半島は半田の方々が思い込んでいるような尾張藩内の国ではないのだ。実は家康の国、つまり三河国なのだ。
 この件、はんだ郷土史研究会の講座で話した時にも反発に近い反応があった。そして丁寧に丁寧に説明を続けても、「しょうがない…、そうなのかもしれない…」程度の納得だ。いわば身内といえる当会の会員でさえそうなのだから、不特定多数の半田市民がどう反応するか…、実は明白なのだ。
 
 知多半島はふしぎな国だ。こんな小さな半島から全国的な偉人を多く、多く輩出している。
 経済人が凄い。画期的な改革思想が凄い。あの江戸・新吉原遊郭だって知多の人が造った。
 そんな不思議を丁寧に話すつもりだが、ボコボコに叩かれるか、冷たい目で見られるか、覚悟はしている。
 先着150名。入場無料。お暇があれば冷やかしに来てほしい。

2018.06.12

 社会を明るくする運動 半田市講演会

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 社会を明るくする運動(社明運動)は昭和24年(1949)に東京の銀座で始まったという。
 当時の銀座は終戦後の混乱で治安が悪く、無法な者が街にたむろして市民に害を及ぼしていた。それに困った銀座の商店街の人達が立ち上がり、地域のチカラで犯罪や非行をなくし、健全で明るい街をつくろうとしのだ。すばらしい民間人のチカラである。この運動が「社明運動」と名付けられて各地に伝わり、今年で第68回を迎えたという。
 
 ところで、「犯罪や非行を防止し、刑期を終えて出所した人たちを支えて立ち直りさせる」という活動はどこかでもあったよね。そう、榊原亀三郎の救済所の活動そのものだ。亀三郎がこれを行ったのは明治32年(1899)、銀座より50年も前のことだ。別に本家争いをするつもりはないが、もっと地元では誇るべきではないのか、と力説したい・・・・・、
 この講演会に演者として呼ばれた西まさるがそう沫を飛ばして話したのである。

 演題は、「半田で生まれた日本最大の民営救済所 ー地元民が支えた榊原弱者救済所ー」とした。
 会場には120名を超える方々が来場。補助席が設けられる盛況だった。

 写真①は、内閣総理大臣からのメッセージの伝達風景。伝達するのは、法務省名古屋保護観察所・酒井宏課長。受け取るのは榊原純夫半田市長。 写真②は、講演中の西まさる。

2018.06.02

 『吉原はこうしてつくられた』書店風景

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 『吉原はこうしてつくられた』が全国発売されて一週間。おかげさまでぼつぼつ動いているようだ。(動いている=売れている=業界用語)
 写真はくまざわ書店浅草店さんの店頭風景。良い眺めではないか。われながらうっとりする。(笑)
 江戸・浅草コーナーとはいえ、2面の面差し(表紙が見えるように棚に並べる=業界用語)は書店がこれは動く、とみた証拠だ。
 何とかこのままがんばってほしい。
 そうすると、やがて増刷。そして重版出来(じゅうはん・しゅったい=業界用語)となる・・・はずだ。

 また、アマゾンもランキング上位で健闘中だ!

 どうぞよろしくお願いいたします。(ペコリ)

2018.05.28

 「ふるさと講座」5月例会 「清水次郎長と知多半島」西まさる

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 当会「ふるさと講座」5月の例会を開催。通算154回。よく続いているものだ。
 思えば、平成15年の秋、ぼくが知多半島をウロウロしている際、ふとしたことから清水次郎長が知多半島でヤクザ稼業を始めたことを知った。「次郎長は清水の男じゃないのか」てな、どうでもいい疑問から次郎長探索が始まったのだ。それが「はんだ郷土史研究会」の始まりに繋がっていった。
 と言っても、ぼくが同会を創ったわけでない。「やろうよ、やろうよ、やりたいよ」と言った人が6人。その6人が創立者だ。
 ぼくは他所者、ついでに言えば彼らのような強い郷土愛もない。だが何となく事務局次長のようなことをさせられていた。まぁ、それも嫌いでないから、お手伝いをしていた。

そしてその6人が次々とリタイヤ、誰もいなくなった。

 でも毎回、例会に熱心に参加する人が6~70人も残っている。毎月第3日曜には休まず例会も参加して来る。嬉しいやら困ったやら。
 会長がいなくっても会員はいるのだ。(但し、会費制をとっていない。そんな会だから、それも会員かな?)
 そんな会員たちに押されて、何となく続けて14年、昨日は154回目。出席は80名。

