記事一覧

2018.10.08

 榊原弱者救済所も台風被害

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 10月2日、名古屋市天白区の更生保護女性会のみなさまが36名、榊原弱者救済所跡の見学に来られた。
 先月から3件・3団体がみえている。こうして少しでも榊原亀三郎と救済所の意義が伝わっていくことが嬉しい。

 現地での説明は保存会の前田理事や田中会長。それから鴉根区民館に移動して西が小1時間卓話をさせていただく。これがいつものパターンである。

 この日、現地に行ってびっくり、数日前の大型台風で史跡公園の竹が根元からひん曲がり、すでに赤茶けて枯れそうになっている。
 あの強い竹でも耐えられないほどの強風だったのだ。
 ご覧いただきたい。これでは廃墟だ。竹は丈夫だから蘇生する?
 どうしよう…。 悩みが増えた。

2018.10.03

 昔々の色紙を見つけた

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 先般、大坂の某店に数十年ぶりに立ち寄ったら壁に昔々のぼくの色紙が飾ってあった。
 昔々、ぼくが若い歌人だった頃の歌だ。懐かしい、そして恥ずかしい。けど、ここに記録しておいてもいいだろう。

  昼ふかき公園に鳩くくと鳴き イブ・モンタンのごとき雨降る

 いかにも若書きの短歌。こんな歌を詠んで悦に入っていたのだ。
 それにしてもよく残っていたものだ。書きものは百年も残る、とはよく言ったものだ

2018.09.26

 『吉原はこうしてつくられた』売れている?

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 長いこと「売り本」を書いているが、一度もベストセラーに近づいたことはない。10年ほど前、『悲しき横綱ー大碇紋太郎伝』が丸善のベスト本の1位になり、本屋大賞の候補本にノミネートされたことはあったが、本はさっぱり売れなかった。

 今回『吉原はこうしてつくられた』はちょっと動きがある。自慢話のようで本当は書きたくないのだが、アマゾンの売れ筋ランキングで、江戸の部で6位。日本史一般で108位になった。ぼくの本では異例の上位だ。
 5位も7位も8位も人気の磯田道史氏、その7位はベストセラーになった『武士の家計簿』。それを超えているのだからいい気持ちだ。

 二度とこんなことはないだろうからブログにあげさせてもらって自慢させてもらう。
 失礼!

2018.09.19

 小栗風葉あれこれ 9月例会

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 9月例会は小栗忠彦氏をお招きし「小栗風葉」を語っていただいた。
 彼を紹介する際、ぼくは少々感情が高ぶって言葉がかなり走ってしまった。と言うのは、この地方の人にとって文学者の認知度(リスペクト度)があまりにも低いと常々感じていたからだ。
 「半田生まれの小栗風葉という作家は日本を代表するレベルの文豪なのだ! 夏目漱石、徳冨蘆花らと肩を並べる人なのだ! それなのに地元の人は風葉をあまりにも知らない!」と言いたかった。
 今日の講師、小栗忠彦氏を会場で紹介する時もあえてこう言った。
 「小栗さんは風葉の弟のお孫さん。その親戚には梅原猛や小中陽太郎がいる。梅原先生は日本を代表する作家で哲学者。小中先生は作家で人気のある言論人ですよ」
 そしてぼくは、こう毒舌を吐いた。
 「普通ね、都会ならね、小栗風葉の孫で梅原猛と小中陽太郎の従兄弟の人なら、みんなから一目置かれるよ。しかしこの地方ではね……」。
 ぼくも文学者の端くれだから、ちょっとしたジェラシーがあったのかもしれない。ちょと言い過ぎた。

 講座「風葉あれこれ」は良かった。身内ならではの秘話も聴けて貴重だった。また、機会を持ちたい。

 *写真は講演する小栗忠彦氏と風葉関係書籍。

2018.09.02

 一大事! 玄関に蜂の巣だ!

