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2010.09.05

 幕末遺産・大井の烽火台で見えたもの

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 10月8日に「知多半島研修バス旅行」をする。観光バス1台分の定員がすぐ埋まった。うれしいことだ。
 今回は南知多方面。(武豊→大井→内海)の旧跡を廻る。ちょっと勉強しながら、ちょっと遊ぶ。「ちょっと知的な観光旅行」を目指す予定だ。
 下見に行った。
 会長の伊藤さん、運営委員長の廣川さんとの3人。気のあった仲間だから遊び感覚。これはこれで楽しい。
 写真の「大井」は幕末、黒船来航時に名古屋城に緊急を知らせる「狼煙」を上げるための「烽火台」のあった場所。
 この近く、師崎の見張り所で黒船を発見すると、大井→美浜→武豊→亀崎→緒川→大高と狼煙をリレーして名古屋城に伝達するもの。
 烽火台は出来たが、実戦は一度もなかったという。

 この日は快晴。前方に見えるのは三河湾。その右手は渥美半島沖につながる太平洋となる。左には武豊方面、すなわち名古屋方面が霞んで見える。
  
 ここで上げた狼煙は充分に武豊で目視できるはずだ。武豊で亀崎に向けて上げた狼煙もはっきり見えるようだ。
 想像をめぐらせば名古屋城に向ける伝達の狼煙が5本、いや6本と見える。
 「すわ! 一大事じゃ!」。
 馬を走らす武士が見える。慌てふためく農民が見える。ゆっくりと航路を江戸にとる4艘の黒船が見える。

 「おお~い、行くぞ」と伊藤さんがぼくに呼びかけるまで、幕末の夢を見ていたのであります。

2010.08.21

 喘息2

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 かつて、喘息は母源病だと、マスコミで声高に主張していた名古屋の高名な医者がいた。「母親が子供をむやみに甘やかすから、それで子供が母親に依存的になり喘息が出る」という理論である。最近では全く聞かない。医学的でも何でもない理論を振りかざした医者を何の検証もせず、マスコミが垂れ流したのである。今でも多くの人が信じている血液型やマイナスイオンと同じである。
しかし、現在でも喘息に有効であるとされているゾルガナール注射というものがある。これは金をゾル状にしたものを注射で打つのである。私はこの療法を規定の3倍ほど打った。私の体は相当量、金で出来ています??!!
 だが、喘息がやっかいなのは、精神的なものと関連が深いからである。人によっては、叱られたりいやな事に会うと喘息発作が起きたり悪化することもあるからである。そして、喘息持ちの子供は体が弱いので、腹筋を鍛えたり乾布マサツが良いと言われ、実行する。しかし、これが逆効果になることも多い。なぜならば、喘息の原因は気管支の粘膜の炎症である。運動によって、炎症が刺激を受け、かえって喘息を誘発してしまうこともあるからである。
 現在では治療の第一選択はステロイド吸入剤である。そして吸入薬(β刺激薬)と飲み薬の気管支拡張剤をうまく使うことである。私と同病の方々の健康をお祈りしております。 おわり
 * 写真はステロイド吸入剤

2010.08.18

 喘息

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 最近でこそ、喘息は子供の病気であるというイメージが定着してきた。だが、私が子供の頃はお爺さんの病気と言われていた。当然、原因はよく分かっていなかった。そのため様々な治療があった。空気の良い所へ行く転地療法などはまだまともな治療であったが、死ぬ可能性もあった電気ショックで直すとか、万能薬?アロエの成分を注射する治療などは今から考えると「まじない」と大差ないものであった。今でも「藁をもすがる」気持ちにつけ込んだ怪しい民間療法があるが、私がかつて実際に経験したのは、アマガエルを生きたまま飲む、或いはロウソクの横に垂れ下がった蝋の部分を飲むというものである。後者はある山岳宗教でのものである。
 大西洋の真ん中に浮かぶ300人程のイギリス領の島では島民の3割~5割くらいの人が喘息であり、世界一喘息患者の率が高いところとして知られている。だが、未だに遺伝であるという確かな証拠は見付かっていない。
 喘息で亡くなったとして有名なのは「李陵」や「山月記」の作者の中島敦である。そして、多くの方がまだ記憶している歌手のテレサ・テンも喘息に苦しんでいた。   つづく
* 写真は中島敦