 そんな14年前の思いもあって、「次郎長と知多半島」を話した。意外に知られてはいないが次郎長の女房も養女も今の半田市乙川村の人だ。大政も鶴吉も鬼吉も勝五郎も知多の人。次郎長の第二の故郷は知多半島なのだ。

 もう1コマは「成岩城と城主・榎本了圓」。赤江清功さんが資料を集めてくれた。さらに「成岩城の攻防」の民話を朗読してくれた。
 そして了圓の居た常滑・金蓮寺を森下高行さんが丁寧に調べてくれた。現地に度々通ってくれたことが分かる。
 森下講座はとても彼なりの仮説・結論まで論が及び、とてもよかった。
 さらに新美昇さんが自らが信徒である時宗(了圓は時宗の僧)について丁寧に説明してくれた。
 また、小林勇さんが「成岩城」をイメージして大きな絵を描いて来て、みなさんにご披露してくれた。
 こんな手作りの講座をみんなの力で続けていきたいのだ。

2018.05.17

 『吉原はこうしてつくられた』 ようやく出版

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 「新吉原遊郭をつくったのが南知多の人」、を知ったのが平成15年。それをまとめ『知多半島郷土史往来』などで論文発表できたのが平成26年。ここで少し話題になり、単行本にすべく調査を重ねていると、とんでもないものが飛び込んで来た。「陰陽師」である。

 吉原遊郭は陰陽師により、陰陽五行の原則にそって造られていたのだ。
 町の造りもそう。「見返り柳」もそう。「五十間道」もそう。なんと、あの花魁道中の花魁の歩行法もそうだったのだ。
 それを突き止めた。そしてこれは江戸吉原の定説を覆すものだから相当慎重に裏をとった。エビデンスを求めた。

 それに3年かかった。
 ようやく刊行する。『吉原はこうしてつくられた』(新葉館出版)西まさる著である。

 江戸吉原の新しい歴史がここから始まった! と大見得を切っておきたい。
 さて、さて。

 全国配本は5月23日という。定価1,500円+税

2018.05.07

 芦原温泉の「べにや」が燃えてしまった

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 辛いニュースが入ってきた。芦原温泉の老舗旅館「べにや」が全焼した。ニュース番組で見た。You Tubuでも見た。赤い炎が大きな屋根を破って燃え上がっていた。

 「べにや」は、ぼくの金沢の実家の祖父が贔屓にしていた旅館。子どもの頃のぼくも連れてきてもらったことが何回もある。
 それからぼくが社会人になり東京や大阪に勤めていた頃、帰省の際に何度か泊まっていた。家内とも何度か泊まった。
 小学校低学年の頃の娘を連れて行ったことがある。子どもはお子様料理である。ところが娘、自分に出された料理はそっちのけで、ぼくたちの料理を食べること食べること。余程美味かったのだろう。呆れるほどだった。娘が生まれた初めて食べた本格的な会席料理がこれだった。
 そんな思い出がいっぱい詰まった旅館である。

 半田の住人となって一度、家内と泊まりに行った。その時の実感。「こんな高い店だったのか…」。もう貧乏したぼくには行ける店ではなくなっていた。それはそうだ、天皇陛下や石原裕次郎が泊まる店。ぼくらのクラスでも二人で10万円近くはいる高級旅館なのだ。もう高嶺の花だ。

 でもどこかに、「ぼくのべにや」があったようだ。
 昨年、榊原弱者救済所をあわら市の保護司会さんが視察に来られた。いつものようにぼくがミニ講演をしたのだが、その際、「祖父の代から、べにやが常宿」と言うと、あわらの方々から、ホウーという声が漏れた。ちょっと自慢だった。
 昨月、芦原温泉に一泊した。べにやには行けないのでリーズナブルな店にした。その晩、仲居さんが「お客様は芦原は初めてですか」と言うので、「いやいや祖父の代からべにやの客だよ」と言うと、仲居さんの態度が変わった。「べにやの馴染みの上客」に見えたのだろうか。
 そんなブランド力があの老舗旅館にはあったようだ。

 そんなべにやが燃えちゃった。
 追悼の思いを込めてここに書いておく。

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