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 わが事務所の玄関には2つのシャッターがある。一つは入口の扉。もう一つは窓。その窓の方のシャッターを開けると、何と! 蜂の巣があった。
 まだ巣は小さいが、蜂は大きい。10匹は見える。
 怖い。怖い…、

 テレビで時々観る凶暴な熊ん蜂だったらどうしよう。
 テレビで観るような、ハンター業者を頼まなければならないのだろうか。
 一晩考えた。

 まだ蜂の巣も小さいから病弱な俺でも戦える! やるぞ! と言ったらわが女房は「私、大阪の家で雨戸にあった蜂の巣に近づき、蜂に攻撃されて顔が腫れ上がったことがある。私は嫌!」と不戦を宣言する。
 ちょと困ったが、親爺としては引き下がるわけにいかない。

 9月2日朝、敢然と宣戦布告。長袖シャツに帽子、軍手で武装。武器はアースジェット。そして蜂の巣を確保するためのアオキスーパーのレジ袋2枚。
 午前9時30分、天気晴朗さらに風もなし。
 戦闘開始! 
 まずはアースジョットの砲撃! 敵は不意を突かれ数匹は悶絶。しかし2匹はわれに向かい戦闘機のように突進してくるっ!
 さっと避けて、ジェットを噴射!
 そしてわが右手軍はレジ袋で敵の巣を包囲。そして確保。

 わが軍の圧倒的な勝利であった。
 この奮闘は金足農高と同等の感激であると明日の朝刊1面を飾ることだろう。

 以上、大本営発表。

2018.08.31

 ピアノ

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 ちょっと珍しい写真があったのでご披露する。
 ピアノのコンサートの写真だが演奏中を真上から撮ったものだ。この5月の「えすぷりコンサート」。会場は白川ホール。
 演奏者は向かって左が斉藤優子、その右が藤本逸子氏(東海学園大学教授)。ピアノの連弾である。
 その右手のスーツの女性が「めくり」と通称される人。つまり楽譜を演奏者に代わりめくる人。これだってちゃんと楽譜が読めないとできないには言うまでもない。

 曲はモーツアルトの何とか、だったが、なかなか良かった。

 優子さんのコンサートは結構多く、今年だけでこのえすぷりの他、豊橋市と岡崎市に出かけていた。
 11月4日は一宮音楽家協会の定期演奏会が一宮市の尾西信金ホールである。ご希望の方にはチケットを差し上げると言っている。よろしければ。

 

2018.08.20

 8月例会

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 お盆明け。酷暑。良い条件ではないので心配していたが、満席に近い例会だった。
 「大紡績顛末記 その2」は、山口孝司氏。(写真㊨=7月例時のもの)
 「明治38年 内海尋常・高等小学校高等科女子の生活の様子 ー同年盆三日の日誌をもとにー」は、松下孜氏。(写真㊧)
 さらに、小島保幸氏が小島家文書をまとめた「幕末異国船渡来に関する文書」を60冊もお持ちいただき、先着60名に無料配布。その内容などをご説明願った。

 実に中味の濃い8月例会であった。

 松下氏のご発表「明治38年の女子生徒の生活」は実に興味深い。日誌の女子生徒は今でいえば小学5、6年から中学1年生の年齢の子。彼女たちの一日をおおよそ正確に知ることができた。
 この子たちの起床時間はほぼ朝5時。就寝は夜10時だった。ランプの時代なのに夜更かしだ。朝は暗いうちに起きている。
 この子たちの遊び。そして家事の手伝いの様子。日誌だから衒いもなく書いている。掃除や子守ばかりでなく、機織り、桑の刈り取りなども長時間している。遊びは「駆けっこ」「海水浴」。
 ごく普通に感じるが、実に貴重な記録である。
 このような何でもない町屋の記録が後世に残る。そして数百年の後、目を丸くしてこれを読む人がいる。そんなことを思っている。

 大信紡顛末記は7月に続いて山口氏のご発表。淡々と、かつ熱の籠もった弁舌には大信紡愛が迸っていた。
 

2018.08.10

 酷暑お見舞い申し上げます

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 連日の体温を超える暑さ。尋常ではありません。
 公園の蝉も「アジィー、アジィー」と鳴いています。