2010.08.11

 終戦の日の東京

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 終戦の日の東京の写真があった。
 一面の焼け野原に国会議事堂だけが妙に堂々と建っている。
 何とも言えぬ寂寥感が漂う写真。
 ここから平和が始まったのだが、焼け跡に若芽が芽吹くように人々はゆっくりと立ち上がったのだろう。
 昭和20年8月15日。その日こそ平和の誕生日だったわけだ。

 その65年後の今年、平成22年8月15日。「終戦の日・特別講座」を開講。『例会・ふるさと講座』に詳細。
 ご一緒に「玉音放送」を聴いてみませんか。また、違ったものが見えるかもしれません。

2010.08.05

 ヒロシマ

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 原爆投下後、消えた広島市。その市街地の写真。
 この時期になると書架から、古い雑誌(文藝春秋)を取り出し、この写真を見る。
 すごい! 一発で大都市が消えた。
 ……。

 高いところからの望遠写真だから地上の詳細は見えないが、地上は地獄絵そのものだろう。
 ……。

 「過ちは繰り返しません――」。
 本当やろうな! 

2010.07.27

 いまこそ、大碇紋太郎

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 迷走する大相撲界は滑稽なほどだ。
 当初は特権階級意識を丸出しに「バクチをしたやつは申告しろ罪は問わない」と、相撲協会が法律だ! の勢いだったが、雲行きが怪しいとみると慌てて琴光喜を強引に首切り。
 琴光喜はいったい何の罪で一方的に解雇なのだろう。たぶん一般的な裁判をすれば琴光喜は無罪で職場復帰を認められるだろう。

 そんなことはどうでもいいが、大相撲界とヤクザ社会は密接な関係だったことは周知の事実だ。
 江戸時代まではお相撲くずれがヤクザに―、は規定路線。そして相撲興行が収入源だった。
 全国に網の目のように張り巡らされる侠客ネットワークを頼りにお相撲さんは地方巡業に行き、生活を維持できた。
 荷車を引き、何十人というお相撲さんが歩いて巡業の旅を続ける。相撲甚句を歌いながら、次の興行地に入る。そこに元力士のヤクザ家業が迎えて歓迎。地元の人々はたまにみるお相撲さんに目を輝かせる。そしてハッピーな時間が構築されていた。これは反社会的行為ではないはずだ。
 しかし、そうした2百年も3百年も続いた「いい関係」がどこかでおかしくなったようだ。
 ヤクザと相撲界の関係を何も奨励するわけではないが、「悲しき横綱の生涯 大碇紋太郎伝」が描く明治時代の大相撲界はそれなりの規律や秩序を保った興行ルールで成り立っていた。
 そこには「反社会的勢力」などとう、ややこしい勢力はない。それを古き良き時代などというと、白い目で見られるかもしれないが、「古き良き時代」を反芻することも今の大相撲界では必要かとも思っている。

2010.07.18

 昭和20年8月15日 玉音放送の時

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 終戦の日。「その日その時、あなたはどこで何を」。
 はんだ郷土史研究会がアンケートをとった。集まった数は5百通弱。当会会員のほか、半田市内の老人会さんのお世話になった。
 「玉音放送を当日聴いた」という人が約280名。工場で、役所で、学校で、家のラジオで。さまざまな場所で終戦の詔勅を聴いていた。
 終戦より65年を経ているのだから、ご記憶も曖昧。また、はっきりと記憶されている人は80歳を過ぎているのだから無理もない。「なんとなく」「ぼんやり」の記載が目につく。
 それでもいい。あの戦争は何だったのかを思い出す切っ掛けにはなったようだ。
 当日、「日本が負けるはずはない」「日本はどうなるのだろう」と思ったという感想に交じって、「もう空襲はない喜び」「灯火管制がなく明るかった」「青空がまぶしかった」「大人たちも一晩泣いたが、次の日はけろっとしていた」など平和を喜ぶ気持が書き連ねられる。
 出産を控えたある女性は「防空壕でお産をする覚悟をしていたので…」。また、ある女性は「米軍に何をされるかわからないから、髪を丸坊主にすると言われた」。
 この企画は戦争の是非を問うものではない。しかし、数々の答から、強いものが弱いものを追いまわし、弱いものが必死に逃げ回ったのが戦闘というものであったことが、わかった。
 この8月15日(日)当会の『ふるさと講座』でアンケートの発表。体験談の発言。さらに終戦当日の「玉音放送」をアナウンサーの司会、解説の模様も含め、フルに再現したものをお聞きいただく。雑音も除去してある。
 65年前に聴いた方はそれを思い出すだろう。聴いていない人はゼッタイに聴くべき「歴史的な放送」である。
 ご参加を強くお勧めする。

2010.07.15

 大相撲名古屋場所

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 大相撲の名古屋場所が開催されている。だが肝心の相撲の方は盛り上がっているのか、盛り下がっているのか分からない。テレビ中継をNHKさんがしてくれないから。僕はちゃんと受信料を払っているし、せっかく大枚をはたいて地デジにしたのに。暇な時はテレビでお相撲を見るのを楽しみにしているんです?!
 まあ、何時でも暇だから、見ようと思えば遠慮なく何時でも見えるのだけれども。
 小さい頃はテレビでお相撲をよく見た。初めて見たのは、市役所の出張所に置かれたテレビだった。街頭テレビ?のようなものだったかな。小学校の低学年だったので、背の高いお兄ちゃん達が前にいて見るのに苦労した。人と人の隙間から見た。東富士とか千代の山の時代だったかな。どうしてか分からないが、私は太鼓腹の鏡里が好きだった。その後は若乃花より栃錦、大鵬より柏戸を好きになった。
 一人のんびりと昔のことを懐かしがっているが、どうも今の大相撲にはそんな余裕は全くないようだ。これからの大相撲が良くなるか悪くなるか賭けをしようか。そんな冗談も笑い飛ばせるようになってほしいものだ。
* 写真は第四二代横綱 鏡里 (日本相撲協会)

2010.07.12

 知多郡受刑人名簿

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 古文書は未知のことを教えてくれる宝箱だ。ワクワク、ドキドキしながら古文書の前に座り込む気分は何ともいえない。

 「榊原弱者救済所」に関連する史料を探している時、こんなものを入手した。「知多郡受刑人名簿」だ。
 時代は明治後期のもの。知多郡の受刑人(刑余者)を網羅してある。番地まで詳細な住所、氏名、性別、身分、そして罪状。差別意識も情報保護意識もない時のものだから、そのまんまの記載だ。
 記載されている人の数は1千数百余名。当時の知多郡の人口は8万人にも満たないのだから、かなりの割合で「出獄人」がいたことになる。そんな時代だったのだろう。
 如何に100年前のものといえど、オープンにはできない史料だが、1ページ、1ページめくっていくと明治の匂いとともに、人の暮らしと葛藤が、ぼんやりと見えてくるから不思議だ。
 それは社会病理というものが雄弁に時代を語ってくれるからだろう。
 

2010.07.08

 山本梅荘という無名の巨匠

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 明治後期から大正にかけ、日本の画壇の最高峰にいた有名画家に山本梅荘がいる。半田の人である。
 芸術家がどれくらい偉いかの判断基準は難しいが、彼は当時の文展(今の日展)審査委員。他の審査委員には、竹内栖鳳、河合玉堂らそうそうたる面々がいた。そんな位置にいたことを勘案しても一流の画家だったことは間違えない。

 その竹内栖鳳や河合玉堂は今も「売れっ子」で、「開運お宝鑑定団」でも高値がつくほどだ。しかし、梅荘は無名。栖鳳の画が1千万円の値が平気でつくが、梅荘はせいぜい10万円と聞いた。100分の1の値打ち? 
 日本画(南画)が衰退したから? それもあるが梅荘と同時代に人気を分け合った横山大観や岡倉天心がビックネームのままなのに、なぜ梅荘だけが… と言いたいのだ。

 いろいろある原因の大きな一つは、地元が梅荘の顕彰をしなかったということにある。これだけの画家が地元でも無名に近い存在なのに首を傾げるのは、ぼくだけではあるまい。

 「はんだ郷土史だより」で、山本梅荘一門を2回、特集した。事務局にも5、6本の問合せ電話が入った。多くは「梅荘の作品を持っているが、幾らくらいだろう」というものだが、それでもいい、梅荘に注目をしてほしい。
 もっと早く、半田市の名誉市民にするとか、梅荘記念室を作るとか、そんなことをしていれば、梅荘の値打ちも維持できた。すなわち、画の値段も下がらずにすんだのにね。
 画の値段は画家の人気度に比例する。梅荘の値打ちを上げようとするなら、「梅荘コール」が手っ取り早い。
 ちょっと言い過ぎたかな。

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