 そこで暑気払いに小さなプレゼント。
 挿絵を見て、少しはゾッとしてください。

 では、・・・・・。

2018.07.16

 知多半島は天領だった

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 半田市民憲章講演会に呼んでいただき「知多半島はふしぎな国だった」を講演した。150席が満席。立ち見が出た。嬉しい、ありがたいことだ。
 「知多郡は地理的には尾張国だが行政的には違う。尾張藩札も使えない幕府直轄地。つまり家康の国なのだ」
 と再々、あちこちで話してきた。
 どこで話しても、どうも反応が悪かった。つまり知多半島の人(半田の人は特に)は、「ここは尾張名古屋の支配下にある」と思い込んでいたようだ。だから、ぼくの論説には冷たかった。
 相当に物的証拠を示しても信用したくない、ようだった。

 ぼくは知多半島が尾張国だろうが三河国だろうが、幕府直轄地だろうが構わない。どうぞお好きに、と言いたいとさえ思っていた。

 ところが今回の講演会は反応が違った。ご聴衆の多くが頷いている。頷いているのだ。
 どうもぼくは良い気持ちになって、ノっていたようだ。
 妻の優子は「今日の講演はここ数年で一番良かったよ」と言う。
 ともかくぼくの主張(調査)が通用してよかった。
 「知多半島は家康の国、つまり天領なのである~っ!」。

2018.07.10

 豪雨災害・被災お見舞い そして雑感

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 西日本の豪雨災害により被災された皆さまに謹んでお見舞い申し上げます。
 一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。

 西日本の豪雨災害のテレビのニュースを見ていて「広島県三原市も被災、死者も出た」を耳にした。三原市はぼくが東海近世文学会でお世話になっている島田大助先生(豊橋創造大学教授)のご実家のあるところ。島田先生には当会の3月例会にもおいでいただきご講義を願ってもいる関係だ。
 メールを送り、ご実家の安否を訊いた。大災害だから無事ということはないのだが、特段の被害はなかったという。一安心であった。

 その後、ぼくがこんなメールを送った。
  ○
 天変地異の猛威への恐怖は直面したものしか分かりませんね。テレビで見る被災現場も凄いですが、所詮、他人事です。ぼくは阪神淡路大震災の被災者ですので(軽度ですが)他の災害を見るたびにあの猛烈な揺れの恐怖を思い出します。
 ついでに思い出すのがこれ。
 震災は平成7年1月17日。その週末の22日に博多で講演の仕事が入っていました。
 先方の主催者は再々連絡をとろうとしたようですが、2、3日は電話は不通。数日後、ようやく電話が通じた。だが先方の心配はぼくが来るのか、講演が予定通りできるかどうかばかり。「こんな大震災も案外、他人事なのだな」と痛感。
 そして当日、大阪から博多まで山陽新幹線は不通。山陰線廻りはあったのですが乗り換え、乗り換えで気の遠くなるような時間がかかりそう。そこで名古屋まで戻り、小牧から飛行機で博多へ行きました。
 指定のホテルに着くと先方の担当さん。「関西は大変ですね・・」と儀礼的なお見舞いのあと、「博多は水不足で大変なのです。このホテルも夜の11時以降はお風呂に入れません。不自由です。不自由です。」と嘆くことしばし。
 風呂ぐらいなんだい、ぺちゃんこの神戸の街を見せてやりたい、と思いました。
  ○
 このぼくのメールに島田先生から返信。(これは島田先生に無許可での掲載です。多少は人の災害意識の啓発になるものと強引に思い・・、叱られないことを祈る)
  ○
 私(島田)も同じような経験をしました。
 阪神淡路大震災後の2月に友人の結婚式に参加するために三原から東京へ行きました。飛行機は満席、結局、神戸の市内を一部、バスと徒歩で移動し、東京へ行きました。9時間くらいかかったと思います。
 結婚式に参加し、移動が大変だったと話したところ、友人の新郎から、何かあったっけという返事が返ってきました。別の国にきた感じでした。

 どんな大震災も他人事なら痛みはない。対岸の火事。
 別に教訓めいたことを言うつもりはないが、他人の痛みを己の痛みと思えるようになりたいものだ。これは、ぼく自身へのメッセージでもある。
    *写真はぺちゃんこの当時の神戸

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